三年前 16
「僕、見に行ってきます」
新良は、橋の奥へと向かおうとする。
「待て、行ってはならぬ。お主が行っても、ただ犠牲者が増えるだけだここにいろ!」
その言葉に、新良は振り返り黄洋を見た。
「では、どうすれば良いのですか?」
「皆が来るのを待つのだ」
黄洋が言っていると森の入口付近に、人の姿が現れた。まるで逃げ去るかの様にその者は、もの凄い勢いで橋の手前まで走って来た。新良達が居る場所まで来たとき、その者が季透だと分かった。
彼は新良達の側まで来ると、立ち止まり息を切らしながら「ああ…驚いた」と、一言呟く。
「何が起きたのだ?」
黄洋は、季透に話し掛ける。
「さあ…なんだか良く分からないが…。例の唆丙の仲間等の誰かが何かしたらしく、突然何か起きて…とにかく俺は何が何だか分からず逃げ出して来たのだよ」
その言葉に、黄洋は季透の頭を小突く。
「痛いな、親父…、何をするのだよ」
季透は頭を押さえながら言う。
「訳も分からず逃げ出して来るな。周りを良く観察してから行動を取れ!」
「やかましい爺だな…」
季透は小声で呟く。その時、橋の所に新良と橋の隅に理亜が腰を下ろして居るのを見て、
「あれ、何でお前等ここに居るのだ?」
「ちょっと、父さん達の事が心配になって追い掛けて来たのだよ」
「おお…、何て立派な心構えなのだ。君達は緑谷島一の親孝行だな」
そう言いながら、季透は新良を抱きしめる。
季透が新良と一緒に居る中、黄洋は理亜の側へ行き
「嬢ちゃん、ちょっと良いかな?」
彼は少し声を潜めながら言う。
「はい…」
理亜は返事をする。
黄洋は小声で何か理愛に向って話し掛ける。
「私は、その様な事は絶対に認めません!」
理亜は大声で息を荒くしながら答えて、まだ…ふらつく体を起して黄洋から遠ざかる。何が起きたのか話を聞いていなかった新良と季透は、不思議そうな表情を浮かべる。新良は自分の横を通り過ぎて行く理亜を見ると、涙目で橋から風輝の居る方へと向かって歩いて行く。
「どうしたの?」
新良は声を掛けて理亜の後を追い掛けて行く。
「おい、何を言ったのだよ親父?」
季透は、黄洋に話し掛ける。
「いや…、ちょっとな…」
「ちょっと、何を言ったのだよ?」
「もしかしたら、恐ろしい獣が森の中から出てくるかもしれない、その時、あの娘に皆を残して森の入口に結界を掛けて閉ざして欲しいと言ったのだ」
「親父…ちょっとは考えろよ、危険を承知でこんな場所にまで来た二人に対して、そんな言い方をすればそれは怒るに決まっているだろ」
「分かっている。しかし…本当に森から獣が飛び出してみろ、島で暮らす我らは瞬く間に混乱に陥り、多くの住民達が行き場を失うのだぞ」
「それは、あくまで最悪の事態の場合だろ?森には、まだ腕の立つ猟師の親父さん達が居るではないか、少しは彼等の腕を信用しろよ」
季透にそう言われると、それ以上黄洋は何も言わなかった。
風輝の側へ戻った理亜は鞍に寄りかかり涙を流していた。新良は何も言わず理亜を見ていた。しばらくして理亜は振り返り新良を見上げる。涙で濡れた顔で話し掛ける。
「何よ、あの爺さんは…自分の都合ばかり考えて…。よく考え直せば今回の原因は、あの人と唆丙と言う人物が巻き起こした結果じゃないのよ。それでいて全てを他人任せにしよう…何て、あまりに都合が良すぎない?ねえ新良…貴方はどう思う?」
「僕は、お父さんさえ助かればそれで良いと思っているけど…」
その言葉に理亜は、少し溜息を吐いて、
「そうよね、私達がここへ来た理由は、お互いの父を助ける為だったよね忘れかけていたわ…」
その言葉を聞いた新良は、笑みを浮かべる
「とりあえず、僕は森の中へ行って見るよ」
と、理亜に向かって言う。
それを聞いた理亜は、悲しそうな表情を浮かべながら、
「無理をしないでね、危なくなったらすぐに逃げるのよ」
「有り難う」
新良は答えて橋の手前から走り出して行く。
橋の中央部に居る、黄洋と季透の二人の前を通り越して、新良は森の入口へと突き進んで行く。黄洋と季透は、自分達の手前を越えて行く新良を見て、「こら、子供だけでは危ないぞ!」と、二人声を揃えて言う。
「大丈夫!」
新良は軽く手を振って突き進んで行く。それを見ていた黄洋は季透に向って捕まえて来い」と、命令口調で言う。
それを聞いた季透は、嫌そうな表情を浮かべると、黄洋は持っていた杖で季透の尻を叩き「さっさと行け!」と、大声で言う。
森の入口付近へと来た新良は、周囲を見渡す。入口付近は細い道になっていて、橋の様な形がそのまま森の中まで続いていた。
辺りは鬱蒼とした森が周囲を取り囲み、灯で照らさないと周りが見えない状態でもあった。新良は、そんな森へ一歩踏み出そうとした時、森の奥から「グオオー」と、獣雄叫びが聞こえた。
次の瞬間、森の中から数人の男性達が逃げ出して来た。男性達は新良に目もくれず、その横を通り過ぎて行く。その後、弓を構えた数人の猟師達が弓矢を放ちながら後退して森の中から現れた。その中に、見覚えのある姿があった。
「新良君」と、声を掛けて来た。
五十代の男性が、新良の側へと近付いてきた。男性は丸い顔立ちで、目が細く、クセッ毛のある黒髪で、髪は逆立っていた。背丈はあまり高くはなかった。新良は男性に向って「敬宇さん?」と、声を掛ける。敬宇と呼ばれた男性は汗を流しながら顔や手等に無数の引っ掻き傷があり、衣類には、木々の葉が付いて所々破けていた。
「どうして君が、この様な場所に来ているのだね?」
敬宇は、不思議そうな表情で話し掛ける。
「それよりも父は無事ですか?」
「ああ…今、獣達と応戦してるよ、ホラ…向こうで」
新良は敬宇の指した方向を見る。そこにはたった一人、獣と弓矢で格闘している登武の姿があった。少し後退しては矢を放ち、また少し後退をする。それを繰り返して森の入口まで戻って来ていた。
新良は、父の側へと行こうとした、それを見た敬宇が「待て!」と言って、新良の肩を掴み止める。
「何ですか?」
新良は敬宇の掴んだ手を振り払おうとした。
「今は危険だ、あれを見ろ」
敬宇の言葉を聞いた新良は前方を見る、父の足が止まったその先の木々の影の中から、大きな足音が響いて来た。やがて周囲の木々の間から巨大な獣の姿が現れた。森の入口に立っている父、登武の背丈とは比較にならない程の大きな姿の生き物が森の入口に姿を現した。全身を体毛で覆われていて四本脚で歩くその足先には、鋭い爪が生えている。頭部には、銀色に光る眼と牙の生えた大きな口、逆立ったかのように生えている耳があった。
大きな獣は、二本脚で立ちあがると「グオオーッ!」と、再び雄叫びを上げる、その雄叫びを近くで聞く、新良は、耳を塞ぎたくなる程の、大きな声だった。獣が立ちあがった時の背丈の高さは、登武が子供の様に思えてしまう程の大きさであった。
登武は獣の姿に対して少しも怯む雰囲気を見せず、手にしていた弓矢を構える。獣の体には、無数の矢が刺さっていた。登武は弓矢を引くと、獣の顔を目掛けて矢を放つ、放った矢は見事、獣の顔の中心部に当たり、獣は激しくもだえる。その隙に登武は、持っていた短剣を抜き取り獣の首へと目掛けて投げ飛ばす。
短剣は獣の首に刺さり獣は倒れる。相手が身動きしないのを見ると、登武は一息吐いて後ろを振り返る。
後方の森の入口に新良と敬宇の姿を見付けると、登武は嬉しそうな表情で森の入口を目指して歩き始める。
「敬宇。新…お前…」
登武は大声で言う。新良は父の側へ行こうと駆けだす、その時だった。敬宇が…何かに気付く。
「登武、後ろ、危ない!」
と、大声で叫ぶ。
振り返った登武が後ろを見ると、倒れた筈の獣が起き上がり、狂ったかのように登武に襲い掛る、勢い良く飛び込んで来たため、一頭と一人はそのまま細い道の上から崖の下の暗闇の中へと落ちて行く。
「お父さんー!」
新良は父が落ちた崖まで走って行き、暗闇の中を探すように見つめる。
「新良、無理だ諦めろ!」
敬宇が大声で、新良を抱きしめて崖から遠ざける。
「父は、この下に落ちただけだ、まだ助かるよー!」
敬宇の腕から必死に逃れようとする新良、もがく子供に対して、敬宇は力づくで森の入口まで、新良を遠ざける。森から遠ざかる程に、新良は叫び声の様な声を発する。その光景を少し遠ざかった位置から見ていた季透は、
「何をしているのですか?」
と、不思議そうな声で言う。
季透に気付いた敬宇は、もがきながら喚く新良を抱き抱えながら、
「おお…良い所に来た、すまんが…この子を捕まえてくれ。結界を張りたいのだ」
と、言い、季透に新良を手渡す。
「やめてー、お父さんを助けたいんだー!」
新良は、季透の腕の中から必死に手を伸ばす。
敬宇は不思議な言葉を発し、森の入口に念じると虹色に光る幕が現れる。
結界が張られたのを見ると、新良は力無くその場に座り込む、
「何で…、何で…、お父さんだけを身捨てるの…」
新良は涙声で言う。
「悪く思わないでくれ、島を守る為にこうしなければならないのだよ。登武を助けたいのは私達も同じだった。大切な友を失った悲しみは君程では無いにしろ、とても悲しい…。しかし、あの様な状況から人が奇跡的に生還する事は有り得ないことだ。君も大人になれば分かる時がくるよ。今日の、この時の私達の行動が決して間違っていなかった事が…」
新良は、涙を浮かべながら滲んだ視界の中に敬宇を見ていた。
森の入口に居た三人は、しばらくして橋の手前へと戻る事に決めた。橋の手前へと戻ると敬宇は、橋の手前に集まっていた人達に対して、事の状況を細かく説明する。
皆は、顔を俯かせて登武の不幸を悲しんだ。新良は呆然とした状態で風輝の方へと歩んで行く。理愛は、父敬宇から事情を聞き、新良を慰め様とするが…、葉が思い付かず、「元気出して」としか言えなかった。
その日の夕刻、黄洋を含む数人の人達が、新良の住む家へ行き聖美に会い、登武の身に起きた出来事の内容を包み隠さず全てを話した。
唆丙と言う名の五十代位の男性が、聖美の前へ行き頭を下げる。
「申し訳ない、私の仲間の一人が、どうしても樹王へ行きたいと申し出て…それで、古い友人の登武に頼んだのがきっかけだった…。樹王へ行くまでは良かった。しかし、同行している仲間の一人が誤って獣に矢を放った事から、森の中で騒ぎが起き始めて、皆逃げる事となった…。登武は最後まで我々の安全の為に闘ってくれた。とても感謝している。この上は、我ら全員で協力して償いをします」
深く謝罪を言う。
聖美は、我が子二人を抱き抱え、謝る男性達に目を向けず黙っていた。それを見ていた黄洋は、聖美に対して「誠に申し訳ない…」と、頭を下げる。
「起きてしまった事を悔やんでも、仕方ありません。失礼ですが、もう…帰って頂きませんか?」
聖美は、男性達に顔を向けずに声を震わせながら言う。
それを聞いた男性達は小声で話し合いながら、皆家を出て行く、その中の一人唆丙が聖美に向って、
「我々に出来る事があるのなら、何でも申し上げて下さい。力になりますので…」
と、一言、聖美向って言う。
「では何を、どの様にしてくれると言うのですか?全てを投げ出してこの島に来た、私達の気持を何も知らず人の気持ちを弄んだかの様な連中等に…一体、他人の気持ちの何が分かると言うのです!」
それを聞いた周りの人達は、何も言えず無言のまま立ち去って行く。
大声を発した聖美の側に居た麗友が、不思議そうな表情で母を見上げて、母の袖を引っ張りながら言う
「ねえ…なんで、お父さんは帰って来ないの?」
それを聞いた聖美は、幼い麗友を抱き締めながら、
「お父さんは、もう…、帰って来ないのよ。遠くへ行っちゃたから…」
聖美は囁く様な声で言う。
「いつ、帰ってくるの?」
「もう…ずうっと、帰って来ないの…」
「早く帰って来て、皆で一緒に食事しようよ、ね…」
その言葉に、聖美は、「そうよ…ね」と、涙を流しながら麗友を抱き締める。
「お母さん…なんで泣くの?お母さん泣くと、麗友も、かなしいよ…」
と、麗友は釣られて涙を流す。
新良は家の中に入れず外へと出て、柵の上に肘を付き呆然としながら空を見上げる。空は薄紫色に染まっていた。ふと…横を見ると理亜が灯を手にしながら側へと来た。
「近所の皆で話しがあって…、これから貴方達の家族を皆で守って行くって、話しが決まったわ…」
理亜の言葉に新良は、何も答えなかった。
しばらく間を置いてから、新良は、呟くように、理亜に話し掛ける。
「僕は…今朝、お父さんに言おうとした事があってね…。大人になったら、お父さんみたいな猟師になりたい…て。あの時、言えば良かった…。たった一言だけだったのに…でも今は、もう…言えない…。どうして…」
新良は顔を俯かせて涙を流す。理亜は隣で新良の背を摩りながら
「皆が、きっと守ってくれるから泣かないで…」
と、涙をこらえながら言う。
―現在…明天暦三二九年 九月中旬
― 大型自動車内
通り過ぎて行く外の風景を見ながら、過去の出来事を思い出していた新良は、知らずに目から涙を流していた。隣に居た李有が新良を見て、「どうしたの?涙を流しているわよ」と、持っていた手拭き布を手渡す。
それを受け取った新良は「すみません」と、言いながら流した涙を拭き取る。
「昔の出来事を、思い出してしまっていたのです…」
「悲しい過去の出来事ね…。人は皆、誰にでも辛い過去の経験、一つや二つはある事よ…。勿論私にだって…それは有るわ」
「誰にでも…ですか…」
「いかなる過去が君にあったのかは、知らないけど…過ぎた事を何時までも悔やんでいては先へは進めない…。過去の経験を見つめ直して、それを飛び越えるよう自分に言い聞かすの、そうすれば道は切り開ける…。なんてね…」
李有は、笑みを浮かべながら言う。
「教訓にします」
新良は、笑みを浮かべながら言う。
話が終わると新良は、また窓から外の景色を見つめる。流れ行く景色の中、既に陽は西へと傾き始めていた。外の景色を眺めながら、新良は、つい…三年程前に起きた出来事を想い返す、(あの時、僕のこの腕がもう少し長かったら…もう少し父の近くにいたら…きっと父を助けられたかもしれない…でも、今はとなっては、もう過去の事…)
と新良は、一人考えながら自分の掌を見る。
しばらくして、車内に座っている人達が、何かに気付いて、ざわめき始めた。それに気付いた李有が、外の風景を見て、
「ようやく港街奥流が見えて来たわね…」
と、外を指して嬉しそうに声を張り上げて言う。
窓際に座っていた新良は、外の風景を見る。広大な平原が続く視界の彼方に、わずかながら白色の三角状に突き出た屋根が見えて来た。平原の道を自動車が下り始めて行くと、次第に辺り白色に染まった建物群の街並みが一面に広がって見えて来た。その前方には、青く広がる海を迎え、限りなく広がる風景を見せていた。外に見えてくる大きな港街を眺めて、新良は「奥流か…」と、何気なく呟く。
空は既に陽が西に沈み掛けていて薄紫の空の下、新良と李有、そして多くの乗客を乗せた自動車は奥流の街へと向かって進んで行く。




