第二話 暗い過去②
母は知っていたのだ、もうすぐでおおきな津波が来ることを。だから安全なところに逃げる準備をしていたのだ。
「もっと、もっと早く行動しておけばよかった……」
泣き崩れた母を僕はじっと見つめることしかできなかった。
なにかわからないものが、胸の中からこみあげてきて必死に止めようとしても止まらない。肩が無意識に跳ねる。そう、僕は泣いていたのだ。嬉しいからなのか、怒っているからなのか、悲しいからなのかわからないのに泣いていた。
「おい! 香苗! 雪! 大丈夫か!?」
玄関の扉が勢いよく開かれた先に立っていたのは、親父だった。額に汗を浮かべ、目を見開き、息を荒げている様子から、親父もまた心配性だったといえる。いや心から愛してくれてたんだ、家族を。
「ごめんなさい! わたしがもっと……」
「今はそんなことどうでもいい!!」
親父の一喝が響いた。
愛ゆえのものだろうが、当時の俺にはまだわからなかった。親父がてっきりお母さんを怒ってるものだと思っていたのかもしれない。
「やめてよ……ケンカしないでえ……」
「そ、そうだな。ごめんな、雪」
親父は家に上がってくると、俺を抱き上げ頭を少し強引に撫でた。
「香苗、いまならまだ間に合う。まだ津波は来てないんだ、海面はすごい勢いで上昇しているらしいがまだこの地域には届かない」
「本当……?」
「ああ、本当さ」
親父は車のカギをぶらぶらと振りながら、少年のような無邪気な笑顔で歯を見せた。
「さあ、行こう」
僕たち一家は、車に乗り込みまだ思い出のあさい我が家をでた。
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車を走らせ続けて、もう4時間が経とうとしているころだろうか周りに見える風景は今までに見たことのないものであふれていた。
「まさかもうここまでの被害が出てるなんてな。この日本が海の底に沈むのも時間の問題だ」
「でも、日本政府もこんな事態に対してなにもしてないとは思えないよね、テレビのニュースで言ってたことが本当ならもう少しで大きな壁が見てくるはず」
親父と母は窓の外の異様な景色をただじっと見つめていた。
さっきの大きな壁というのは簡単に言えば緊急用に作られた防波堤のことだ。しかし、あまりの急な事態に日本政府は追いつけず壁で囲えたのは近畿地方の中心部分のみらしい。
「雪? どうしたの? さっきからもぞもぞして」
「おしっこしたい……」
僕は下を見ながらグッとズボンの膝あたりを握った。恥ずかしいわけじゃない、ただ今の状況について少しずつ気づき始めていたものだから遠慮した。小学生でも空気は読める。
しかし、その様子を見た母は僕に気を使ったのかそっと頭の上に手をのせ、よしよしと撫でた。