第一話 暗い過去①
「お母さん? どこか旅行でも行くの?」
母は僕の問いかけに気が付くと、キャリーバックの蓋を閉じた。
僕はその時まだ小学生になったばかりの幼児だったから、なんでも気になればすぐに聞いてしまう。専門用語を使うとすれば、少し遅めの「なんでなんで期」というやつだ。
振り返った母は少し曇りがかった表情をしていた気がする。だけど、僕の着崩したパジャマ姿を見たからかすぐにいつもの優しげな表情に戻った。
「これからね雪とねお母さんは一緒に引っ越すの。いま雪が暮らすこの街とはバイバイしないといけないけど、きっといいところよ。それに……」
母がなにかを言いかけようとしたとき、家が激しく横に揺れた。
地震かと思ったが、揺れ方が地震ではなかった。何かに横からぶつかられたかのような、一瞬の衝撃。築三年もたたない最先端のこの家が地震程度で揺れることはまずありえない。揺れる原因は他にある。それはなんだろう? 見て確かめないとわからない。だったら見ればいいんだ!
幼児はこれまた困ったことに、興味を持ちやすい。ゆえに当時の私は、まだ歩きなれてもいない足で窓へと走り出した。
「雪!? 危ないから戻りなさい!!」
母はなにかを事前に聞いていたからから、この状況が危険だということはわかっていた。わかっているから僕を止めなければならなかった。僕の背中に向けて伸ばした手は二度目の大きな揺れとともに横にはじかれた。
僕は体制を崩したものの、四足歩行で再度進み始める。歩くよりかは断然こちらのほうが足取りは早く、10畳のリビングの端まであっという間についてしまった。
「お願い雪……お願いだから戻ってきてよ……」
母はもう心配で仕方ないのか、今にも泣きそうな顔でこちらを見ている。こっちまでこれないのは、恐怖で腰が抜けてしまっているからだろう。
一方の僕は、そんなことなどお構いなしに家にある一番大きな窓に手をかけた。
その窓は小さい僕の体より何倍も大きく、取っ手は背伸びしても届かない高い位置にあった。が、僕は取っ手を無視して、ガラス部分を手でベッタリとさわり力任せに窓を開けた。
「ねえ! 見てお母さん!!」
僕は目の前に広がる光景を指さし、満面の笑みでお母さんのほうへと振り返った。
「お海さんがこっちにきてるよお」
「う、嘘……でしょ? 間に合わなかったの?」
母は顔面を青く染め、その場にベッタリと座り込んだ。