62話 パラディソス陥落の日-2
主不在の屋敷。その広間は、人でごった返していた。
突如として、出現した影――影犬は、人だけではないその営みをも攻撃の対象としている。
避難してきた住人達が、押し寄せ続けている。
「お、落ち着いて下さい」
《こういう時は、慌てるのが一番ヤバいんだよな。まさか、こんな所で、警備のバイト経験が役に立つなんてな》
若い使用人――黒髪の少年は、冷静に務めているが、如何せん、一人では対処しきれない。
「な、何をやっているんだ!」
神経質な声が、少年の耳に届いた。
「人手が足りないんです。上位騎士は、出払っています。なんとか、バリケードを設置して――」
「お、お前は何を言っているんだ。こんなに大勢、招き入れて――。触るな、それは高価の壺だ……旦那様に顔向けできないではないか……」
執事長は、ここ数日寝込んでいた。
館の主人から、屋敷の全てを任されていた。潤沢な資金で調度品を買いあさり、使用人達へ自由気ままに命令を下していた。
根は悪人ではなくても、欲に負けてしまえばそれまでだ。
焼失した館に、行方不明の大貴族――クラミニア卿。
主不在の内に起きた責任の所在はどこにあるのか。それを他ならぬ執事長が一番よく理解している。
「執事長、ノブレス・オブリージュって言葉知ってますか?」
「……何だねそれは」
憔悴した執事長が嘆息する。
「高貴さは義務を強制する。つまりは貴族には責任があるってことです。元はフランス語で……もっと大学で勉強しとけばよかったな」
「フランス語、ダイガクとは何だね」
少しだけ執事長の目に光が宿った。
「信じられないでしょうけど、俺、前世の記憶がありまして……」
「それは、本当かね。そのような輩をどこぞの国では勇者というらしいではないか。そうか、そうか、勇者か。まだ、挽回できる。いや、してみせようではないか」
《いや、別にチートスキルとかないしな。ただの一般人――元文系の大学生なんだけど……まぁ、なんとかなるだろう》
「その息です執事長。俺達ならなんとかできますよ」
「ガハハッ、そうだな。私は、こんな所で終わらんぞ。いくぞ、我が勇者よ」
苦笑いをしながら、少年は使用人仲間の身を案じる。
『死ぬなよ、レアン』
少年の声にもならぬ呟きを聞き咎めるものはどこにもいなかった。
街外れの鍛工房。
「アンタ、騎士連中からの要請だ。未完成な宝石武具まで持ってこいだとさ」
大柄な白髪の男と念入りな化粧にカラフルな服装が印象的な女。
「……獣人の仕業か?」
「どうだろうねぇ。性質的には宝石魔術に似ているようだけど」
工房を襲撃した影犬を、男は見事に撃退してみせた。
粉砕された影獣は跡形もなく消失し、今ではその痕跡すら見受けられない。
「……あの子は大丈夫かね。結局、私達は何もできなかった。あの子のことを考えたら強引にでも――」
「やめろ」
いつもは寡黙な男が、珍しく声を上げた。
「…………」
「あいつを、レアンを信じろ。あいつは――俺達の息子は、簡単にくたばったりはしねぇさ」
「アンタ……そうだね。私達に今できる最良を尽すのみさね。それはそうと、もう歳なんだから無理するじゃないよ」
男が徐に宝石がはめ込まれたガントレットを両の手に装着した。
「お前こそ、見境なく殺すなよ」
「まったく、そんな昔のことをいつまで言うつもりだい。アンタの女房に収まった時点で魔族からは足を洗ったんだ」
「俺より先に死ぬな」
不器用な愛情表現。
「アンタもね」
女は嬉しそうにはにかんだ。
そして
おしどり夫婦は、数十年ぶりの戦場へと肩を並べて足を踏み出した。




