60話 蠢く獣
「ウェー、ユウウツ。お助けキャラとして参戦、やぶさかじゃない……けどなぁー」
人畜無害な中型犬――ロンは、レアンが去った方角に視線を向けた。
「……とりあえず綿ガシ買おうっと」
涎を垂らしながら縁日で売られる綿あめを想像するお犬様。
首をフルフルと振って、紐でぶらさげた唐草模様のがま口の中身を確認する。
「あれっ? 空っぽ……」
チラッと粉々に砕けたブタ型貯金箱の残骸に目を向けた。
「むいちもん……マニーを稼ぐには、ピカ~ン――」
地面をガリガリと掘り、出現した暗闇。そこから木の板切れと習字セットを取り出した。
悪戦苦闘しながら筆先を墨汁にひたして、柄を器用に咥え上げた。
しゃっしゃと躊躇いもなく書き刻まれるのはひらがな。
それはそれは汚い象形文字のようなひらがな。
「フーッ、やっと、できた」
『ひとなでひやくえん』
目指す場所は賑やかな表通り(バザール)。作り上げた看板をズリズリと引きずりながら一歩一歩着実に進んで行く。
「ウェッ? ……あの、そこどいてワン」
「…………」
真っ黒な大型犬が行く手を塞いでいる。
「ハロー……ニーハオ……どないしてん……ニャー」
いくら言葉を重なり連ねても無反応だ。
それもそのはずだ。大型犬には目も口も存在していない。
辛うじて見受けられる耳にしたって、本物かどうか怪しい。
墨汁で――黒色で塗りつぶしたような。
平面図を無理やり立体にしたような。そうそれは立体化した影と呼ぶのが妥当だろう。
「囲まれてるぅ!?」
前後だけではない。建物の壁を足場に佇む複数の影犬。
完全に重力を無視している。
「縄張りを荒らしは謝るワン。デモ、ボキュ達仲間でしょ?」
ロンはつぶらな瞳で懇願を試みる。
――音もなく影犬達の口元が引割れた。キザキザとした牙まで寸分たがわず黒い。
堰を切ったようにロンめがけて殺到する影犬群。
「――へッ、へル、ミーーーーー」
ロンの鳴き声は、数秒も持たずに塗りつぶされた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
鐘楼堂の上層部――屋根の上から、下界を見下ろす人影がニヤリと口元を歪めた。
まわりにはこれより高い建物は存在しない。
より高い建築物は魔導聖都パラディソスに一箇所しかない。
神殿とは、名ばかりの、王が住まう緋色の宮殿。
この場所からは豪奢な居城がよく観察できる。
「ははっ、最高の気分だ」
手にした酒瓶にピシッと亀裂が入った。
立ち込める湯気からはほのかに果実酒の匂いがする。
目下の街並みに一刻一刻と、黒い点が生まれる。
ヒューンと風切音。
「あん?」
青い装束に身を包んだ下位騎士が気怠そうに声を上げた。
肩口に刺さった矢には、まだ熱がこもっている。
間髪入れず飛来する矢。赤い尾を引いて飛ぶ矢は完全に物理法則を無視している。
「宝石魔術……少しは楽しませてくれるんだよな?」
赤い装束に身に纏った高位騎士が降り立った。
両手剣を構える青年と、チャクラムを携えた少女。
「アナタは何者? 仮にも騎士である御身が統治神に逆らうことは万死に値します」
遥か高見に存在する高位騎士。さらに、数でも圧倒された。
しがない万年下位騎士、ノーマンは、堪えきれず口元を歪めた。
「相手が誰であろうと私達は油断をしませんので」
「ははははっ、平和ボケこれ極まれりだな。なぁ、ダイモス。お前こんなもののために主を裏切ったのか――」
手のひらを顔に押し付けて笑い続けるノーマン。
「何を言っているのです?」
「――何匹殺したら、お前は俺を滅しにやってくる?」
「だから先程から何を言って――えっ!?」
鮮血が少女の顔を汚した。カランと音を立てる両手剣。
青年の両腕は音もなく食いちぎられていた。
少女のようやく状況を理解して、顔を強張らせた。
「そうだ、まだ名乗っていなかったな。俺の名はフォボス。ただのしがない飲んだくれオヤジさ」
深紅の双眸――恐怖が少女の理性を打壊した。
続く少女の狂気に満ちた叫びと爆音。
その中にあってもフォボスは顔色を変えずに、ただ笑い続けていた。




