50話 ゴラシの酒場
ミシッと床板が音を立てた。
建付けの悪い建物。夜中に隙間風の音で目が覚めることだってある。
でも味のある酒場。まるで発酵した果実酒のように、熟成された雰囲気がある。
一朝一夕でこの『ラフィテール』を再現することなんてできない。
なるべく音を立てないように隣の部屋の前を通り過ぎた。
その場所で眠りつくバニカが、はやく快方しますように。それが目下の願いだ。
急な階段を一段また一段と下る。
「……よう、よく眠れたか?」
一拍おいてから、ラフィが口を開いた。
その間が、昨日までは存在しなかった距離感の表れなのかもしれない。
「あんまり」
「そっか。まあ、色々あったもんな。とりあえず座れよ」
「……ラフィ、僕は……」
半立ちの耳がピクリと震えた。今の聴力ならどんな小さなつぶやきも聞こえそうだ。
「謝んな! アタイは別に気にしてない」
「ごめん」
「だから謝んなって。悪気なんてなかったんだろう? ……隠せるもんなら隠したいよな、こんな思いをするくらいならさ」
ラフィの瞳から一筋の涙がごぼれた。
手にしていた木器がポチャリとと音を立てて、水瓶の中に落ちた。
目頭を強引に拭うラフィ。
「――レアン!? バカッ、服が汚れちまうぞ」
「嫌ならやめる」
涙は――悲しみは出し切ったほうがいい。
「……別に嫌じゃねぇけど。……バニカは助かるよなぁ?」
あれからバニカは目を覚まさない。大声で呼びかけても、揺すぶっても反応しない。
呼吸も徐々に浅くなっている。
ノーマの見立てでは、蓄積した植物毒が原因であるらしい。
だいぶ前から、忘却花を摂取していたみたいだ。
「ノーマが医者を連れてくるのを待とう」
「……どうしてバニカはあんな目にあわなきゃいけない? アタイ達、何か悪いことをしちまったのか?」
「バニカやラフィは何も悪くない。悪いのは……」
人が全て悪いというのは暴論だ。
ノーマやアラヤさんは悪人ではない。獣人にだって救いようのない悪者はいるわけで……。
人と獣人、その軋轢。パラディソスはそれが顕著なだけだ。
「――レアン、悪かったな。服が汚れちまったな。ん、おい、レアンどこか怪我でもしているのか?」
失敗した。シャツにまで血がついているなんて気付かなかった。
「大した怪我じゃないよ。それよりさ、ラフィ何か手伝うことはない?」
「お屋敷に行かなくてもいいのかよ?」
「しばらく休むというか……どう考えても解雇されていると思う」
騒動のどさくさに紛れて逃げたわけで、弁明の余地はあるだろうけど……。
ラフィは指名手配されていてもおかしくはない。
ゴラシを出た途端、高位騎士に捕まることは想像に難くない。
ノーマは「何も心配することはないのだ。医者を連れて戻る」と言い残して、どこかに行ってしまった。
あの時、無理にでも引き留めるべきだった。
生死の境を彷徨うバニカを連れて国外への逃避行は非現実的ではあったけれど。
これ以上離れ離れになるのは、得策ではない。
幸いゴラシは無法地帯だ。下位騎士対策さえすれば、しばらくは安全なはずだ。
「とりあえず朝飯にしよーぜ。腹がへっては何とやらだ」
間が悪いことに腹が鳴ってしまった。
そういえば、昨日から何も……。
「ウッ」
突然の吐き気。凄惨な光景が瞼の裏に投影された。
「ど、どうした?」
「何でもない」
懸命に吐き気を押し殺す。
平素を保て、悟られるな。
まだ、始まってすらいないのだ。
湯気が立ち上がるグズ野菜と豆のスープを啜った。
絶品だが、食が進まなかった。
無理くりに口に詰め込んだ。演技に騙されてくれたラフィが何杯もおかわをよそってくれたので、
朝からそこそこの危機に直面した。




