35話 貴族屋敷での新生活-1
屋敷の生活は何もかもが新鮮で、覚えることもたくさんある。
泊まり込みになることも多く。『ラヒィテール』に戻れるのは五日に一回くらいだ。
「針に上手く糸が通せないのだ。レアン、なにかコツのようなものはあるのか?」
ノーマが恨めしそうに問いただしてきた。
屋敷には使用人が数十人いる。それぞれに、持ち場がある分業制だ。
見習い期間らしい自分とノーマだけ決まった持ち場がない。
「レアン、どうしてそんなに要領がいいのだ? 皆がお前のことを褒めておる」
ノーマが練習したいと泣きつくので使用人服の上着を渡す。
庭木の剪定をしている時に、右袖が破れてしまった。自分でこっそり縫うつもりだったけど。
「普通だよ」
「そうか。吾が人並以下なのか」
ノーマは何かと落ち込みやすい。自分には能力がないので仕事任されていないと考えているようだ。
まだ幼いのだ。大人と同じように仕事をこなせなくて当然だと思う。少なくても獣人の子供は他人の評価で疎外を感じはしない。
未熟な自分自身に歯痒さを感じて、必死に鍛錬するのだ。中には、そんな風に生きられない少数派もいるけれど。
「ノーマはすごいよ。その歳で働いているんだ」
「そういうものなのか? ゴラシ地区では幼子も働いていると聞きおよんでおるのだが」
「ゴラシはたしかに荒れているけど、孤児とかはいないんだ」
「どうしてだ?」
ノーマが目を細めた。
「獣人は仲間意識が強いからじゃないかな」
知人には、血のつながりを超えて暮らしている獣人の家族もいる。
「ゴラシは獣人街ではないのだろう」
「……そうだけど」
深くは考えたことがなかった。あそこには獣人以外も暮らしているのに。
「まあよい。どうだ吾の成果は」
満面の笑み。受け取った上着を確認すると……。
「どうだ?」
「……よく縫えている」
これでは袖に手を通せないけど。
「着てみてくれ」
「……ごめん」
「……吾はゴミクズだな」
ノーマが項垂れた。
「だったら一緒に練習しよう」
「……よいのか? 吾と仲良くするとろくな目には合わぬぞ。みな吾に愛想を尽かして去って行く」
ノーマは一人ぼっちだ。別に虐げられているわけでも、差別されているわけでもないと思う。
彼女に話しかけるのは上位騎士だけ。使用人たちは彼女がまるで存在していないかのように振る舞う。
ノーマは決まった仕事を与えられていない。使用人が暮らす離れで暮らしているわけでもない。
ノーマの扱いだけではない。ここで働き始めて一月がたつけど、屋敷の主を目にしたことはない。
他の使用人から聞いた話では、ここは別邸とのことだけど。
わからないことだらけだ。でも、正直に白状してしまえば思っていたよりも平和だ。
無理難題を押し付けられるわけでも、苛烈な環境で暮らしているわけでもない。
下手をしたら生活の質は向上したのかもしれない。それでも、ゴラシでのあの日常に戻りたいと思う。
「――レアンは変わり者なのだな。よかろう、吾の練習につきあわせてやるぞ」
「お手柔らかに頼むよ」
故郷から逃げ出した。流れ着いた場所で居場所をみつけた。そして、今、ここにいる。
人生は思い通りにはいかないものだとつくづくと実感する。
それでも変化する環境に適応しようともがく自分に少しだけ恐怖を感じる。
いつか故郷のことを完全に思い返さなくなり、ラヒィやバニカのことも、ただの思い出となってしまうのだろうか。




