29話 そして、人間らしく-1
「ううっ……もう朝か」
日が差し込むのが、窓だけとは限らない。薄い木壁の隙間からも光は届く。
掃除はしていても、部屋自体が快適になるわけじゃない。掃っても、掃っても埃は積もるし、安酒の匂いは消えない。
それでも――
継ぎ接ぎだらけのシャツを脱ぎ捨てて、深緑色の作業服に着替える。上下が一繋ぎになっていて厚手の生地でできている。
鍛冶職人や大工はみんな似たような格好をしている。なんの技能もない下働き兼小間使いの俺だけど、いつかは家庭をもって、一端の生活を送ってみたい。
そんな目標を考えられるくらいには、余裕がでてきた。
さて、今日も頑張ろう。
「おっと、忘れるところだった……――」
簡素な紐に、括り付けた宝石。丸くて淡く光っている。
首からぶらさげて、外からみえないように作業服の下に隠す。
「さて、今日も頑張りますか」
薄いドアを開けて、みしみしと音をたてる廊下を踏み抜かないように慎重に進む。
傾斜のきつい階段を降りるときは女性を扱うように優しく繊細に……これは家主の教えの一つだ。
「この寝坊助やろう、いい御身分だな」
件の家主が豪快に笑った。彼女――ラヒィは、とても働きもので、誰よりも遅く寝て、早く起きる。
今はジャガイモの皮を手早く剥いている。昨夜の荒れた状態を微塵も感じさせないほど店は片付いている。
とはいっても、真面な椅子は数える程しかない。椅子は木箱で代用。机は衝撃に晒されるたびに、添え木をされているからもはや原型を留めていない。
それでも、店は繁盛している。クズ肉や野菜くずが原料のはずなのに、彼女が手を加えると絶品の料理に変化する。
安い果実酒しかないけれど、『絶対に水で薄めたりしない』をモットーにしているので近隣の店に比べればずっと良心的だ。
彼女の並々ならぬ努力のおかげでこの『ラヒィテール』は繁盛している。無論、ガラの悪い客も多いけれど。
「昨日はすいませんでした」
「なーに、気にすんなよ。レアンのおかげで胸がこーうすーっとしたぜ」
ラヒィが豪快に笑った。茶色の髪に革製のエプロン。一番印象的な尻尾が揺れている。
茶色の尻尾。犬の尻尾よりずっと長い。
ラヒィはキリク族――猿の獣人だ。
「何だじろじろ、アタイの尻尾を見つめやがって……もしかして、ふむ、それなら納得だ。レアン、お前、特殊性癖の持主なんだろう」
「えっと、それはどういう……」
「アタイは常日頃から考えていたわけだ、レアンみたいな良い奴がこんな掃き溜めにいるのはおかしいってな。真っ当な人間は、まずこの界隈に近づいたりしない」
「俺は運がよかったと思ってますよ。ラヒィさんと一緒に暮らせて」
何故か、ラヒィが顔を赤くしている。
「……この天然たらし野郎が、アタイみたなのに気を使うんじゃねぇよ!」
「いや、本当にそう思っているので」
「やめだ、やめだこの話は。それよりさっさと朝飯くっちまいな」
ラヒィが木製の器にスープを並々とよ注いだ。
湯気が立ち上って、とてもいい香りがする。
腹の音が鳴った。
「いや、金子がこころもとなくて」
給金の支給日まで、まだ十日程ある。
体力勝負の仕事なので、どうしても腹がへる。
一日三食は思った以上に費用がかかる。
「いつも言っているだろう。遠慮するなって。部屋代だってもらっているんだ」
「でも」
「わかった、わかった。これは昨日のお礼だ。それなら文句ないだろう?」
「悪酔いした客を介抱しただけです」
実際は、酔って他の客に絡んだ客を外に放り出しただけだ。
「だったら、このラヒィ様特製の激ウマスープを捨てるだけだ」
ラヒィが器を乱暴に手に取った。
「食べます。食べますから」
慌てて、ラヒィから器を受け取った。
間地かで匂いを嗅いだら、食欲を抑えられない。
「どうだ美味いか?」
「モグッ、おぃひぃです」
「そっか、そりゃよかった。お替りもたんまりあるから、どんどん食えよ」
ラヒィが屈託なく笑った。




