明日を生き抜くために
それは苛烈な拒絶だった。凄まじい熱気が身体を薙いだ。
熱いと訴える感覚は、だいぶ前に蒸発した。
それは精神まで凍てつかせる承認だった。
痛いと泣き叫ぶ感覚は、脆くも砕け散った。
心に刻まれてしまった絶対的な力の奔流。思い出すだけで、存在が欠き消えそうになる。
詳細は、不明。せめてもの抵抗として、熱くて冷たくて、苦しい記憶はどこまでもぼやけている。
死の記憶なんて、後生大事に抱えていてもしょうがない。どうにかなかったことにできないものか。
楽しい記憶だけ、好ましいと思う記憶だけ引き継ぐことができるなら……。
トライする価値はある。自分を自分たらしめる記憶だけを手繰り寄せよう。
舌足らずな言葉。拙い口調……。
ちゃんと覚えている。
「全ては猿の児戯……」
ブタ型の貯金箱を白い前足が突いている。ジャラジャラと音をたてる空腹のブタさん。
中に十円玉しか入っていないことを俺は知っている。
何でも綿あめを縁日で買いたいんだとか……。
小学校の友達にあてられて1パック150円もするカードを、買ってしまったらしい。
ぐちゃぐちゃに丸まったノーマルカードは紛れもなく紙クズと化している。
機嫌は正直、よくないだろう。だからって、俺は遠慮もしなければ、小細工をして縋るような真似はしない。
「異世界転生したいよ、イヌえもん!! 大長編はじまるよ――!」
「ウェー」
垂れ耳の偽ビーグル――ロンはだるそうに尻尾を揺らしている。
「NOなのか」
「駄目に決まっている!」「ブラック団体に所属しているリョクならともかく」「アオは、そこまでストレスを抱えていないはずone]
「でたよ、差別発言。俺のほうが人生ぐちゃぐちゃだもんねっ、キラッ☆」
「裏声、クソキモイワン]
「……そっか、俺はスライムになれないのか」
空き缶があったら蹴とばしている。
「あわわっ、歪過ぎるone」「スライムってあれワン」「理科の実験とかでつくるベトベトの奴」
「もし、アオがスライムなんぞになったら」「二度とモフモフさせてやらない」
「別に、ロンはそこまでモフモフじゃないからいいですーっ」
「ウエェーッ、殺意を押さえられない」「あわわっ、ワシの右手が真っ赤に燃える」
良い兆候だ。もう一押しだ。
「じゃあ、スライムはいいや。人類なんちゃら計画みたいな最後になったらやだしな。だったら、お手軽な異世界転移で我慢する」
「それなら、やぶさかじゃないワン」「ならどこ行きゅっ?」
満面の笑みをつくるお犬様。トラウマが再生れそうになるのを必死に押さえつける。
『保護欲を満足させたい♪』でてくるなっ悪しき記憶群。
「いや、一人で行くよ」
脂汗がでそうだ。
「……ウェー。単独で異世界に……危ないワン」
「だ・か・ら。素敵なスキルをおくれよ。例えば、死んだら時間を遡るとか」
「不死者?」
「少し違うな。あくまで時間を遡る。でもって、俺だけがその時の記憶を保持しているんだ。しかも、そのことを誰にも喋れない」
「燃費悪っ!」 「よっぽど不死にするほうが手間がかからないと思うワン」
「だったら、プランBだ。駄女神様と個性豊かな仲間達をおくれっ!」
「アワッ」「だったらワシが随行すればイイことですたい」
「ぐぬぬっ」
ぐうの音も出ない。ロンがやれやれと首を振る。そして
「どうせ異世界に行くなら、商売をしてはどうかねっ、アオト君」
「でも、俺には特別秀でた技能はないんです」
「ワシ、パンケーキ焼ける」「あとはインスタントコーヒーがあれば何とかなる」「タレーラン異世界一号店ですタイ」」
「パンケーキか」
ロンがパンケーキを焼いている姿を自撮りして、動画サイトに投稿。某国航空宇宙局のエージェントにハントされかかった――パンケーキ事件は記憶に新しい。
何よりバリスタをなめ過ぎた。
「緑がそばがどうとかって言っていたけどワン」
あいつ相当きているな。今度、酒を奢ってやろう。
「俺は――」
「皆まで言わなくていいワン」「小麦、そば粉やコーヒー豆の供給源はどうするかってことワン?」「ルートは確保できるけど、初期投資がかかる。ふむっそこで提案ですっ!」
悪い予感がする。
「雀の涙ほどの有り金をよこせっ!」
ロンが飛び掛かっかてきた。勿論、本気ではないのだろうけど、迫真の演技だ。猛獣の所業。
「――わかった。わかったからやめて下さい」
泣き目になりながら、財布を取り出す。地面に落ちた二つ折り財布をロンが器用に開ける。
「けっ、しけてんな」「これじゃ大して買えないですタイ」
「お犬様、何を購入するので」
「古本ワン、古本、ビブリオ異世界支店の開幕ですタイ」
「さて、需要があるかねぇ」
「エルフとか魔族とか知的欲求に餓えているであろう連中に売りつけるワン」
すごい邪悪な顔つきだ。
つまり、異世界で商売をするのは許容範囲とことだろう。
「でも、違うんだよなぁ。俺が目指している場所は……。コホン、俺はガチガチの異世界冒険譚が好きなんだよ」
前世の知識を活かして系も嫌いではないけれど、どうしたってそれは現実の技能や経験が必要になる。
俺にはそんな変換できるスキルはない。
「アワワッ、少年漫画、夢み過ぎワン」
「冒険心は不滅なんだよ」
ロンはわりかし頑固だからな。秘密兵器をそろそろ繰り出そう。
左の本棚――趣味のスペースから、虎の巻を取り出す。
「おい、アオ!」
「どうしたお犬様」
「ワシ、怒っている。これは何ですタイ」
「何って、漫画とか小説だけれども」
ジト目で、ガジガジと紙束を齧る中型犬。
「あわっ、全然、悪びれていないワン」
「別に、問題ないだろう。逆に褒めてほしいくらいだ」
漸く幼少期のトラウマから脱却できたわけだし。
「飼い主が転生なんかした日には、良犬ポイントが目減りするワン」「もしかして、ワシ、嫌われている!?」
「全然、良犬じゃないだろう。どちらかと言えば駄犬だろう――」
「しゅん。トボトボ……」「育て方を間違えたワン」
擬音を口ずさんだ所で、全然、可愛くない。そんな付け焼刃、俺には通用しない。
「あざといなぁ、ロンさんは何がしたいんだよう」
「ウェー、別に他意はないワン」「ただ――」
その先は再生されない。そもそもその先は存在していないのかもしれない。
だって、俺が生前生活していた日本というところでは、『犬』と呼ばれる動物は決して喋らなかった。
ただの妄想か。最悪それでも俺の優位せいは揺るがないはずだ。部族の連中は高層ビルだって、電車や車だって見たことがないんだ。文明の力の前では腕力なんて何等の価値もない。
もう少しで、目が覚めそうだ。不鮮明でも、間違いでも、前世の記憶に縋らなければ良い獣人を演じられない。
また、最悪の一日が幕を開ける。




