05 深海 著 銀河 『門出』
Ⓒ奄美剣星「神獣の狼」
マブシイ……
ココハ、ドコ?
マッシロ
ヌクヌク
キラキラ
マッシロ
ヌクヌク
キラキラ……
ここはなに?
なんてふわふわ……雲の上にいるようね。
どうしてこんなところにいるのかしら。
きゃっ! 雲が分厚い。うまってしまったわ。
なんてあたたかい……
白くて。輝いていて。ここはなんだか、ものすごくなつかしいところね。
声がきこえるわ。
とても遠くの、下の方から誰かが叫んでいる。でも、よく聞こえない。
ここはあたたかすぎて、とけてしまいそう。
ほろほろとろけて、なくなっていくような気がする。
ほろほろ
ほろほろ……
白くて。輝いていて。あたたかくて。なつかしい……
ほんのりあたたかい光が雲を照らしている。
風が吹き抜けていく。
生暖かい風。ああ、雲が割れた――
雲の合間に、誰かいる……
なんてきれいな虹色の輝き。
もしかして……母様?
私をかわいがってくれた偉大な神獣――優しき牙の王は、最期まで気高かった。
『黄金の娘よ。我は天河へ昇る。我を船に乗せて送り出せ。
これからはおまえが、兄弟たちを導くのだ』
リュカオーン母様、ごめんなさい。
私はたった五百年しか牙王の座にいられなかった。
あなたはその三倍もの年月、兄弟たちを統べ、守り、育んだというのに。
それどころか黒き森連なる大国を、あまたの神獣たちから守りぬいたというのに。
時が経つにつれ兄弟たちは次々寿命で動けなくなり、我らが身を寄せる国は森の中に沈んでしまった。
私が率いていた狼たちは、ほんのわずか。なんとか数回、戦のお役に立てた程度。偉大な母様に比べれば、とても恥ずかしくて堂々と言えぬぐらいの生き様だった。
でも私は、後悔していない。
一番守りたいものを守ったから。兄弟と同じぐらい大事な者の命を、守れたから。
だから母様、どうかこうしておそばに戻ることをお許しくださ……
――「いらっしゃいませー!」
えっ?
母様じゃ……ない?!
虹色だけれど、人の形をしているわね。
頭に猫耳? 短いスカートにひらひらエプロン装着?
ね、ネコ……うう、一番いやなものが現われるなんて、ここはほんとうに天上なの?
くいくいと招き手をして、ひどく怪しいわ。
「ご来店ありがとうございまーす。当店へお越しのお客様、今日は大変なラッキーデイですよー! 開店五十周年の記念日でーす!」
は? お店?! 開店?! 五十……?!
とするとこの両手組んでサッとお辞儀をしたこの猫耳娘は……店員?!
って何のお店の?!
「はーい♪ 天上の雲の屋台へ、ウェルカムですう!」
仰天しているうちに、いきなり白い雲が割れたけれど。そこに何か、建物のようなものがあるわね。
たしかにこれはまごうことなくお店だわ。
渦を巻いている白い大きな屋根。もこもこの柱。ふわふわのカウンターと椅子。みんな白い雲でできているのね。
雲の椅子はどれだけあるの? ずいぶんたくさん並んでいるわ。いろんな生き物が座っている……
あれは我が眷属? 飼い慣らされている子のようだけど。そっちのは猫ね。ネズミ、牛、虎、ウサギ、竜ヘビ、馬、羊、サル、鳥……
むろん人間も。なんかへんな魔物もごっそり。
雲のお皿に蜘蛛のジョッキ。みんなが食べているものはなに?
「さあさあ、そこのお席にどうぞ。今日は開店記念日ですから、きっとすごくいいことありますよぉ。オーダーは店主に直接おねがいしまーす」
虹色の猫耳娘にすすめられて、もこもこなカウンター席の雲の椅子に座ったはよいけれど。
店主というのは……
「やあいらっしゃい。お美しい方じゃのう。さて、何にするかね?」
黒い衣をまとった白い髭のおじいさん?
もこもこの雲を両手に持ってニコニコしているけれど、もしかしてここで出されるのは……雲なの?
「好きなものを何でも作ってやるぞい」
「お客さま、おすすめは雲のワタアメですよ」
ああ、猫耳娘が親切にまとわりついてくるわ。猫は苦手なのに。
「夏季限定で今年はキャラメルフレーバーシリーズを展開厨でーすっ。練乳キャラメルは甘党におすすめ。ビターキャラメルは大人のお味。あ、タバコとお酒はハタチになってから。お客さま、享年おいくつでした?」
「……千五百十五歳だったかしら」
「わあ! ご容姿からは想像もできないぐらいのご長寿だったんですね! それじゃあピンクの雲カクテルはどうです? おしゃれで大人のお味で最高ですう」
「これこれ、まーた自分の好物をおしつけるでない。ほれ猫耳ちゃん、お客さんがまたきたぞ。出迎えしてこんか」
「ああんもう。店長あたしばっかりこきつかう~っ。ねえねえ兄弟子さまー、忙しいんですよー、ちょっとぐらい手伝って下さいよー」
兄弟子? あらまあ、お店のすみっこの雲のテーブルにつっぷして。三十か四十ぐらいの黒髪男のようだけれど、なんてむさいのかしら。雲のジョッキを片手にのんべんだらり。
「うふえええ、今日もちょっとパスー。ねみーい」
「もう! いっつもそればっかり!」
ふう、猫耳娘が離れてくれたわ。
それにしてもこの兄弟子っていう人、なんだか……。顔は全然違うけれど、これと同じ雰囲気をかもす人を知っているわ。
あのウサギの塔に住んでいる、ウサギの奥さん――の中にひそんでいる、ひげぼうぼうのおじさん。
だらけ具合がその人とそっくり。店主とこの人がまとっている衣も、なぜかそのおじさんとまったく同じものみたいね。ということは、この人たちって。
「黒の導師さまなのですか?!」
「ほうほう。岩窟の寺院出身の者をご存じかね?」
「はい。約一名だけですけれど。アスパシオン、という名の人を」
「……ぐへぶ!」
えっ?! だらだら兄弟子がいきなり噴いた? やだちょっと、背中にしぶきがかかったわよ?
「おお……! わしのハヤトを知っておるのかね、金髪のお嬢さん!」
ええっ?! 白髭の店主が目をキラキラさせて手を握ってきた?
ハヤト。それってたしか、ウサギが切れて怒りモードになると、あのおじさんに口走る名前だわ。
つまり本名。もしかしてこの人たち、ウサギの奥さん――の中にいるおじさんの知り合いなの?!
「ならば大盤振る舞いじゃ。全フレーバーの綿アメを作ってしんぜよう」
「あの。あなた方は一体……」
「ああ、わしか? わしはハヤトのお師匠さんじゃった者じゃ。そこのテーブルに突っ伏しておるのはハヤトの兄弟子。エリクじゃよ」
「師匠、俺アステリオンっす! ほらこれ着てますからっ。黒き衣っ」
なるほど、導師名がアステリオンなのね。
「おぉ、犬耳ふさふさの美人さんだなぁ。俺ここの副店長っす。よろしくな」
「副店長じゃと? 開店以来時々ここに遊びに来とるが、おぬし、一度もまともに手伝ってくれたことはないじゃろう」
「だって師匠、給料払う気全然ないじゃないっすかっ。タダ働きは嫌でーす。ま、かっわいいギルガメッシュニルニルヴァーナのご飯だけは俺が作ってやるけどな」
時々? ではこの方は、普段はここにはいないのね。
「ニルニルヴァーナって?」
「下界で飼ってたカメだよ。使い魔にしてたんだ。ああ、ハヤトが下界で元気なのはよーく知ってるから、近況報告なんていらないぜ? 年に二度、お中元とお歳暮送ってるからな」
「おちゅうげ……ああ、ついこの前、のし付きで塔に送りつけられてきた増殖黄金キノコ! あれあなたが送ったんですね?」
「おうよ。うまかったか?」
「あ……えっと、届くなりアスパシオンさんが焼き捨てて、ウサギとハニーがもったいないって文句を……あ」
「んあああ?! なーんーだーとぉおおおお! あんのクソハヤトが! 十二になってもおねしょしてたくせに!!」
どうしよう、口が滑ってしまったかも。アステリオンさんが、ぷがぷがおかんむりだわ。
「今度会ったらコロス! いや、今すぐあいつのとこに押しかけて問い詰めてくるわ! じゃあな!」
ああ、なんて勢い。あっというまに黒き衣を翻して出て行ってしまった。
でもここは天上……天河の一歩手前のはずなのに。あの人はどうやって、ここと下界と自由に行き来しているの?
「兄弟子さんは生きている人? それとも、死んでいる人? どちらなんですか?」
「まあまあ、そんなに目を白黒させんで、まずは落ち着きなされ」
白髭の店主は雲をひと練りふた練り。みるみる雲がほのかな紅色になっていく。
「雲のソーセージはどうかね? 見たところ、お菓子より肉が好きそうじゃとみたんじゃが」
その通りよ。見ての通り人間に似せてはいるけれど、私の本性は狼だから。
あら……結構おいしいわね。もう少し弾力があるとよいけれど。
「ほほ、もとはふわふわの雲じゃからのう。固くするのは、実はかなり難しいんじゃ。さてはて、それを口に入れても、まだそわそわしておるのう。お嬢さんは、下界に未練があるのかの?」
そうね……戻れるものなら戻りたいわ。
ハニーはウサギをせっついて、私を蘇らせようとするでしょうけど、そうするのは至難でしょうね。
まだ幼い娘のことは、とても心配だわ。だってまだ子どもなんだもの。
それに……
もし叶うならもう一度、ハニーを抱きしめたいわ……
「死んでなお、天河に昇らないでいる者はけっこうおる。わしも、そしてあのエリクもそうじゃ。エリクは家族思いでの、どうにも妻子から離れられん」
会いに行きたいわ。
会いに……
ああ、どうやったら、あの兄弟子さんのように行き来できるの?
「おぬしも神獣の類のようじゃから可能と思うがの。しかしそうするには、生きとし生けるものにとって、一番大事なものを捨てなければならん」
「一番、大事なもの……?」
「うむ。すなわち、輪廻をすることじゃよ」
私の手から雲のソーセージがゆっくり、カウンターに落ちた。
「つまりそれは……」
天河に昇らず。忘却の河に入らず。生まれ変わらない者になるということは。
「メニスが作る不死の魔人と、同じようなものになるということ?」
「さよう。おぬしは時の軛から放たれ、永遠にこのままでいることになる。変容を望んでも、決して変われない。何かを忘れて消し去りたいと思っても、決して消すことも、やり直すこともできない」
店主が私をみつめてきた。
柔らかなまなざしの中に、命の理を破ることへの無情さと恐ろしさをひそめて。
「おぬしは、受け入れられるかの? このまま永遠に、今のままの自分でいることを」
その愛は本物か。
そう聞かれた気がして、私は一瞬だけ躊躇した。
星が瞬くほんのわずかの、目をつぶるひまもないほどの間だけ。
その瞬間に、私は考えた。
私は神獣。永遠に。それでよいの?
赤毛のあの人のためには、もっと別のものに生まれ変わった方がよいのではないの?
来世で人間同士とか、立派な狼同士とか、あの人との子どもを産めるような者にならなくてよいの?
……
……
……
ああそれは、本当にほんの一瞬だったけれど。
時が止まったのではないかと思うほど、永い永い瞬間だった。
「――いいわ。私はあの人のために、神獣にまでなったのだもの」
けれども私は答えていた。白髭の店主をまっすぐ見つめて。
だって聞きたくなかったの。
かわいい娘の泣き声を。なにより、あの人の哭き声を。
家族の哀しみを聞かなくてよいのなら。こぼれる涙を見なくてすむのなら。
どうなってもいい――
だから私は願ったの。心の中で、偉大なお母様に許しを乞いながら。
「大丈夫。受け入れられるわ。だからどうか教えて。そういう者になる方法を」
「そうか……では……ゆっくりとっくり、始めようかの」
じっと私を見つめ返していた店主は、私の前に雲のジョッキを置いた。
「まずは、永久への門出に乾杯を」
口に含んだその雲は、とても苦くてびりびりしていて。
あまりのまずさに怯んだ私の目に、涙が浮かんだ。
ほろりと、たったひと粒。
―― 門出 了――