03 奄美剣星 著 イルミネーション 『鬼撃ちの兼好』
挿図/Ⓒ 奄美剣星 「飯綱神」
「まあ、美味しそうな坊やたちだこと……」
蜘蛛の巣の紐の上を、花魁風の女が、童女を連れて、しゃなしゃな近づいてきた。
蜘蛛の糸で、蛹のようにぐるぐる巻きにされていたのは、青年陰陽師の二人だ。女は二人を取って食おうとしているらしい。
狐火・鬼火・不知火……呼び方はいろいろあるのだが、ようは人魂のことをさす。狐火といえば津川の町だ。詩人・野口雨情は、霧の日に町から麒麟山という古城跡を見るとそれが現れると紹介している。
*
大正時代、晩秋のころ。
郡山を発した下り新潟行き列車は、中山峠を登り、猪苗代湖の畔を走って、会津若松のところでV字のスイッチバック走行をした。会津盆地の向こう側は西会津と呼ばれる山岳地帯だ。喜多方を出た列車が、山都駅に入線する途中で渡る長大な一ノ瀬橋梁を過ぎたあたりから、単線軌道は阿賀川渓谷の断崖沿いを走ることになる。
列車が県境にある橋梁を越えた。
福島県の阿賀川は新潟県になると阿賀野川と名称が変わる。
車窓から北流する川を見やると、五大力船と呼ばれる海川両様の帆船が往来していた。乗客の行商人が言っていたのだが、そのうち阿賀野川流域には、いくつものダムが建ち並ぶ。だから旧幕(江戸)時代以来、流域を往来してきた川船も、ほどなく見られなくなるらしい。
トランクを片手に持った狩衣装束の青年が降りたのは、新潟県東蒲原郡の郡庁が置かれた津川だ。駅では郡議会議員の芦名先生が出迎えてくれた。
「吉田兼好さんですね。宿は手配してあります。私の車に乗ってください」
人力車は右岸にある駅から、橋を渡って、左岸に抜け、そこから土手道を川に沿って少し戻って行くと五、六分で市街地に入った。市街地は川港となっている入り江に臨んでいた。この入り江の向こう側に、小島のような岩塊があった。
先生は続けた。
「麒麟山と言います。ここから見ると島のようにも見えますが、比高差百メートル強の舌状台地で、半島みたいに阿賀野川に張り出しているのですよ。戦国時代の山城で、往時を偲ぶものといえば、今は神社の祠だけですがね」
「あそこですか、狐火が出るという場所は……」
「鉄道が敷設されてから沿線では怪異が頻発しておるのです。狐火のほかにも、突如、鉄道路線の枕木が燃えたりしましてね」
「今までお祓いをなさったことは?」
「先に二回ほど。正直に言いますと、お祓いをしてくださった二人の神主さんは気が触れてしまいました。貴男の力量を疑ってはいないのですが、念のため、貴男のほかにもう一人の神主さんをお呼びしています」
日が沈みかかっていた。
崖山からは、いくつもの狐火があがり、賑やかな笛や太鼓の音が上がっているのが見えた。麒麟山に漂っている気配は、人のものではなく妖魔のものだった。
人力車が停まったのは三階建てになった鉱泉旅館で、玄関先で出迎えてくれたのが紺色のハッピを羽織った番頭だった。郡長が車を降りたとき、番頭の頭が狼のようになって、その喉笛を食いちぎろうとした。しかし、そうなる前に、兼好は懐に収めていたマグナム銃を取りだし、人狼の頭に弾丸を食らわした。人狼は突っ伏して、人形に切り抜いた白い紙になった。
「なんだ、今のは?」
芦名先生が目を丸くしていると、
「これはとんだ粗相を……」
と頭を掻きながら、吉田兼好と年の近い青年が出てきた。見れば、兼好とそろいの狩衣まで羽織っているではないか。もう一人の青年の名前を安倍晴樹という。かの陰陽師・安倍晴明の末裔だ。
――大方、芦名先生を襲ったのは、晴樹が物見に飛ばした式神なのだろう。それが麒麟山に巣くった妖魔の通力に屈して寝返り、逆に術者側に襲い掛かってきたのだろう。――兼好はそう察した。
兼好は再び拳銃を懐中に収めた。拳銃の弾丸には〝鬼撃ち丸〟と刻字されている。だいたいのところ、妖魔と向き合ったとき兼好は交渉をして解決してきた。交渉が決裂した場合、これで相手を仕留める。敵に寝返った式神もそうだ。
*
ほどなく立冬を迎え、さらに一週間が経った。
城跡には舌状台地東側から上って行く。兼好と晴樹は、十数回も麒麟山の主と交渉を行ったが、妖魔の頭目と会うことはかなわず、眷属クラスの下っ端に門前払いを食らうのが常だった。これでは城跡の本丸にある祠に近づけない。
――最後の手段だ。――
兼好が、思いついた秘策を告げに、晴樹の部屋を訪ねた。
晴樹は座椅子にもたれて、プルーストの『失われた時を求めて』を読んでいた。和訳本はまだ出版されておらず、晴樹が手にしているのは、横浜の洋書店で買ったフランス語版だった。晴樹は神主にしてモボ(モダン・ボーイ)らしい。
――ふん、気障な奴!
兼好は率直に思った。
*
入り江が氷結した早朝、二人は麒麟山城まで歩いて渡った。もちろん、結界を張って、相手にこちらの動きを悟られないようにして渡った。山城には裏口にあたる搦手というものがある。小川のような縦堀や断崖絶壁を削った犬走を下って、小さな船着き場へと出る脱出路があるのだ。
兼好と晴樹は、その急峻な崖の搦手から一気に、山頂にある本丸に向かった。
本丸は広場になっていて、崖淵に天守台の石垣があった。天守台とはいっても、安土桃山時代以降の流行りで、かつてそこに天守閣が築かれていたとは限らない。そこにだ。なんと、女郎たちが、ずらりと並んでしゃなりしゃなりと回っているではないか。
花魁は、チラッと腰巻を開き太腿を見せた。――高名な神仙が雲に乗って飛んでいたところ、川で洗濯をしていた若い娘の太腿が見えて、墜落してしまったという伝説がある。――ましてや、まだお盛んな若き陰陽師二人のことである。
鼻血ブッ……。
悶絶した二人は易く妖魔の手に落ちた。
*
妖魔を束ねる花魁が、「鉄道敷設とダムのため、地脈の流れが狂った。妾は空腹じゃ。贄をもってこれを満たさん。――されど坊や、とって食う前に、願い事を一つだけかなえて進ぜましょう。妾と寝たいというのならそれもよし」と言った。
兼好が、花魁に欲望のすべてをぶつけたいと言わんとしたが、縄を解かれた晴樹が、兼好の口を塞いだ。
「貴女様は飯綱明神とお見受けいたします。私の些細な願いとは、懐にあります素晴らしい本を、ぜひとも読んで御聞かせしたいのです」
「よかろう、篝火を持て……」
童女が青年の開いた本の近くに篝火を持ってきた。この篝火がきっと狐火なのだろう。
しかしかの本、プルーストの『失われた時を求めて』は、一九一三年から二十七年まで全七編が発行されているのだが、このときはまだ、第一編の「スワン家のほうへ」が出されただけだ。
「スワン家のほうへ」は、ブルジョワ層の両親とともに別荘地コンブレーに家を構える祖母のところにやってきた少年の〝僕〟が、初恋の人ジルベットに出会う。そして、絵本にでてくるような名門貴族の館を見てうっとりする。その光景を叔母がいれてくれた紅茶とマドレーヌの匂いで思い出すというものだった。
この物語の特徴はやたらと長いというところにある。昭和の文豪・堀辰雄の書評に、普通の小説は数時間単位の描写だけれども、ブルーストの小説は秒単位の描写だと記されている。当然、夜が明けても終わらなかった。
――続きが気になる――
このため飯綱明神は、晴樹に憑いて麒麟山を離れた。ゆえに渓谷鉄道を騒がせた怪異事件は見事に終結した。
――姫神を〝ヨメ〟にするとは、晴樹め、いつかブチのめす!
嫉妬に狂う兼好だった。
ノート20181224




