02 紅之蘭 木の実 『ハンニバル戦争・終章1』
【あらすじ】
紀元前二一九年、カルタゴのハンニバル麾下の軍勢は、アルプス山脈を越えてイタリアに侵攻。ローマ迎撃軍を撃破しつつ、アドリア海に沿って南進し、南部のカンナエで、ローマの大軍を壊滅させた。そして……ハンニバルの挙兵から十六年の歳月が流れた。十六年の間にローマのスキピオが将器を拡げ、イベリア戦線の総指揮官となった。スキピオは、ハンニバルの次弟ハシュルドゥルパルを撃破。いよいよ北アフリカにあるカルタゴ本土攻略の命がローマ元老院から発せられた。この動きに、カルタゴ元老院は慌てふためき、イタリア半島南部を支配していたハンニバルを呼び戻した。そして、紀元前二〇二年秋、ついにザマ会戦が勃発。若いローマのスキピオが、カルタゴのハンニバルに圧勝したのだった。
ⓒ奄美剣星 「ハンニバルとイミリケ」
ハンニバルと軍師シレヌスが、カルタゴの同名首都の市門をくぐり、市街地は入ると、町は騒然としていた。敗報はすでに伝わっていたのだ。町の人々は、手勢こそ少ないものの入城したハンニバルを見ると、「ハンニバルだ。ハンニバルが生きていさえいれば何とかなる」と、いくぶん安堵したようだった。
方形をなす商港と円形をなす軍港を組み合わせた二重構造になったカルタゴ港の後背に、ビュルサの丘がある。頂にカルタゴの守護神を祀る神殿があり、元老院もこのあたりにあった。
「ハンニバル様、予想はしてはおりましたが、元老院も町衆同様にパニックでしたな」
「すべては私の不徳だ」
議場では、ハンニバルの次弟ハシュルドゥルパルからイベリア戦線の全権を譲られたジスコーネ将軍が、議員たちを叱責しながら熱弁をふるっていた。
「スキピオ麾下のローマ軍は確かに精強だが、連戦に次ぐ連戦で疲れている。われらは市壁に囲まれたカルタゴで籠城し、その間に、外国で傭兵を雇う。そして傭兵を海路からカルタゴ本国へ運び、再びスキピオと矛先を交える。元老院議員諸氏にお願いしたい。全指揮権を私にくれ」
「黙れ――」
ハンニバルが一喝して、議員たちの席の間の通路を通り抜けて、演壇に歩いて行った。議員の誰もが、ハンニバルがジスコーネを佩剣で斬り殺すのではないかと思った。
しかしハンニバルはそこまではせず、胸ぐらをつかんで、議場の外に追い出すにとどめた。
「今の我々には兵がない。――ここでいう兵士というのは歴戦の勇士のことだ。仮にジスコーネの主張を採って徹底抗戦をしたしよう。戦にまた敗れ、ローマとの講和条件がいっそう酷いものになるだろう。今は、戦に勝ったローマ側の主張を飲むしかないのだ」
「ハンニバルを支持する」
ハンニバルの主張を強く支持したのは、皮肉にも、十六年前、隻眼の将軍がピレネー山脈を越えたとき、跳び上がって喜びあう元老院議員たちの中で、唯一首を傾げていた政治家ハンノだった。この人がハンニバルを支持したことで、議場は講和派が大勢を占めた。そして、和平交渉の全権をハンニバルに与えたのだった。
カルタゴとローマの会談場所は、カルタゴの同名首都からやや離れたところで行われた。
そこにローマ軍は宿営地を設けていた。
ハンニバル将軍と軍師シレヌスは、わずかな騎兵に守られて、ローマ軍の宿営地を囲む防御柵の門をくぐった。
本題に入る前にスキピオは、ハンニバルと雑談をした。
「ハンニバル将軍、あなたは史上最も優れた名将を誰だとお考えか?」
「マケドニアのアレキサンダー大王だと考える。ペルシャ帝国に深く侵入し、その大軍を寡兵で撃破した」
「ではその次は?」
「エピロスのピュロス王を挙げたい。王は戦場の空気を読む」
「その次は?」
「ほかならぬこの私だ。スキピオ執政官に敗れなければ、アレキサンダーを越えて最強の指揮官に名を連ねられた」
――確かにその通りだ。包囲殲滅陣形はハンニバル将軍が独自に発案した戦術。いわばハンニバルは師だ。自分は模倣したに過ぎない。
スキピオはハンニバルの戦術を徹底研究して自分のものにし、弟子が師匠に勝つまでに成長したわけだが、両者の決定的な違いは、寛容さ・情け深さにある。スキピオは、戦犯としてハンニバル自身の首級をさしだせと言ってもおかしくない立場だった。けれども彼は、ハンニバルに、そのような要求はしなかった。
スキピオが、ハンニバルに示した講和条件の主な内容は次の通りである。
まず、カルタゴは北アフリカ沿岸の本土を除く海外領土のすべてを放棄すること。――カルタゴの海外領土というのは、イベリア、サルディニア、シチリアといった飛び地だ。それら一切をローマに割譲するように要求した。
次に、カルタゴ国防する上で最小限必要な艦隊や軍隊以外の保持は認めない。艦船は三段櫂層船十隻を上限とし、戦象の保有を一切認めない。また戦争の開始は例え敵に攻められてもローマの許可をとることを要求した。
そして最後に、カルタゴがローマに支払う賠償金だ。これは、五十年で一万タレントを支払うことを要求した。
スキピオは、「――以上の講和条件を呑んでくれるのならば、カルタゴをローマの同盟国として歓迎しよう」とハンニバルに言った。無理難題ではない。テーブルの反対側に座ったハンニバルは条文に署名した。
スキピオの盟友であるヌミディア王マシニッサが、スキピオの副司令官であるレリウスに耳打ちした。
(手ぬるすぎはしないか?)
(いや、今はこれで十分だ。執拗に相手を追いつめれば、窮鼠猫を噛むの愚を招く。スキピオは情け深い。その情け深さに兵士たちはついてくる。私もそうだが、君もそうではなかったか?)
(ハンニバルもそうか?)
(多分な)
レニウスとマシニッサが顔を見合わせて笑った。
ハンニバル一行が帰る際に、スキピオは小袋を取り出して手渡した。
「林檎の種です。あなたの家の庭に植えて欲しい」
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その後――。
スキピオは、麾下の軍団とともに復員船に乗ってイタリア南部に上陸、そこからローマに凱旋した。途中、アッピア沿道では、同盟市や植民市の民衆が花びらをまいて歓待した。
他方、隻眼の将軍は、カルタゴの最高指導者となって、戦後復興をすることになった。
ハンニバルは、ビュルサの丘の斜面に邸宅を構え、妻のイミリケを呼び寄せた。
庭師に命じ、苗床で林檎の種を苗木に育てさせた。その苗木をハンニバルは自ら庭に植え直した。
ハンニバルが植樹をしているところに、イミリケがやってきた。
「旦那様。私、あなたにお話ししなくてならないことがあります」
イミリケは、夫不在の間、カルタゴノバで夫の弟であるマゴーネと仲を深めてしまったことを詫びようとしていたのである。――この時代、姦通罪は死刑である。処刑の方法も決まっていた。衆人に投石されて殺されるのだ。
「そなたに非があるとすれば、もともとの原因は私にある。私は、これからも、そなたと暮らしたい。いらぬことを言うまでのことはない」
ハンニバルは〈草〉を放っている。当然、妻の秘め事も知っていた。
ちょうど、訪ねてきたギリシャ人軍師シレヌスは、庭の口から奥にいる二人を見た。そして、ハンニバル様は昔よりもお優しくなられたものだと思った。
(木の実 了)
【登場人物】
《カルタゴ》
ハンニバル……名門バルカ家当主。新カルタゴ総督。若き天才将軍。
イミリケ……ハンニバルの妻。スペイン諸部族の一つから王女として嫁いできた。
ハシュルドゥルパル……ハンニバルの次弟。イベリア半島での戦線で活躍。
マゴーネ……ハンニバルの末弟。将領の一人となる。
シレヌス……ギリシャ人副官。軍師。ハンニバルの元家庭教師。
ハンノ……一騎当千の猛将。ハンノ・ボミルカル。ハンニバルの親族。カルタゴには同名の人物が他に何人かいる。バルカ家の政敵に第一次ポエニ戦争でカルタゴの足を引っ張った人物と、第二次ポエニ戦争で足を引っ張った大ハンノがいる。紛らわしいので特に記しておく。
ハスドルバル……ハンノと双璧をなすハンニバルの猛将。
ジスコーネ……イベリアにおけるカルタゴ三軍の一つを率いる将軍。イベリア撤退後、カルタゴで総大将を務めるのだがスキピオに大敗する。
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《ローマ》
コルネリウス(父スキピオ)……プブリウス・コルネリウス・スキピオ。ローマの名将。大スキピオの父。
スキピオ(大スキピオ)……プブリウス・コルネリウス・スキピオ・アフリカヌス・マイヨル。大スキピオと呼ばれ、ハンニバルの宿敵に成長する。
グネウス……グネウス・コルネリウス・スキピオ。コルネリウスの弟で大スキピオの叔父にあたる将軍。
アシアティクス(兄スキピオ)……スキピオ・アシアティクス。スキピオの兄。
ロングス(ティベリウス・センプロニウス・ロングス)……戦争初期、シチリアへ派遣された執政官。
ワロ(ウァロ)……執政官の一人。カンナエの戦いでの総指揮官。
ヴァロス……執政官の一人。スキピオの舅。小スキピオの実の祖父。
アエミリア・ヴァロス(パウッラ)……ヴァロス執政官の娘。スキピオの妻。
ファビウス……慎重な執政官。元老院議長となり、「ローマの盾」と呼ばれる。
グラックス……前執政官。解放奴隷による軍団編成を行った。
レリウス……本来はスキピオの目付役だったが、スキピオの人となりに惚れ込んで実質的な副将になった。
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《ヌミディア》
シファチエ王……分裂していたヌミディアを統一したが、同盟国カルタゴに加担したため、スキピオ麾下のローマ軍に大敗し捕虜に。王妃はマシニッサの元婚約者ソフォニズバ王妃。
マシニッサ……シファチエ王に対立していた王統の王族。盟友スキピオに推されて王になる。
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