マヤ神聖文字殺人事件 その十 完結
十一月六日(火曜日)、光一・三枝の会話
「早いものね。アレハンドロの死体が発見されて、もう五日になるわ」
三枝美智子がコーヒーにミルクを入れながら呟いた。
大学前のカフェテリアには小春日和の温かい陽射しが射し込んでいた。
「ええ、早いものですねえ。一時は新聞がセンセーショナルに書いていましたが、大分落ち着いてきました。美智子さんも相当、新聞記者から問い合わせが来たんじゃないですか」
「ええ、松野さんの自殺の原因は何ですか、といったくだらない問い合わせばかり」
「美智子さんの答えはいつも決まっていましたね。自殺したのは事実ですが、原因に関しては一切存じ上げておりません、というコメントでしたね」
「本当のことですもの。知らないことは知らないとしか言いようがありませんものね」
「正樹がいつか言っていましたが、自殺する原因は複合原因だそうです。たった一つの理由で自殺まで追い込まれるということは無いと言っていましたね。今、悪い面で流行しているいじめによる自殺も例外ではなく、純然たるいじめだけで死ぬことは無く、いろいろと悩んでいる状態に、いじめという分かりやすい要因が乗っかって、それが強い引き金となって、絶望を極限にまで深め、自殺に至るのじゃないでしょうか。松野さんも、他の三人の方とのいざこざがあったのかも知れませんが、他にもいろいろと悩んでいたことがあったのではないでしょうか。まあ、今となってはもう、知る由もありませんが。時に、・・・、一つ訊いてもいいですか?」
「あら、改まって何ですの? 何でも、ご質問なさって」
こう言って、三枝美智子はじっと光一の顔を見詰めた。
「実は、アレハンドロのことなんですが。美智子さんに訊くのが何だか怖くて今まで訊けなかったのですが。・・・、アレハンドロが来日した折、美智子さんのところに来ました?」
「訪ねて来たかどうか、ですか?」
美智子はふと窓の外を見遣り、小さな溜息を吐きながら呟くように言った。
「ええ、来ました。綺麗な日本語を話しながら、私に父である松野さんのことをいろいろと訊きました。柳さん、あなたはアレハンドロの顔を写真でしか見たことが無いでしょう。実際のアレハンドロの顔には、松野さんの面影が強く残っていました。・・・。正直に話しましょうね。私は松野さんと一時期、恋人同士であったことがありました。でも、当時の私はまだ恋愛にはうぶだったのね。どうしても、醒めた目で見る自分が居て、松野さんに夢中になっていくことができなかったの。男の方から見たら、可愛くない女に見えたことと今では思います。その内、マリアさんが現われ、松野さんはマリアさんのノビオ(恋人)になっていったの。でも、そうなっても、私はずっと松野さんが好きだった。突然、アレハンドロが私の前に現われ、松野さんの子供だ、と言ったのよ。驚いたわ。でも、何だか嬉しかった。私に会いにわざわざメキシコから戻ってきたように思えたの。・・・。父の話をもっと聞きたい、男子留学生の住所等、教えて貰えないか、会いに行って、父の生前の話を聴いてみたいから、と言われ、私は名簿からメリダのかつての仲間の分だけコピーして彼に渡してしまったの。全て、ここから始まったの。私がアレハンドロにあのコピーさえ渡さなかったら、今回の悲劇は起こらなかったのよ。六月末のじめじめした梅雨の頃だったわ」
こう言って、三枝美智子は光一の顔を見詰めた。
隈の出た初老の女の顔がそこにあった。
エピローグ
十一月十一日(日曜日)、光一と正樹の会話
「正樹、コーヒーが入ったよ。飲むかい?」
「ああ、戴きますよ。今、そちらに行きます」
「今日は、いいお天気だけれど、外はかなり寒い一日になるらしいよ」
「うん、やっぱり、お父さんの淹れてくれたコーヒーは美味しいな」
「正樹、今日は何か予定があるのかい?」
「うん、午後から、ちょっとね」
「ふーん。あるのかい?」
「毎日が日曜日のお父さんと違って、たまの日曜日だもの、僕だって予定の一つや二つはあるさ」
「あっ、そうか。分かった。デートかい、麻耶さんと」
正樹はコーヒーカップを持ったまま、照れ臭そうに軽く頷いた。
光一はこのところ、正樹と麻耶が頻繁に会っていることに気付いていた。
このまま行けば、正樹と麻耶は結婚するかも知れない。
そう思うと、光一の心は温かく満たされていった。
自分はその内、おじいちゃんと言われることになるのか、おじいちゃんか、そのように言われるのも満更ではないなあ、と窓の外の冬枯れの木立を見ながら思った。
麗子と頻繁に会うことにもなるのか、と秘かに心がときめくのを感じた。
ふと、正樹が何気なく呟いた。
「お父さん。麻耶さんが言っていたよ。麻耶さんのお母さんが、お父さんからの電話を心待ちに待っているんだって。お父さんと一緒に、銀座を歩きたいんだって。確か、今日がいいと言っていたよ。僕たちは六本木に行くから、ご一緒出来ないけれど」
光一はびっくりして、正樹の顔を見詰めた。
冗談で言っていると思った。
しかし、予期に反して、正樹は真剣な顔をしていた。
早く、電話を掛けろ、という眼もしていた。
随分とややこしい話になってきた。
光一はそう思い、コーヒーを一気に飲み干した。
完