被害妄想
「今日はどうなさいました?」と白衣の女性が言った。
「詰め物がとれました」K子はまだこの時平常心だった。
背を見せていた白衣の男性が振り向いて言った、
「どれみせてごらん」
早速、歯医者はK子を寝かせ作業に取りかかった。
歯医者は白の帽子とマスクをしていた。表情を読みとれるのは目だけだ。K子はその目が怖かった。なるべく見ないようにした。
「すぐ終わりますから口を開けたままにしてください」
K子は嫌だった。口を開けているのが嫌だった。口を見られるのが嫌だった。顎への負担が嫌だった。何よりドリルが音を立てて口に入っていくのが屈辱的だった。全身が異物だと反応し鳥肌が立った。拒否することが出来ずに涙が頬を伝った。しかし、歯医者はそれに気づかなかった。
「もう終わりますよ」と歯医者が言った。しばらく経ってからまた、もう終わりますよ、とさっき言ったことはまるでなかったかのように歯医者が言った。それを最後に沈黙のまま作業は続いた。
……グィーンジュルルル、グィーンジュルルル……
……グィーンジュルルル、グィーンジュルルル……
K子が顔を歪ませて、歯医者がやっと手を離した。
「ちょっと削りすぎちゃったかな」
不意に目があった。笑ってるとK子は思った。いや笑ってないとK子は自分に言い聞かせた。この歯医者には悪意があると思った。いや悪意ではないと自分に言い聞かせた。しかし、絶対にあるのだ。今もやはり目が笑っている。
「これいたい?」
K子は口を開けたまま頷いた。
麻酔、と歯医者が声を上げた。
助手が歯医者に注射器を差し出した。K子には始めから麻酔が用意されていたような助手の無駄のない動きが異様なほど冷酷に感じられた。
「君、やってみる?」と歯医者が助手に言い、続けてK子に言った「息は止めないで、鼻でして。そう」
(悪さをする時は人の手を汚すのね)
震えている針先が自分の口の中に入っていく。
K子はその時、レイプされたときの怒りや憎しみが頭をよぎった。あれは酷く寒い冬の日の予備校の道帰りだった、いや居残り授業の後だったかもしれない、いつも一緒にいる親友のマキが私をおいて先に帰った、あの子が居残りの時はいつも手伝ってあげてるのに、やっぱりあの子もグルだったのかもしれない、あの日からあの子にも気をつけてる、私だけに優しいのは変だもの、いつもと違う道を選んだのに奴らにはなんでもお見通し、蝉しぐれのせいで近づいてくる気配に気づかなかった、誰かが私の名前を呼んだ、なんでここにいるの? 遊園地のウサギさん、私は工具で殴られた、大声で泣き叫んだ、ドアを開けたら行き止まりだった、何度も何度も男たちが性器を私の口に押し込んだ、ヘルメットの下から私を凝視する目、かすかに見えたあの目は・・・・・・
「麻酔が効くまで待っててくださいね」
歯医者が違う患者を見に行った。
仕切の隣で、歯医者が揉めているのが聞こえてきた。何を揉めているのかまではK子には聞こえなかったが、自分のことを話しているのだと直感的にわかった。その間に治療台に置いてあるアイスピックのようなものを手に取った。
(確かにあの目だったわ。潰してやる。万が一、違ったとしても藪医者なんてみんな死ねばいい、いいえ間違いなくあの目よ、私は捕まるかもしれない、でもお金があるから何をやっても許されるの? 誰が反対したとしても私が裁かなきゃいけない)
歯医者が戻ってきた。K子は武器を握った手を見られないように太ももに押し当てていた。汗で落すような予感がして力一杯握った。
「さっき削ったところが変な感じなんです、もう一度見て下さい」
「ああ、でも、その前に君の右手に持っているものを返そうね」
(なんで!)
「なんでわかったんだろう」と歯医者は言った。
K子の手から武器が滑り落ちた。
「良い子だ。麻酔が効いてきたようだね」
K子は逃げようと思ったが体が動かなかった。大声を出そうと思ったが声帯も動かなかった。それから視界も暗くなった。声だけがこだまして聞える。
「どう? うまくいった?」と言ったのは隣で揉めていた声だった。
「ええ……」ためらいを含んだ歯医者の声が答えた「しかし、もう少し弱いトラウマにしても良かったのではありませんか」
owari