弟子と開かずの間【其の一】
■ストーリー
『出海ムネマサ』の熱狂的ファンである華薗梅は、Web作家時代の異世界戦記シリーズの最終巻『晴天の金狼』の結末に納得せず、新作小説を破棄した上で続編を書き下ろすことを彼に強要する。
作家の出海宗雅は、自身のベストセラー「晴天の金狼シリーズ」の最終作の原稿を運ぶ途中、吹雪で交通事故に遭うが、同じくハルドラゴン文庫執筆家の女性・華薗梅に助けられ一命をとりとめる。
年下の先輩作家という彼女から手厚い看病を受ける宗雅だが、実は華薗は「晴天の金狼」の熱烈なファンであった。
しかし、最終作でヒロインが死ぬことを知り激怒した彼女はケガで動けない宗雅を監禁し、ヒロインを生き返らせ、新作を書くように強要する。果たして宗雅は、彼女の元から逃げ出す事ができるのか・・・?
■登場人物
・出海 宗雅(著:出海ムネマサ)
作家。
東京都墨田区生まれの15歳。
紅蒐ちゃん(挿絵:出海 桐紗)という名前を持つ女性がヒロインの異世界戦記バトル小説「晴天の金狼・シリーズ」が代表作。だがシリーズの余りの人気ぶりに新作が書けないことに悩み、アカネを死なせ、作品に終止符を打つことを決意する。
※作中の「晴天の金狼シリーズ」とは
作中では詳細な説明はないが、ヒロインの紅蒐ちゃんにムネマサという恋人未満らしき男がいることと、アカネを巡る恋敵のサワムラという人物がいることが会話からわかる。
・華薗 梅(著:仙住サワムラ)
宗雅を助けた女性。
たまに勘違いされるがペンネームの「仙住サワムラ」は彼女の名前ではなく、
彼女が書いた小説の作家名である。
見た目は着物姿が似合う小綺麗なお嬢さん。
事故に遭った宗雅を送迎車で自分の家まで手配して運ぶなど相当なお金持ち。
元保健委員長で保健室にいたこともあり、応急手当や薬などの知識が非常に豊富。
家には大量の薬や鎮静剤が常備してあり、そのおかげで宗雅は助かったのだが・・・。
■まえがき
この本を出海ムネマサと仙住サワムラに捧げる。
その理由は、当人たちが先刻ご承知である。
師匠
ミザリー
この本で扱った事実資料について、三人の作家関係の方々に助けて戴いた。
記して感謝する。その方々のお名前は以下のとおり。
八倉坂 あられ・・・編集者
出海 桐紗・・・絵師
高崎 友枝・・・本屋店主(たかざき書店)
いつものことながら、これらの方々のご助力はまったくの陰の力である。
執筆上の誤りがあるとすれば、それはすべて著者の責任である。
いうまでもなく、ロキソニンという薬は存在するが、それに類似したロキソフェナクナトリウムをベースにした薬は数種類存在する。已然として、学校の保健室や医院の小児科での、この種の薬の低年齢服用およびドラッグ目的は、往々にして禁止であるのが現状である。
この小説の地名および登場人物名は事実に基づくものである。
Y・A
■目次
第一巻「弟子と開かずの間」
第二巻「師匠と世界で最も悲しい小説」
第三巻「愛弟子と同棲の家」
第四巻「主人公ムネマサVS恋敵サワムラ」
作者あとがき
キャラネーミング難読漢字の成り立ちリスト
■本文
ミザリー師匠
筆者が久しくファンを見ているとき、ファンもまた筆者を見ているのである。
――フリードリヒ・ニーチェより引用(山中 アリス訳)
第一巻「弟子と開かずの間」
一
ぐわんぐわわん ぐわんぐわわん
じーんじんじん ぐりりっいいいいい
ぎゅうううううっ
朦朧としたなかに、音だけがあった。
二
その音は、痛みに似ていて、ときどきうすらぎ、すると朦朧とした状態だけになった。真っ黒な記憶がある。朦朧のまえには、暗闇があったのを憶えている。ということは、生きているということか。光があればと我思う(たとえばぼんやりした光があるか考える)、光を探そうと考えり、すなわち生きている証拠、か?あの音は暗闇の中でも聞こえていたのか。疑問だ。疑問ばかりで、なにひとつ答えようがない。どだいこれらの疑問になにか意味があるのか。それすら疑問だ。
音のずっと奥のどこかに、痛みはあった。痛みは頭のてっぺんにかけてさらに右、彼の耳の後ろの方にある。わかっているのはそれだけだ。
とてもながいあいだのように思われたが(なにしろ痛みと渦を巻くような朦朧という、感覚しかないのだから)、そのあいだその音だけが唯一の外的な現実だった。
自分が誰なのか、ここがどこなのかもわからない。わかろうともしなかった。生きたいと望んでいたが、痛みをはらんだ朦朧が、心の中を夏のゲリラ豪雨のように充たしているため、自分が何を望んでいたかすらわからなかった。
時が経つにつれて、痛みの消えるときがあるのに気づいた。サイクルのようなものがあるらしい。朦朧状態をなびかせていた暗闇から抜け出てはじめて、思考がいま置かれている情況から離れることができた。熱海サンビーチから突き出しているL字に折れた杭が思い浮かんだ。子供のころ、両親につれられて、よく熱海サンビーチに行ったが、父はいつもあの杭が見える場所に敷物をひろげるのだと言い張った。それは岸壁に埋まっている象の一本の足のように思えた。そこに坐り込んで、人の数が増えてきて釣りを楽しむ姿を眺めていた。それから、おにぎりと唐揚げを食べ、父のおおきな水筒からちびちび飲んでいたスポーツドリンクもなくなり、母が片づけておうちに帰りましょ、と言い出すちょっとまえになって、錆びだらけの杭の頭がふたたび現れだしてくる――はじめは寄せては返す人込みの間に、にょきにょきとのびていく杭の影が、だんだんと姿を現してくる。やがて、ゴミを「浜辺をきれいにしましょう」と書かれたおおきなドラム缶に投げ入れて、ムネマサの釣竿を片づけ、(それが僕の名前、そう僕は宗雅だ、今夜は陽に焼けた肌におかあさんがSHISEIDOの化粧水を塗ってくれる――雷がごろごろと鳴り響く暗雲につつまれた頭の中で、僕はそう考えた)敷物もたたんだころ、杭はすっかり、夕焼けにつつまれ、にょきにょきと黒い影法師を見せる。あれは夕日というんだ、と父が説明しようとしたが、僕の頭には杭のことしかなかった。赤い太陽あれが"ゆうひ"で、白いのは"おひさま"、どっちも同じ太陽だが色が違うので別の名前を付ける。ただ宗雅の肌が日焼けしても宗雅はムネマサ、肌の色が変わっても名前は変わらないよ。
その記憶が物憂い蠅のように、しつこくぐるぐると回っていた。その意味をさぐろうとしかけたが、例の音にさえぎられた。
キュウウウウウウッ
キーン カンカン ギリリッイイイイイ
ウォウォン ウォウォン
ときどき音はやんだ。そして、ときどき呼吸をするのを忘れた。
稲光をふくんだ朦朧をべつにすれば、今現在の明確な意識は、この無呼吸状態の自覚であった。突然に呼吸を忘れている。それはそれで危険な状態だった。あるていどの痛みは耐えられないこともないが、がまんにも限度はある。そこから逃れられるのなら、こんないいことはない。
すると口がだれかの口でふさがれた。つるつると柔らかい感触だったが、唇に触れるものといえば唇であることは紛れもない。その誰かの口からこちらの舌先に吐息が吹き込まれてきて、それが喉元を通り、胸をふくらませる。上顎が離れたとき、僕はその人工呼吸をほどこしている女の声を聞いた。男が嫌がる女にむりやり口内を蹂躙されるより、せめて自分好みの子にキスをされたいと願いを込めて息を吸うと、イチゴ味の甘くさわやかなミントの香りがした、うっかり食べそうになったことのある昔懐かしい子供用歯磨き粉の匂いだった。
それから、しおらしく落ち着いた声を聞いた。「呼吸をして、さあ、呼吸をするのよ…」
また小さな上顎が押しつけられてきた。熱を帯びた吐息が吹き込まれる。学校の校舎を生徒が走り過ぎるときの、シャンプーや香水のような向日葵を照らすお日様の香り。首筋に触れていた髪の毛が離れた。(女の子が髪をかき上げたときの、ふわりとした優しい匂いがする。)とても心地よい風を感じる。(ああ、花のような匂い、この香り、ずっとくっついていたいくらいだ。)
「呼吸しなさいったら!」声がふるえていた。
(するよ。なんでもするから、泣くのだけはごめんだ。優しい声をもっと聞いていたいんだ。)僕はやってみせようとした、だがその前に、また柔らかな唇が被いかぶさってきた。まるで僕が眠れる森の姫君役で、そして彼女は勇ましい白馬の王子のように、懸命に声をかけ続ける。
唇が離れたとき、彼女に失礼がないように自分の唇を拭き取らないようにしよう、などと気にする余裕があるほど呼吸が楽になっていた。どうにか一命をとりとめた。見えない自分の胸が興奮しているのか上下している感じがする。だがいっこうに静まる気配が無く、もういちど胸いっぱいに深呼吸した。ようやく自分で息ができるようになり、女性の吐息がこの肺に入ってると考えると、やっぱり変な気持ちになってしまう。
普段吸っている空気がこれほど甘美に感じれたことは無い。
ふたたび意識がぼやけはじめたが、完全に朦朧の世界に入ってしまうまえに、彼女は「よかった。ほんとにしんじゃうところだったわ」とおだやかな声に戻っていた。
(しんじゃうなんてレベルじゃないさ。)幸せな香りにつつまれると同時に、僕は眠りに陥ちた。
■漢字の成り立ち
【薗】
形声文字です(艸+園)。「並び生えた草」の象形(「草」の意味)と「周辺を
取りまく線」(「囲い」の意味)と「足跡の象形と玉の象形と衣服の
象形」(衣服の中に玉を入れ、旅立ちの安全を祈るさま(様)から、
「遠ざかる」の意味だが、ここでは、「圜」に通じ(同じ読みを持つ
「圜」と同じ意味を持つようになって)、「巡る」の意味)から、囲いを巡ら
せた「その」を意味する「薗」という漢字が成り立ちました。