第一話 淀んだ景色
ある日、自分の存在意義を考えた。
弱者の位置に甘んじていて良いのか? じゃあ、一体何をすればいい?
……たとえ俺がいなくても、世界は回り続けるだろう。
だが、もし、そうだとしたら。
俺は、俺が死んだ後の世界の回転を、見ることが出来なくなってしまう。
だから決めた。
『俺が存在しているからこそ世界は回っている』と。
そう考えることにした。
自分の存在しない世界なんて、ただの『無』なのだと。
自分を殺すということは、世界を殺すことを意味するのだと。
そう考えないと、やっていられなかった。
やるせなかった。
◇◆◇
「あ、椎名君」
同じクラスの女子、松尾七瀬がプリントの束を持って近づいてくる。
「このプリント、安村先生に渡してくれないかな?」
「……ああ。わかった」
俺は二つ返事で了承し、プリントを受け取った。
「ありがとう。じゃあ、よろしくね」
笑顔を向けてくる松尾に見向きもせず、俺は指示された教師の元に向かった。
その後ろで。
「ちょっと七瀬、いい加減あんな気味の悪い奴に話しかけるのやめなよ。時間の無駄よ」
という女子の声が聞こえた。
それもそうだ。
松尾七瀬は学力、運動神経、性格、ルックスのすべてが高水準で非の打ち所がない。
唯一欠点を上げるとすれば凹凸の少ないスレンダーなボディだろうか。
……いや、それすらも彼女の魅力を一層引き立てるものと化している。
そんな彼女が、男子の中で唯一俺にだけ積極的に話しかけてくるのだ。
異常極まりないその光景が毎日繰り返されるおかげで、俺は学校中の男子から目の敵にされ、ついでに女子からもハブられている、という現状である。
逆に、そいつらと関わらなくて済むので都合がいいと感じているが。
……そんなことを考えている俺に話しかけてくるくらいなのだから、余程の物好きなのだろうか。
一人でいる俺がかわいそうに見えるのだろうか。
大昔俺に助けられたのだろうか。
はたまた逆なのだろうか。
湧くのは疑問ばかりだが、深く踏み込んで良い領域ではないし、そもそも踏み込みたくなんてない。
関わりたくもない。
「心配しないで。私は、彼ともっと話をしたいんだ」
……どういう意味だろうか。
その言葉に違和感を覚えつつ、安村先生の元へ向かった。
「安村先生」
職員室に着いた俺は、安村先生に声をかける。
「ん。お、椎名か」
間抜けな返事だ。この人はいつもこうなのだから、気が抜ける。
「これ、プリントです」
「ああ、ありがとう。……どうしたんだ、俺の体をまじまじと見て」
「……すみません」
安村小鉄、42歳。
180㎝を超す巨体に、服の上からでも分かる、衰えを感じさせない筋肉の鎧を持ち合わせていれば、嫌でも目を向けてしまう。
その癖穏和な性格をしているのだから、わけが分からなくなる。
「ハッハッハ、気にすんな気にすんな」
「ありがとうございます。
……それより、いい加減そのどこかの外国人みたいなノリは辞めたらどうです」
失礼します。と言い残し、職員室を後にしようとする。
「待て椎名。言い忘れていたことがある」
「……なんです、かっ」
呼び止められた。
余りにも失礼な発言を咎められると思ったが、声のトーンがそれを否定している。
「今日の稽古は無しだ。ゆっくり休んどけ」
いきなりどうしたんだ? 彼女でもできたのだろうか、このマッチョは。
「理由は」
一応聞いてみる。
「祠の近くで、血に染まった布が発見されたらしい。それで暫く立ち入り禁止になった」
なーんだ、彼女ができたんじゃないのか。に、しても。
血に染まった布、というのは気になるな。
「……仕方ありませんね。分かりました」
「理解が早くて助かる」
「いえ、大丈夫ですよ、師匠」
そう言い残して、俺は職員室を後にした。
「おい椎名、くれぐれもあそこに近寄るんじゃないぞ!」
という声が聞こえたが、聞こえなかったことにした。
「……ハンカチ、どこかに置いてきたかな」
ふと気になって自分のハンカチを確認したが、ものの見事に紛失していた。
なんともタイミングの悪い話である。
「まさかな」
その『血に染まった布』の正体が俺のハンカチだとしたらと思うと、不気味でたまらなかった。
まあ、そんな都合のいいことなんて無いと思うがな。
帰るか。
「椎名君!」
「……松尾さん」
不意に、松尾七瀬に声をかけられた。
「七瀬でいいよ。……って、そうじゃない」
これ、椎名君のでしょ? と言いながら、彼女は白いハンカチを取り出す。
「……確かに俺の物だ。どこにあった?」
「廊下に落ちてた」
いつの間に。まあ、手元に戻ってきてよかった。
「そっか、ありがとう。じゃ」
特に用事もないので帰ろうとすると、
「あっ……。ま、待って!」
呼び止められた。
「一緒に帰らない? 私もこっちなんだ」
「へえ」
「「……」」
そこで会話が途切れる。
くそ、ドジ踏んだか。
「松尾さんがいいなら、いいよ。一緒に帰ろう」
とっさに出した一言。ひどく取り繕ったような表情をしていただろう。
だが。
「本当!? ありがとう!」
ほしい玩具を手に入れた子供のような笑顔を、彼女は咲かせていた。
酷いことをした、と罪悪感を感じてしまう。
それもつかの間、俺は松尾七瀬に手を引っ張られるようにして歩き出した。
---
「それでね、叔父さんがぎっくり腰になっちゃって……ふふっ」
「……ふっ」
笑ってしまった。こんなはずじゃなかった……。こんなはずじゃ……。
ふと、満足げに笑う彼女を見つめる。
艶やかな長髪、端正な顔立ち、長いまつ毛、そして、悲壮感漂う凛々しい瞳。
再び浮かんだ疑問を、声に出さずにはいられなかった。
「ねえ、松尾さん」
「ん、どうしたの? 椎名君」
失礼だとは思うが、聞かずにはいられなかった。
「どうして俺にだけこんなに興味を示してくれるんだ? 男子の中で、どうして俺なんだ?」
「んー。それはね」
そして。何かを決意するかのように、少し間をおいて、
「浩太君が強いことを知っているから」
一瞬、胸の奥がざわついたような、そんな違和感を覚えた。
「なんてね」
そう言っておどけてみせる彼女の姿は、どこか無理をしているように思えた。
「……そうだったんだ。けど俺は、君が思ってるほど強い人間じゃない。」
言いたくなんてなかった。けど、言わなかったら後悔する。
「……申し訳ないけど、君の期待には応えられないかもしれない」
そう言った瞬間、彼女はとても悲しそうな顔をした。
やめてくれ。もう失望するのもされるのも嫌なんだ。だからそんな目を向けないでくれ。
「そんなことないよ。私は、知ってる」
震えた声で、彼女は言った。
「じゃあ。……俺の家、こっちだから」
「……そうだね。また明日、ね」
申し訳ないことをした。けど、事実なのだから。彼女にとっても、良いことだったのかもしれない。
気まずい空気の中、彼女と別れた。
---
『着信です。着信です』
家のベッドで寝転んでいると、機械音声とともに携帯が震えた。
「はい、もしもし」
『おーっす椎名。今どこに居る』
安村先生からだ。
いきなり電話をかけてきてこれか。まったく。
「家に決まってるじゃないですか」
『はっはっは、それならいいんだ。じゃあな、早く寝ろよ!』
切られてしまった。
教師がこんなんでいいのかよ……。
今に始まったことではないが。
なぜ、安村先生が電話をかけてきたのか。それは、俺の中学時代に理由がある。
◇◆◇
中一の時、両親が交通事故で死んだ。
即死だった。
二人とも。
病院で、頭の打ち所が悪かった、と言われた。
特に驚きも、悲しみもしなかった。
一人で生きたい、一人でいい、と思っていたから。
ただ、理不尽な死に対する憤りはあった。
その帰りだ。安村先生と出会ったのは。
「君が、椎名浩太君かい?」
どちらかというと、声をかけられたんだったか。
「人の名を聞く前に、自分から名乗るのが筋でしょう?」
俺は、棘のある口調で応答した。
「うひゃ、こりゃ失敬」
先生は、一本取られた、というような表情した。
そして、軽く自己紹介をした後に、こう言った。
「さて、椎名君。
ご両親が亡くなった直後で、心の整理もついていないだろう。
しかし、確認しておかなければならないことがあるんだ。ちょっと来てくれないか」
そうして俺は、言われるがまま案内された部屋へと歩いて行った。
当時の先生は、カウンセリングの仕事をしていた。
俺が呼ばれた理由も、両親が死んだ子供の心のケアをする、ということだったらしい。
結果から言うと、特に何もなかった。とりとめのない話をして、終わり。
ただ、もう一度先生と話がしたい、と感じた。
だから、一通り落ち着いたあと、もう一度先生の元を訪れた。
色々な相談をした。そして、また来ようと心に誓った。
そうして、何回も先生の元を訪れていると、いつしか先生からも相談されるような間柄になった。
己の身を守れるように、週に三回ほど、先生に体術の稽古をつけてもらったりもした。
強くて優しい先生を、いつしか『師匠』と呼ぶようになっていた。
◇◆◇
こういった経緯があり、こうして電話をかける仲になったのだ。
先生は、少し前までカウンセラーとして病院に勤めていた。
だが、今年から俺が通う学校で養護教諭として働き始めたのだ。
それからは稽古も週五回に増えた。
学校では『師匠』ではなく『先生』と呼ばなければならないけどな。
ただ、信頼しているからと言って、信用しているわけではない。
二年ほど前に気付いたからだ。
ヒトは自分の利益のためなら平気で人を売り、担保に掛けるということを。
いつの日か、先生が敵になるかもしれないだろう。
それがいつ来ても良いように、そして、自分の身を守れるように。
やはり、力は身に着けておきたい。
「さっむ」
というわけで、祠のある裏山にやってきた。
しかし、規制線が張られているため中には入れない。
そして夜ということもあり、視界が狭い。
今日の稽古は無しだ、祠には近づくな、と先生から止められていた。
だが、どうしても行かなければならない、という気がしてたまらなかった。
まず、祠に行くための裏道を見つけなければならない。
規制線に沿って歩いていると、それが途切れている場所があった。
俺はそこから森の中へと入っていった。
さすがに夜ともなると、遭難してしまう可能性が高い。
そうなる前に、一刻も早く祠を見つけれなければ。
どこからともなく湧いてくる脅迫観念を、否定できない自分に腹が立った。
それから数分歩いただろうか。
「っ、あった!」
祠を発見した俺は、急いでそこへ駆け寄った。
ぐしゃ。
何かを踏んでしまったようだ。
慌てて足元を見る。
奇抜な恰好をした女性が倒れていた。血塗れで。
息をしていない。
「おい! 大丈夫か!」
そう叫びながら、女性の体を揺する。
「ッ……」
女がうめき声をあげた。
意識が戻りつつあるのか?
「おい! 聞こえるか! 聞こえるなら返事をしろ!」
刹那、視界が揺れる。
なんだ、これは。うぐっ……。
その歪みはどんどん増していく。
「し……なく……!」
聞き覚えのある少女の声が、聞こえた気がした。