抗魔症 ③
主人公視点です
「それはっ! 一体どういう……!」
俺は太蔵さんにつかみかかろうとした。
しかし、それは阻まれた。
……ジェムウルフによって。
「落ち着け、我が主よ!」
「その声……、まさかお前!」
ジェムウルフが発した声は、聞き覚えがあった。
忘れるはずも無い。
誰もを威圧し、神々しさすら感じさせるような声。
「フェンリル!」
次の瞬間、ジェムウルフだったものが変形を始める。
まるで、主である俺に、呼応するかのように。
そして、姿を現したのは、犬でも、狼でもない。
紛う事なき、神獣。
「何故お前がここにいる!」
たまらず俺は、叫ぶ。
そう。フェンリルは、俺が生まれ変わった先で出会った、椎名浩太とは『出会うはずが無い』ものだったから。
エリオルにとってそれは、何を意味するのか。
存在の否定。
……そう取らざるを得ないのだ。
だから俺は、目の前の光景を受け入れるわけにはいかなかった。
自分で自分を否定しようとしているのだから。
「落ち着けといっておろうが!」
フェンリルの鋭い気迫に、俺は口を閉じざるをえなかった。
しかし、依然と俺の中では、己の存在に対する矛盾との葛藤があった。
今度は太蔵さんが口を開いた。
「いいか、椎名浩太。貴様の肉体は生きており、精神が死んでいた。これが何を意味するか分かるか?」
俺は口を閉ざしたまま、何も言うことが出来ない。
……分からなかったのだ。
「ならば教えてやろう」
そして、太蔵さんが、口を開いた。
鋭く尖った、刃物のような言葉を。
「椎名浩太、貴様は空っぽの人間だ!
困っている人間を誰も救えない、力の無い人間だ!」
言葉が凶器となって、椎名浩太の身体に刺さっていく。
「貴様には何も無い!
力も、守るべき者も、失うものも!」
……守るべき者が、無い?
違う! 俺には、確かにいたんだ!
守るべき人が!
守るべき少女が!
「この――――
人の形をした、バケモノめ!」
その凶器が、俺にとどめの一撃を、加えた。
身体が崩れ落ちる。
だが俺は、エリオルだけは、死ななかった。
「違う」
そう呟いて、立ち上がった。
刹那、蓄積された記憶が、まるで走馬灯のように脳裏を駆け巡る。
好きな子が出来た。
裏切られた。
両親が死んだ。
安村先生と出会った。
松尾七瀬と出会った。
生まれ変わった。
両親がとても優しくしてくれた。
環境に恵まれた。
みんなに愛された。
生まれ変わって、戸惑うこともあった。
だけど、みんな俺を愛してくれた。
ドジだけど格好良い父さんも。
いつも笑顔で元気いっぱいの母さんも。
時に厳しく、そして優しくしてくれたユーミさんも。
魔法に名前を付けてくれたセツナも。
全部、全部――
「かけがえのない、宝物だ!」
俺は叫んだ。
過去の自分などどうでも良い。
こんな俺でも、愛してくれた人がいる。
その事実を、なかったことにするわけにはいかなかった。
想いを無駄にするわけにはいかなかった。
「どうすることも出来なかった絶望も、己の無力さへの失望も、生まれ変わったことも、愛されていることも、全部、全部、全部!」
だから、椎名浩太を受け入れることにした。
どんなに絶望しても、生きる希望を見いだせなくても、愛してくれる人は必ずいる。
椎名浩太はそれを知らなかっただけなのだ。
「……ふっ、そうか。お主は一体、どこまで運命に抗えば気が済むのだろうな」
太蔵さんが笑う。
……先ほどまで椎名浩太を罵倒していたとは思えないほど、すっきりした笑顔で。
見ているこちらが恥ずかしくなって、ポリポリと頭を掻いた。
そこで俺は、気付いた。
――立ち上がったのは、エリオル・エルンバードだったことに。
「気付いたか、椎名……。いや、エリオル!」
はっとして、己の身体を、四肢を見る。
この手足の大きさは、間違いなく五歳程の人間のものだ。
俺は、今置かれている状況を全て理解した。
「最初から、こうするつもりだったんですか」
「いいや? これもお主の運命力によるものよ」
太蔵さんはそう言うが、間違いなく嘘だ。
何故なら、今俺がいるこの場所は――
精神世界、なのだから。
「俺は、椎名浩太という業を背負っていた。
エリオルに生まれ変わっても、その業から逃れることは出来なかった」
ついさっきまで頭に血が上っていたとは思えないほど鮮明に、そして正確に、次から次へと言葉が出てくる。
それは決して凶器の類いではなく、単なる答え合わせのようなものだった。
「でも、エリオルとして生きていくためには、その業を払拭する必要があった。
けど、矛盾があったんだ。この世界が何よりの証拠だ」
はっきりと思い出せる。
俺はここに来る直前まで、エリオルとして生活していた。
しかし、どうだ?
この場に呼び出された俺は、椎名浩太の姿をしていた。
それが、矛盾だ。
「エリオルの中身が、椎名浩太だったってわけだ。けれど、転生に気付いたときには、記憶を失っていた。
そして、エリオルとしての意識が、椎名浩太を呑み込み始めていたんだ」
記憶を失った椎名浩太は、限りなく無に近かった。
……あるいは、抜け殻だったのかもしれない。
それでも、確かにエリオルの中に残っていた。
「そして、太蔵さん。あなたはまるで、椎名浩太を殺すかのように、凶器を投げかけた」
「ほっほっほ。何を勘違いしているのかは知らんが、お主はお主自身の力で闇に勝ったのだぞ?」
「……俺は、勝ったわけじゃ、ない」
精一杯の、悲痛な叫びだった。
過去の己を受け入れ、前に進もうとするが故に。
えもいわれぬ恐ろしさが、襲ってくるのだ。
「……俺は、業から逃げも隠れも、戦いもせず、ただ、受け入れただけだ。椎名浩太は、まだ、生きている」
エリオルの中の椎名浩太は死んだ。その事実は二度と覆ることは無い。
だが、彼の肉体は、生きているのだ。
この事実もまた、俺を苦しめる。
俺は、エリオルとして生きていく。
椎名浩太の屍とともに。
生きていかなければならないのだ。
「……それでいいじゃないですか」
気付くと俺は、春ちゃんに抱きしめられていた。
「私には、業とか使命とか、よくわかりません。
……ですが、あなたがとても後悔していることは、わかります」
とても、暖かかった。
「悔いのないよう、生きてください」
その瞬間、心が軽くなった気がした。
俺は、生まれ変わったのだ。
エリオル・エルンバードに――。