05
「入院はしなくていいから。いや、むしろとっとと帰ってくれるとありがたい。でも、安静にしないと頭の傷、開くからね。あと、エーコちゃんも傷の治療はちゃんとしてあげたんだから安静にね。大したケガじゃないけど、擦り傷は痕が残りやすいから、お大事に」
医師の男にそう言われて、病院を追い出されたシロクとエーコ。
「あのおじさんのお腹がすごく鳴ってた」
それが理由だなんて考えたくはないが、個人の開業医のような看護師ではなく助手を置くだけで、他の医師がいない塔破者を診てくれる医者など、そういう自由なもんだ。
入院設備などないのが当たり前。
なにせわざわざ夜に塔に入る塔破者がいないのだから、夜に病院をやる必要もない。
「本音を言えば、面倒なのよね、時間外診療」
「エーコさん、エーコさん」
医師の奔放さに落胆するエーコの気持ちなど露知らず、麻酔がまだ完全には切れていないためエーコに背負われているシロクは、その上で首を巡らせていた。
「あれ食べたい、あれ」
時間はすっかり飲み屋街がオープンする時間。
しかし、外周の塔の塔破者を相手に商売しているぼったくりが横行する屋台の出店が、今日は極端に少なく、酔っぱらって騒ぐような迷惑な客もいない。
まるで葬式のように静かに酒を飲み、最低限の料理を腹に収めているだけだ。
「塔治者のせいで、稼ぎが期待できないからみんな財布のヒモが固いのね」
そんな状況で出店を出せば、赤字になりかねない。
下拵えが必要な屋台などは、こういう日は決まって店を出さないが、保存が利く食材を、注文の入った分だけ、その場で調理して売るような屋台はいつだって店を出す。
客足は少ないため、燃料やエネルギーで魂脈を使えば赤字になる可能性もあるが、予想以上に客が来れば、客を独占できるため大きく儲けられるのだ。
「あ、あっちのも食べたい」
エーコがそんなことを考えていることなど知らないシロクは、エーコの背中の上で右へ左へと指を差して、目についた屋台を物欲しそうな顔で見つめている。
「シロク、あたし、ずるずるがいい」
「ん?」「え?」
シロクが視線を落とし、エーコが第三者の声に疑問を抱くと、エーコの背中にいるシロクの服の裾を掴む、明るい髪色の小さな女の子がいた。
「誰、この子」
「シリリィだよ」
「ご飯、約束。お腹すいた!」
その声を聞いてシロクの腹も、エーコの背中に響くような大きな音をさせて鳴った。
「……先にご飯にしましょうか」
シリリィが食べたいという麺の屋台へと行くと、そこにいた店主は亡霊でも見るような目を向けた。
「ま、またお前たちか……」
「約束通りきました!」
「確かに約束をしたが……いや、俺はしてないな」
店主の男は閑古鳥の鳴く屋台の向こうで、すっかり冷めた鉄板にコテを落とした。
「で、今日もうちのを食いたいのか? そっちのぼいんの姉ちゃんまで連れて」
シロクが背負われていることなど気にした様子もなく、店主はぶっきらぼうに言い放つ。
「まあ、どうせ今日はもう人来ないしな。目の前で焼いてやるから、どんどん食え」
鉄板に火を入れて、十分に熱が伝わったところで油を敷き、野菜を投入する。
野菜についた水気が油と混ざって弾けるものの、野菜が少しずつ焼け、火の強いところにあった葉物野菜は黒く焦げてしまっているが、そんなのには構わず、二本のコテを使い、豪快に野菜に火を通していく。
「ここで隠し味の粉末調味料を入れて、麺を投入。麺と野菜を絡ませて、最後に特製ソースをたっぷりぶっかけて、鉄板の熱で焦がす」
するとソースの香ばしい香りが空腹だったシロクとシリリィだけでなく、エーコの腹まで反応させる。
エーコは誰かに聞かれていないか気にして、腹を抑えて頬を赤らめるが周りにいる誰もが自分など見てはいなかった。
「これで完成だ!」
「うまそー!」
シロクが目を輝かせる間に、店主は手際よくパックに詰めて渡す。
「ほら、小さなお嬢ちゃんも、ぼいんの姉ちゃんも」
三人が手にするパックに山のように盛られた麺からは白い湯気が立ち上っている。
「もうお前たち三日連続でこれを食って飽きないのか?」
「飽きない! いただきます!」
いつの間にかエーコの背中から下りていたシロクはシリリィと声を合わせて、大量の麺を豪快に啜った。
「んっまぁい!」
シロクとシリリィは口の周りをソースの色に染めながら、互いに顔を見合わせて、残りを掻き込むようにして頬張った。
リスのように口をいっぱいにしてゆっくり咀嚼していく。
いつもより多いにも関わらず一パック分を平らげるのは、あっという間だった。
あまりの食べっぷりに空腹を訴えていたエーコの箸が止まるほどの勢いだ。
「さっきまで死にかけていた子とは思えない……」
シロクの額にはまだ傷を隠すためにガーゼが当てられているが、出血はすでに止まっているので、派手に動き回らなければ開くことはなさそうなのだが……。
エーコの心配を他所に、シロクとシリリィは揃っておかわりを催促している。
「ぼいんの姉ちゃん、冷める前にとっとと食ってくれ。俺の麺はウコククいちだ!」
店主はそう言いながら次のおかわりを作れば、またしてもすぐにシロクとシリリィに食べられてしまい、作るのが早いか、食べるのが早いかを無言で競い始めた。
「いただきます。――おいしい。ソースの香りが鼻から抜ける。なにか果物を使ってるのかしら?」
「企業秘密だけど、鼻がいいな。ぼいんの姉ちゃん」
その呼び方はすぐにでもやめて欲しいところだが、鉄板の上で忙しなく動かされるコテを見ていると、変な横やりは入れにくくなる。
「……そんなに男の人にとって、この胸がいいのかしら? 邪魔なだけなのに」
「あたしにはないよ、ぼいん」
口の周りをソース色に染めたシリリィの言葉は慰めでも羨望でもなく、ただ事実をありのまま伝えているだけだった。
「まるで女の子のシロクくんね」
考えなしというか、直感で生きている危うさのようなものを感じる。




