No.64
8月10日。 東京は今日も爽やかに晴れ渡り、都心では36℃を記録する超真夏日となった。
そんな強烈な陽射しが届かず、一年を通して梅雨前線が停滞している空間があった。 下町アパートの一室、椎名恒夫の部屋である。
不快指数100%を超すであろうその室内には、異様な光景が拡がっていた。
先のスナイパーの思い込みによる「乱入事件」によって、椎名の守護者でもあり、恋人であるフィギュア達が無惨にも破壊された。
そして無念にも散っていった「恋人達」を弔うため、部屋中に位牌が所狭しと並べられていたのだ。 その数、実に二百十六基にも及んだ。
全て彼女達が立っていた場所に配置までされており、そこに椎名の想い入れが伝わってくるようである。
だが、そんな恋人達にも唯一の生き残りがいた。 それはデブ椎名を痛め付けているどさくさに紛れ、スナイパーが戦利品としてくすねた『酒屋の女店主』の主人公「きゑ」だった。
そんなことを知る由もない椎名は、恋人達の死を悼み、線香を絶やさず上げ続けていた。
「僕の妄想が現実になったから、みんな死んじゃったのかな?」
哀れな椎名は、全ての事象が妄想世界によって具現化されたのだと信じて疑っていないようであるが、事実はスナイパーの歪んだ思い込みによってもたらされた悲劇だったのだ。
ピンポーン!
椎名の愚にもつかない思考を寸断させるに十分な音量のチャイムが鳴った。
このアパートに引っ越して12年経つが、椎名の下には親戚縁者はもちろんのこと、両親すら寄り付かなかった。
最後にチャイムが鳴ったのは、スナイパーが引っ越しの挨拶に来たとき以来であろうか。
それ以外に来るのは勧誘の類だろう、どちらにせよ招かざる客であることに違いはない。
「はい、どなた?」
『おはようございます。 朝早くにすいません、105号室の葛原です。 今日は、椎名さんに大事な相談があって伺いました』
扉越しではあるが、椎名と葛原が話したのはこれが始めてである。
僕に相談?
ガチャッ! ギィー・・・
今まで相談事を持ち込まれたことがない椎名は、喜び勇んでドアを開け、対応に出た。
「大事な相談と言うのは?」
引きこもりによって閉ざされた天の岩戸を、葛原の悪魔の囁きによってあっけなく開かれた。
「あの、今夜予定空いてたら、7時から三対三で合コンやるんですけど、それでどうしても椎名さんに参加してもらいたいんです。 駄目でしょうか?」
ご、合コン! この誘いを待ち続け、どれほどの月日が流れただろうか?
椎名の人生が報われた瞬間である。