No.61
殺人という禁忌を冒す美香の心臓は、今や早鐘の如く脈動していた。 包丁を握る手が汗ばみ、震え始める。
しかしそれとて、貴重な安眠を妨害されたスナイパーへの殺意の方が強く、理性を駆逐していたのだ。
早く出て来い密入国!
美香の祈りは通じず、まだ扉が開く様子はない。
そんな時である、美香の祖父である吉右衛門との思い出が蘇った。
美香が高校生の頃、鉈を持った吉右衛門が、収穫の終わった畑に取り残された案山子の胸部を指差した。『美香よ、あそこにおる案山子を人間だとしよか。 刃物で胸を刺す時は、刃を縦に刺しちゃいかんよ。 肋骨が邪魔しよって心臓に刺さらんからのう。 刺す時はこうやって、刃を横に寝かせて刺すんよ』そう言うや否や『きえーっ!』案山子目がけて体当たりをした。
それを目の当たりにした美香は、祖父がもうろくしたんだと本気で怖くなった。
今にして思えば、祖父のあのレクチャーは、この日のためのものだったのかもしれない。
それならば、尚更失敗は許されないだろう。
老人の気まぐれを、自身の都合のいいようよに解釈をする。
時を超えた祖父からのレクチャーを反芻しているうちに、扉が開きスナイパーが横柄な態度で扉を開けた。
「はい、なんでしょうか?」
しまった、タイミングを逃した!
美香が過去に思いを馳せているうちに、スナイパーに意識を外された。
そして美香の失態はそれだけではなかった。 部屋の中に人がいたのだ。
あいつは105号室の葛原っ!
密入国者であるスナイパーには、友人などいるはずないという先入観から、一人で騒いでると思い込んでいたのだ。
まずい、何か言わねば怪しまれる。
「ちょっと、なんでしょうかじゃないでしょ! さっきから騒いでばかりで、いい加減にしてくれませんかっ! この間も人の部屋の前にずっと立って大声出して、ストーカーまがいなことは一切止めて下さいっ」
バタン! 唖然としているスナイパーに反論の余地を与えず、勢いよく扉を閉めた。
今日は命拾いしたわね密入国。 でも次はないわ。
命拾いをしたのは、自分だということに一生気付くはずはないだろう。
あれ? 腕の痺れが治ってる!
強烈な殺意という非日常的な感情を突出させることで、アドレナリンが大量に分泌され、腕の痺れが一時的に打ち消されたのである。
この日を境に、美香の殺意に溢れる激動の人生が始まるのだった。