No.60
午後11時。 美香は鎮痛剤による深い眠りから、無理やり現実に引き戻された。
・・・うるさいわね。 何騒いでるのよ、あの密入国者! ストーカー行為をするわ、人の睡眠を妨害するわ、もう許せない!
今や、スナイパーの名はすっかり「密入国者」で定着していた。
美香は就寝前に鎮痛剤を服用し、効力が切れる真夜中に起き出し、ダンスの練習に励むサイクルを繰り返していたのだ。
後遺症という痛みの中で、束の間の貴重な安眠をスナイパーの騒ぎ声によって寸断されたのだ、暴君・美香が激怒しないはずがない。
自らが出す騒音は、人の迷惑になろうと一切顧みることはないが、他人が出す騒音だけはどうにも我慢ならかった。
キッチンから、出刃包丁を持ち出し玄関を飛び出る。
あいつ、メッタ刺しにしてやるっ!
その判断は賢明ではないと言えよう。 相手はあの伝説のスナイパーである、美香の包丁が到達する前に、返り討ちに遭うのが関の山であろう。
日本の平和に毒され腑抜けていても、アンダーグラウンドに身を置く住人である。 一市民に不覚を取ることは万に一つもあり得ないのだ。
美香の中ではスナイパー刺殺後、翌朝のニュース番組で大勢のマスコミに囲まれ、何食わぬ顔でインタビューを受ける自身の姿が浮かび上がっていた。 テロップには『密入国者刺殺事件、背後には金銭トラブルのもつれか?』と言う具体的な見出しまで銘打たれていた。 イメージトレーニングは完璧である。
だが、ここは犯罪検挙率世界一の国である。 そんな衝動的な犯行では、すぐ捕まるのが落ちであろう。
ちくしょう! 日本は戦争に負けてアメリカの属国家になったけど、密入国者にまで魂を売った覚えはないのよ!
よほど腹に据えかねていたのだろう、半世紀以上も昔の敗戦の記憶まで持ち出す有様である。
ピンポーン!
包丁を背後に隠し持ち、荒い息遣いで104号室のチャイムを鳴らす。
程なくして『・・・どちら様でしょうか』スナイパーが応答する。
「こんばんは、101号室の木嶋です」さあ、いよいよだ。 いいこと、美香。 密入国者が玄関を開けたら刺す、そして何食わぬ顔で部屋に戻る。 ただそれだけよ。
美香は、人生で初めて殺人行為に手を染めようとしていた。