No.35
8月1日、午前11時。 本日の東京は摂氏38度の超真夏日である。 熱中症者が続出する中、自治体からは外出を規制する厳戒態勢が敷かれた。 この殺人的な猛暑は、下町アパートも例外ではなかった。
104号室では暑さに屈したスナイパーと葛原が、無駄な体力を使うまいと床に寝転び、エアコンの冷気を浴びていた。 しかし、それとて外気の暑さにより、その機能を果たしていないのが現状であった。
「ジミーさん、俺の部屋でそうめん食べませんか?」
「白くて細い麺のことだろ? うーん、今は何も食べたくないな」
おまえの顔見てると、さらに食欲が失せるんだよ。
日本に来て初めての猛暑を体験したスナイパーは、高温多湿な気候に適応出来ず、夏バテに陥っていたのだ。
スナイパーの思い込みにより発生した椎名 常夫暴行事件以来、スナイパーと葛原は、毎日のようにお互いの部屋を行き来していた。
「ね、ジミーさんのその格好じゃ暑いでしょう? 夏だから、イメチェンでもしませんか?」
「イメチェン?」
何語話してるんだ、このバカは?
スナイパーは日本語の日常会話レベルまではマスターしたのだが、和製英語や造語といったサブカルチャー的言語は、未だに理解の範疇を超えていた。
「イメージチェンジ! 要はいつもと違う服を着ましょうって意味ですよ。 ジミーさん、整った顔してるから、もっと服装に気を使えばモテますよ」
「いつもと違う服か・・・」
葛原はハーフパンツにポロシャツとラフなスタイルなのに対し、スナイパーはカーゴパンツにうす汚れたロングコートと、いつもと変わらぬスタイルだった。
スナイパーにとってこの服装は、アンダーグラウンドな青春を共に過ごしてきたものであり、アイデンティティの証でもあった。
しかしこの暑さと、葛原の未来が拓けるかのような提案で、そのアイデンティティも揺らぎつつある。
ここで格下の誘いに乗ったら、いいように言いくるめられたと思われるみたいで癪に障るな。 何とかしてアドバンテージを俺に付けなければ!
「うーん、俺も大輔が提案する前に、夏服にしようと思ってたんだよ」
これでアドバンテージは策士・葛原に付いた。
今まで培ってきたアイデンティティが、夏の暑さの前に脆くも崩れ去った瞬間である。