No.16
どこをどう歩いて来ただろう、それすらも自覚がないほどに、人生初の失態が応えたようだ。
それでも周囲に対する警戒心だけは解いてはいなかった。 無意識下の行動である。
ずぶ濡れのスナイパーは、疲労から空腹感を覚えた。 と、そのとき、煌々と照らされた黄色い看板が目に入った。 看板には「幸楽苑」と書かれているが、スナイパーには読めようはずがない。
店のレイアウトから、どうやらここは食事を提供する店であることが推察できた。
スナイパーは、極めて短期間のうちに各国の公用語をマスターできるのだが、リーディングやレタリングに関してはその限りではないのだ。
疲れたし、腹も減ってるし、入ってみるか。
店内に入ると、客はスナイパーと男女の若い恋人達だけだった。
「いらっしゃいませ。 お一人様ですか?」ウェイトレスが平身低頭で出迎える。
見て分かんねえのか? 一人に決まってるだろ。
「ああ」怒りを露わにせず、ただ頷くだけに留めた。
「お好きな席へどうぞ」
女店員は笑顔であるが、その裏ではずぶ濡れのコートの外国人をホームレスと勘違いしていた。
辺りを見回し、全体が見渡せ、刺客の襲撃に即座に反応できる席に着く。 暗殺者の鉄則である。
「ご注文は何になさいますか?」
「すまないが、この店で一番ポピュラーなものをくれないか?」
「はい。 それでしたら〝中華そば〟ですね。 少々お待ち下さい」
客も店員もみなずぶ濡れのホームレス風の男を、遠巻きにジロジロ見ている。
「お待たせいたしました! 中華そばです」
やがてスナイパーの前には、湯気が立つ香ばしい器が運ばれてきた。
普段は出された物は決して口にしないが、疲労と空腹感で判断力が鈍っていたのか、あるいは無理やり暗殺者としてのプライドを抑えたのか。
使い慣れぬ箸を駆使し、麺をすくい上げる。
これは・・・ ヌードルか?
ヌードルである。
何はともあれ、麺を恐る恐る口へ運ぶ。
「な、なんだこの味はっ!? 」
不審な外国人が、幸楽苑のラーメンを食べて驚いている、その反応を見た客や、店員は笑いを堪えるのに必死だった。
全身に走る衝撃、革命とはこのことであろう。
悲しいほどに暗殺者としてストイックに生きる日々・・・「常に空腹であれ」恩師からの教えである。
空腹感を満たしては、鋭さが欠け周囲への警戒心が疎かになってしまう。
それ故にスナイパーは必要最低限の食事しか摂取しない。
外食に行くにしても、信用できる店の、決まった席にしか座らない。
食うために生きるのか、生きるために食うのか、その価値観が一杯300円のラーメンで変わりつつあった。
「デ・・・デリシャス!」