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困惑の二日目

 二日目(金曜日)


 翌朝。

 いつものようにテレビから聞こえてくるニュースキャスターの朝の挨拶で目を覚ました。

 昨日、走り回ったのに加えて寝袋で寝たせいか、体じゅうの筋肉が痛み、立ち上がるのがやっとだった。

 ベッドのほうに目をやると、ロゼはまだすやすや眠っている。柔らかそうな頬に触れると、「う、うん……」と呻き声を軽く洩らした。これ以上やると起きてしまう気がしたので、ローテーブルの上に置いてある携帯電話を取り、静かに居間兼寝室を出た。洗面台に向かい、目薬を差す。そして、朝の日課であるモーニングコールをするべく、怜に電話をかける。

 驚くべきことに、ワンコールで繋がった。

「もしもし」

『おっはよー! 今日は良い天気だね!』

「お、おう……そうだな」

『なになにぃ? 元気ないよ!』

「お前が元気すぎるんだよ。しかし、僕より早く起きてるなんて初めてじゃないか? こりゃあ、総理大臣が交代するくらい珍しいことだな」

『そんなに珍しいことじゃなくない? 最近は一年持たずに代わってるじゃん』

「確かに……」

『本当に短い期間で首相が代わりすぎだよね! そんなにポンポン代わったら中長期的な政策を実行しにくくなるし……って、三ヵ月に一回くらいはあんたより早く起きてるわ!』

「はい、ノリツッコミ頂きましたー。うーん、七十点くらいですかね」

 てか、年に四回だけかよ。少なすぎだわ。

『ば、バカにするな! もう絶対に早く起きてやらないからね! ワタルのバーカ、アホ、おたんこ――』

 ギャーギャーうるさいので電源ボタンを押した。あとで色々言われるかもしれないが、バッテリーが無くなったとでも言っておこう。

 居間に戻ると、ロゼはすでに起きていた。ベッドの上で胡座をかき、食い入るようにテレビを見ている。二十八インチの画面には、若い女性二人が、今話題のスイーツを食べに行くというロケの模様が映っている。二人とも背が高くスリムなので、おそらくモデルなのだろう。

「おはよう。もう起きてたのか」

 僕が声を掛けると、ロゼはただ頷くだけで、テレビから目を離そうとしない。

「そんなに面白いか、それ?」

 テレビ画面を指差すと、ロゼは首を横に振った。

「おいしいもの食べて、味の感想を述べるだけでお金が貰えるなんて随分楽な仕事だね」

「まあ、そう言ってやるな。彼女たちだって一所懸命頑張ってるんだから」

 ロゼは首を傾げる。顔は相変わらずテレビに向けたままだ。

「ねえワタル。これって一応ニュース番組だよね? なんでこんなことやってるの?」

「いや、ニュース番組っていうよりは情報番組かな。ニュースだけじゃなくていろんなことをやってるよ。そうしないと視聴率が取れないからな」

「へえー。こっちではそうなんだ」

 こっち? ロゼが住んでいる地域では朝はニュースしかやらないのかな。

「そんなことよりお腹空いた。なんか食べたい」

 テレビから目を離し、眠たげな目を僕に向けてくる。

「食パンでいいか?」

「うん。いちごジャムたっぷりでお願い」

「了解」

 冷蔵庫の上に置いてあるトースターで食パンを二枚焼き、いちごジャムを塗ってロゼに渡す。ちなみに僕はブルーベリージャムだ。ロゼは、ありがとう、と言って受け取るとこれまた一口で食べてしまった。

「もうちょっとゆっくり味わって食べろよ……汚らしいぞ」

 僕が指摘すると、ロゼはうんざりしたような顔で反論した。

「あのさあ、味わい方は人それぞれなんだから好きに食べていいじゃん。第一、ちびちび食べるのが正しい食べ方だなんて誰が決めたの?」

「誰が決めたかなんて知らないけど、昔からよく言われてるだろ。早食いは体に良くないって」

「じゃあ遅食いは体に良いんだ?」

「……そうなるんじゃないか? ゆっくり噛んで食べることで、満腹中枢が刺激されてダイエットにも有効らしいし」

「ふーん。ダイエットが必ずしも体に良いことだとボクは思わないけどね。過度なダイエットはそれこそ体に良くないでしょ。それに、ボクが思うに女性は多少ふくよかな方が健康的で良いと思うんだけど。正直、彼女たちみたいのはあまり好かないな」

 そう言ってテレビに顔を向ける。確かに少しばかし痩せすぎな気もする。

「まあ愚意を申し上げたまでだよ」

「確かにグルメリポーターにはふさわしくないかもな」

 僕の言葉にロゼは肩をすくめた。

 それから二人でしばらくぼーっとテレビを見た。僕が食パンを食べ終えると、ロゼが訊ねてきた。

「今日は学校があるんでしょ?」

「ああ、もちろん。明日は土曜日だから休みだけど。てか、お前も一応高校生なんだろ? 学校休んじゃって大丈夫なのかよ」

「それに関しては問題ないよ。授業を休むことにはなるけど、公欠扱いになるから成績には影響しないと思う」

「……なるほど」

 気になる単語が出てきたけど追及するのはやめておこう。

 うーん、どうしようか。ロゼを一人でこの家に置いておくのはなんか危ないよなあ。かといってロゼを学校に連れて行くわけにもいかないし。いっそ、学校をサボってしまおうか。一日くらい休んだって平気だろう。

 そんな僕の考えを察したのか、ロゼは親が子供に諭すような口調で言った。

「ワタル。ボクのために学校を休む必要はないよ。一人で一日お留守番をするくらい犬や猫にだってできる。 それにボクはこう見えて掃除が大好きなんだ。キミが帰ってくるまでにこの部屋をピカピカにしてみせよう。もし掃除を終えてしまってもキミが帰ってこなかったら、のんびりテレビでも見てるよ」

「……そうか。お前がそう言うなら、僕は学校へ行くことにするよ」

「うん。そのほうがいい。学生は一に勉強、二に勉強だからね。ほら、早く制服に着替えて。もう八時を回ってるよ」

 テレビの上の壁掛け時計を見ると、八時五分だった。僕は慌てて制服に着替え(なんとなく恥ずかしかったから廊下で)、鞄を持って靴を履き、ドアノブを回す。外へ出ようとしたとき、背後からドタドタと足音が聞こえた。振り返ると、ロゼがこちらに向かってきていた。見送りのつもりなのだろうか。

 僕はロゼに言い忘れていたことがあったのを思い出した。

「あ、そうだ。昼飯は、冷蔵庫の一番下に冷凍食品があるから、レンジで温めて食べてくれ。量は少ないけど、そこは我慢してくれると助かる」

「わかった。ゆっくり噛んで食べることにするよ」

「おう、しっかり味わって食べるんだぞ。じゃあ、行ってくる」

「行ってらっしゃーい」

 ロゼが手を振ってきたので、僕も手を振り返してドアを閉め、鍵をかけた。


 昨日よりは早く家を出たので走る必要はなかった。でも、のんびり歩いていたら遅刻をしてしまうので早歩きだ。

 ふと空を見上げると、ベールのようなうす雲が一面に広がっていた。その雲の影響なのか、太陽のまわりには薄い輪ができている。これは「日かさ」といわれる現象で、低気圧の接近に伴って発生しやすくなるらしい。つまり、雨が近いことを知らせてくれる。飛行機雲ができたら雨が降りやすいとかと同じようなものだ。なので、その名に騙されずに雨傘を持っていかなくてはならない。そういえば、さっきテレビの天気予報で夜から雨が降り出す、と言っていたのを今頃になって思い出した。まあ日かさが出ているからといって必ず雨が降るわけではない。降らないことを願おう。

 いつもより歩を早めたせいか、チャイムが鳴る十分前には正門を通過し、五分前には教室に着くことができた。ロゼがあそこで言ってくれなかったら本当に遅刻してしまうところだった。帰ったら感謝の言葉を伝えなくては。

 怜はクラスメイトの女子と楽しそうに雑談中。本当に朝から元気なやつだ。それとは対照的に春人は机に突っ伏している。どうせ、また夜中まで小説のネタ探しでもしていたのだろう。二人とも僕が入ってきたことには気づいていない。春人はともかく、怜は気づいてもいいと思うんだけどな。それほどお喋りに夢中になっているのか。いや、あいつのことだからわざと気づかないふりをしているのかもしれない。

 ぐるっとクラスを見回したが、渡瀬の姿を見つけることはできなかった。真面目そうだから必ず十分前には来ているイメージだったんだけど。少なくとも彼女が遅刻をしたことは一度もないはずだ。なぜなら、昨日初めてクラスメイトだと知ったのだから。もし遅刻をしてきたら、どれだけ影が薄い生徒でも印象に残るはずだ。

 結局、渡瀬が来たのはチャイムが鳴ってから数分後、アキ先生が入ってくるのと同時だった。

「ご、ごめんなさいっ!」と、アキ先生が入ってくるや否や大声で謝ってきたものだから、渡瀬が入ってきたことに気がづいたのは僕ぐらいだったと思う。渡瀬は静かに席に着いた。顔は無表情だったが、相当急いで来たのだろう、肩で息をしていた。

 深呼吸を何度かして落ち着くと、僕の視線に気づいたのかその長い睫毛を備えた目をこちらに向けた。僕はなぜか目を逸らすことができなかったので、ぎこちなく笑いながら会釈をする。それに対して彼女はにこりともせず軽く頭を下げて、アキ先生のほうに視線を移してしまった。

 どうやらまだまだ彼女との距離は縮まっていないようだ。昨日の一連の出来事で多少は仲良くなれたと思っていたのだけれど。

 あれこれと考えているうちにホームルームが終わり、アキ先生が教室から出ていった。先生がいなくなった途端にクラスがざわつき始め、怜はまだ話し足りないのか、さっきの女の子のもとへ駆けていく。春人はまだ熟睡中。どんだけ眠いんだよ。

 僕は取り立てて誰かと話すこともなかったので、ぼーっと窓の外の景色を眺めることにする。空には相変わらず薄い雲が広がっていたが、雨雲はまだ見られない。このまま、終日この調子だと嬉しいんだけど。雨さんよ、降ってくれるなよ。

 曇り空に向かって心の中で祈りを捧げていると、声を掛けられた。

「お、おはよう」

「ん? おはよう…………ってえええ!?」

「ちょ、ちょっと。さすがに驚きすぎだよ……」

「あ、ああ、ご、ごめん。おはよう……渡瀬」

「う、うん。お、おはよう」

 僕がこれほど驚いてしまったのも無理はない。まさか、渡瀬から声をかけられるとは。彼女は自分から挨拶をしてきたというのに、恥ずかしがって俯いてしまっている。しょうがないので僕から問いかける。

「どうしたの? なにか僕に用でもあるの?」

「え……う、うん」

 そこで一度言葉を切り、胸に手を当てて、ふうと息を吐き出す。それから、すうっと息を吸って言った。

「あ、あのね、昨日あれから何か変わったことあった?」

「えっと……特にはなかったよ」

 実際は、かなり大変なことがあったけど。でも、渡瀬に言ったところで信じてもらえるわけがないしな。

「本当に何もなかった?」

 渡瀬は語気を強めて訊いてくる。

「うん。あの後、公園に鞄を取りに行って、コンビニで弁当を買って帰っただけだよ」

「……そう」

 とだけ言って、彼女はまた俯いてしまった。

「なんでそんなに気になるんだ……もしかして昨日何かあったのか?」

 渡瀬はぶんぶん首を振った。

「ううん。見境くんが帰った後、私はずっと家にいたから。でも、その……あなたはたぶん、鞄を取りに公園に行ったでしょ? だから、あの人たちに会ったりしてないかなって思って……」

 ああ、そういうことか。ということは、つまり――

「僕の身を心配してくれたってこと?」

 彼女はこくりと頷いた。顔が真っ赤になっている。

「あ、ありがとう……」

「うん……」

 ……なんだ、このむず痒い空気は。でも昨日の気まずい空気と違って、話さなくても苦しくなったりはしない。むしろこの沈黙が心地良く、どこか懐かしささえ憶える。

 僕らはしばらく黙ったままもじもじしていたが、やがて渡瀬が口を開いた。

「そ、それじゃ。私は席に戻るから……」

「お、おう……」

 僕が答えると、彼女は胸のあたりで小さく右手を振って去っていった。

 渡瀬が自分の席に戻ったのと入れ替わりで怜が自分の席に戻ってきた。

「なにニヤニヤしてんのよ」

「え、そんな顔してたか僕?」

「してたわよ。この変態」

「だから僕は変態じゃないって言ってるだろ!」

「なんで変態というワードにそんなに敏感なのよ……」

「じゃあお前は変態呼ばわりされて喜ぶのかよ!」

「喜ぶわけないでしょ! 喜んだらそれこそ変態じゃない!」

「それなら、自分が言われて嫌なことを他人に言うな!」

「……すいません」

「わかればいいんだよ…………この変態」

「ちょ!? ふざけんな!」

 怜が僕に飛び掛かろうとしたところでチャイムが鳴り、数学教師が教室に入ってきた。。

「後で覚えてなさいよ!」

 怜はそう捨て台詞を吐いて自分の席に戻る。戻るといっても僕のすぐ後ろなのであまり動くことはないが。

 ありがとう、チャイムさん。あなたのおかげで僕の寿命が五十分ほど延びそうです。


 一時間目の授業中、僕は昨晩ロゼが話していた二つの推論について思いを巡らせていた。

一つ目は、中学卒業から高校入学までの間――つまり春休み――に、記憶喪失を起こさせるような出来事が僕の身に起こったというものだ。

 これに関しては同意できる。なぜなら、高校入学以前の記憶が非常に曖昧なのに対して、入学直後から今までのことは鮮明に憶えているからだ。よって、記憶の有無の境目である春休みに何かがあったという考えに至ることは、当然といえば当然だ。さらに、残念ながら、その春休みのことを僕はまったく憶えていない。

 このように、一つ目の推論は納得できるだけの根拠がある。だが問題は二つ目の推論だ。

 昨晩ロゼはこう言った。

『キミは、誰かによって偽の記憶を植え付けられたんだ』

 この話を初めて聞かされた時にはあまりの突飛な考えに動揺し、そんなことはできるはずがない、ありえないと思っていた。が、一晩経った今、冷静に考えてみると、考えられない話でもないような気がしてきた。

 一般的に考えられている記憶喪失というものは、文字通り「記憶」を「喪失」することである。ある時点から遡っての記憶が引き出せなくなってしまう。症状が重い場合には、よくドラマなどで使われる、「ここはどこ? わたしは誰?」状態に陥る。

 初めは僕もこのような記憶喪失になってしまったのだろうと思っていた。しかしながらよく考えてみると、僕の場合はただの記憶喪失ではない。

 もしそうであるならば、僕は過去のことを何も思い出すことができないはずだ。しかし、僕は記憶を失っているわけではない。

「父親と一緒に暮らしていた」、「母親は僕が幼いころに亡くなった」といった情報は確かに頭の中に残っているのだ。だが昨日のように、その記憶に対して深く追及されると答えられなくなってしまう。

 例えば、テレビを見ていて、画面上部に「連続殺人鬼、現行犯逮捕」とニュース速報が流れたとする。その時点で僕がその事件について何も知らないとしたら、ただある殺人事件の犯人が逮捕されたという情報だけが記憶として残る。

 だから、その犯人がどこで、何人殺したか、凶器は何か、などという突っ込んだ質問をされても答えられるわけがない。

 こう考えると、ロゼの「偽の記憶を植え付けられた」という説が現実味を帯びてくる。何者かが、僕が本来持っていた記憶を消去して、まったく違う偽の記憶に書き換えた。――そう考えれば、僕の高校入学以前の記憶が非常に薄っぺらいことの説明がつく。

 しかし、いったい誰がそんなことをしたのだろうか? 何のために。

 そもそも他人の記憶を書き換えるなんて離れ業をすることができる人間などいるのだろうか。到底信じられる話ではないが、ロゼはやけに自信があるようだった。もしいるとしたら、その人物は僕の知り合いだろうか? それとも記憶を操作することのできる通り魔の仕業だろうか? 後者だとしたら、僕は相当運の悪いやつだな。

 それにロゼは、何やら僕の過去に関する秘密を知っているらしい。それもあの子の第二の推論の根拠になっているのかもしれない。

 もう何が何だかさっぱりわからない。とにかく早く家に帰ってロゼに話を聞きたい。

 いっそのこと、昼休みに早退してしまおうか? そうだ、そうしよう。体調が悪いとか言って帰らせてもらおう。アキ先生だったらこんな嘘も平気で信じるだろう。多少心が痛むが、そんなことを気にしている場合ではない。

 

 授業の終わりを告げるチャイムが鳴り、教師が教室から出ていくと、クラスメイトたちはそれぞれの鞄から弁当箱を取り出す。仲の良い友達のもとへ向かうやつもいれば、一人で黙々と食べ始めているやつもいる。弁当を親に作ってもらえなかった哀れなやつらは、購買へと向かう。

 帰り支度を終えた僕は、後ろの怜に声を掛けた。

「すまん。ちょっと体調が悪いから早退するわ。アキ先生にそう言っておいてもらえるか?」

 鞄から弁当を取り出した怜は首を傾げる。

「まあ、別に構わないけど。それより大丈夫なの? 保健室行かなくて平気?」

 心配そうに顔を覗きこんでくる怜。僕は思わず後ずさる。

「あ、ああ。家で寝てれば治ると思う。じゃあアキ先生への伝言頼んだぞ」

「ち、ちょっと航!」

 怜の静止の声を無視して、僕は教室を飛び出した。


 家に帰ってきた僕は、ドアを開け、靴を脱ぎながらロゼに問い掛けた。 

「おーい、ロゼ? いるかー?」

 しかし反応は無い。あれ、いないのか?

 仕切りのカーテンは開いたままだった。廊下を抜けて洋室に入る。もしかしたら昼寝をしているのかも。ちょうど眠くなる時間帯だし。

 だが、ロゼの姿はなかった。一応、バスルームやトイレ、クローゼットの中まで探してみたが徒労に終わった。

 一通り探し終えて洋室に戻ってくると、ローテーブルの上に一枚の紙きれがあることに気がついた。手に取って確認してみると、そこには達筆な字でこう書かれていた。


   少し町の様子が気になるから出かけてくるよ

                       ロゼ


 たったこれだけだった。具体的にどこに行くとか、何時ごろ帰ってくるとかそういう類のものは一切書かれていない。一応、裏も確認してみたが何も書かれてはいなかった。

「町の様子が気になる」とはどういった意味なのだろう。まったく意味が分からない。

 単純に遊びに行ったと考えればいいのだろうか。だとしたら、今ごろ何をしているのか? 雨に濡れていなければいいんだけど。

 まあちょっと遊びに行っただけだろう。そのうち帰ってくるか。

 僕は、ロゼからの伝言用紙をズボンのポケットに突っ込み、テレビのスイッチを入れた。

 そして。

 時間は流れていき、ふと時計を見上げると時刻は午後五時にさしかかるところだった。ロゼはまだ帰ってきていない。窓の外に目を向けると、すでに雨が降り出していた。

 これはさすがにおかしい。こんな時間までロゼは一体何をしているというのだろうか。もしかしたら、この雨のせいで帰るに帰れなくなっているのかもしれない。

 そう思い至った僕はロゼを探しに行くために家を出た。


 ひとまず、家の周辺を探してみる。だが成果はなし。

 今度は少し足を延ばして駅前まで行ってみる。だが成果はなし。

 まさか電車に乗って遠くに行ってしまったのかとも考えたが、ロゼはお金を持っていないはずなので、電車に乗ることはできない。

 その後も駅周辺を隈なく探し歩いてみたが、結局ロゼを見つけることはできなかった。


 雨足はさらに強さを増していた。「バケツをひっくり返したような雨」とはまさに今のような状態を指すのだろう。途方に暮れて自分のマンションに戻るころには、スニーカーの中にまで水が入り込んでいた。

 帰ったらスニーカーに新聞紙を突っ込もう、と階段を上りながら考えているうちに二階にたどり着いた。キュッ、キュッという自分の足音を聞きながら部屋に向かう。

 その時の僕は、びしょ濡れになったスニーカーを見ながら歩いていたので、自分の部屋の前にずぶ濡れの黒い物体があることに直前まで気づかなかった。

 そう、これは昨日と同じ状況だ。しかし全く同じではない。僕はこの物体の正体が何であるかを知っている。ローブの色が、焦げ茶色ではなく黒色に近いのは雨に濡れているからだろう。

 だから僕は驚くことなく、ロゼに優しく声をかけた。

「こんなとこで何やってるんだよ。風邪引くぞ。ていうか、今までどこ行ってたんだよ? 探したんだからな」

 僕の問いかけに、ロゼは一切答えない。それどころか、顔を上げようともしない。むっとした僕は、ロゼの濡れた肩を持って揺さぶった。

「おい、寝てるのか? なあ、返事しろよ。おい――」

 再びの問いかけにもロゼは答えなかったが、肩が震えていることは分かった。雨に濡れて寒いのだろうか。

 とにかく一度部屋に入ろう。そう思い、ポケットから鍵を取り出す為に、ロゼの肩から手を離す。すると、ロゼは埋めていた顔をゆっくりと上げた。そして徐々にその目線を上げていく。僕はロゼがこちらを向いたときにもう一度事情を訊こうと考えていたが、結局訊かなかった。いや、訊けなかった。それどころか、声を発することさえできなかった。

 なぜなら、僕を見ているロゼの瞳がとても怯えていたからだ。まるで、赤ちゃんが見知らぬ人に声をかけられたときのような目をしていた。昨日ここで会ったときとは一八〇度違う。昨日のロゼはむしろ威嚇するような挑戦的な瞳をしていた。

 なぜ? どうしてこんなに泣きそうな顔をしているんだ? もしかしてこれは演技で僕を驚かせようとしているのか?

 訳がわからないまま、あたふたしていると、ロゼは怯えた瞳のまま僕をじっと見据え、やがて震えた声でこう言った。

「わたしは……だれ?」


「本当に何も憶えていないんだな?」

 僕の問いかけに、ロゼは凍えた小鹿のようにこくりと頷いた。そして、コーヒーを一口飲むと俯いてしまった。濡れた髪が顔を覆っているため、その表情を窺うことはできない。

「自分の名前も思い出せないのか?」

 再度、今度は柔らかな口調で問い掛けてみるも反応は無し。濡れているローブの代わりに着せている僕のTシャツの裾をぎゅっと掴んでいる。

 答えないということはわからないということなのだろうか。たった二文字の言葉なのに思い出せないというのは僕よりも重症だな。

 ここで僕が口で教えてあげてもいいのだけれど、それでは信憑性が低い気がする。どこかにこの子の名前が記してあるものがあれば一番いいんだけれど……。

「あっ!」

 僕が突然発した声にロゼはびくっとした。しかし僕はそんなロゼの挙動に構うことなく、仕切りのカーテンを開け放ち、洋室を出てすぐ右手にある洗濯機の蓋を開ける。思った通り、洗濯槽の中には雨に濡れて少し暗い色になっているローブがあった。おそらく、いや確実に、ロゼが入れたのだろう。それを軽く絞ってから取り出し、洋室に戻った。ロゼは僕のいきなりの行動に少々面食らっていたようだったが、僕と目が合うとまた下を向いて押し黙ってしまう。 しばらくの間、ロゼが僕の一連の行動について訊いてこないものかと待ってみたが、いつまで経っても訊ねてこないので仕方なく話し始めることにした。

「ちょっとこれを見てもらえるかな」

 そう言って僕はローブの肩口にある刺繍をロゼに見せた。

「……なに、これ」

 ロゼは昨日とはまったく異なる、弱々しい声を発した。

「これが君の名前だよ」

 ロゼはローブに縫い付けられている文字をまじまじと見つめ、そして言った。

「ローズ……?」

 僕は思わず吹き出してしまった。ロゼが訝しげな視線を向けてくる。

「何がおかしいの?」

「いや、君はきっと憶えていないと思うんだけど、昨日の僕とまったく同じ間違いをしたもんだからつい……」

 ロゼは眉根を寄せた。

「ど、どういうこと?」

「君の名前はローズじゃないんだよ」

「え? だってここに刺繍がしてあるじゃない。わたしが着ていたものなんだから、そこにわたしの名前が縫い付けられていても何の不思議もない……まさか、これはわたしのものじゃないってこと?」

 僕はかぶりを振った。

「いや、このローブは確かに君のものだよ。それと、肩のところに刺繍されている四文字が君の名前だということも合ってる」

 僕の言葉に、ロゼは困惑の表情を深めた。

「じゃあ、わたしは何も間違っていないじゃない」

「いや、間違ってる。君はとても根本的な部分で間違いを犯しているんだ」

 ロゼは首を傾げている。どうやらまだわかっていないらしい。僕は、殺人事件のトリックを説明する探偵のような口調で言った。

「君の名前は、ローズじゃなくてロゼなんだよ。ローズだったら、〟ROZE〝じゃなくて、〟ROSE〝でしょ?」

 ロゼは僕の言葉をしばらく理解できずにぽかんとしていたが、やがてその意味がわかると顔を真っ赤にして俯いてしまった。一体いこれで何度目の俯きだろうか。

「ごめんね。決して君のことをからかうつもりはなかったんだけど……」

 ロゼは何も言わなかった。

 そのまま五分ほど黙っていたが、ようやく顔を上げてこう言った。

「……じゃあ、わたしの名前は、ロゼ……なの?」

「おそらくね」

 僕はあくまで昨日ロゼから教えてもらっただけなので、本当にこの子の名前がロゼであるとは限らない。もしかしたら、ただ単にこのローブを作っているブランドの名前なのかもしれない。今となっては誰にもわからない。当の本人さえも。

「あなたの名前は?」

「見境航。ちなみに、お前は僕のことをワタルって呼んでたよ」

「そうなんだ……ワタル、ワタル、ワタル……」

 ロゼは何度か僕の名前を繰り返し声に出した。

「どうかしたのか?」

「ううん。じゃあ、わたしもこれからあなたのことをワタルって呼んでもいい?」

「もちろん」

「わたしも、ってなんかおかしいよね。昨日までの『わたし』だって今の『わたし』であることには変わりないのに」

 そう言ってロゼは微笑んだ。さっきと比べてだいぶ表情が明るくなってきた。自分の名前と相対している男の名前を把握したことで落ち着くことができたのだろうか。

 しかし、ロゼに対して感じるこの違和感はなんだろう。自分の置かれている状況への順応がやけに早い気がする。

 濡れているローブをそのままにしておくわけにもいかないので、再び洗濯機に入れ部屋に戻ってくると、ロゼが唐突に話し始めた。

「わたしね、気づいたら交差点の真ん中にいたの」

「交差点? どうして」

「わからない。何故、わたしはこんなところにいるのか。それまでのわたしはなにをしていたのか。そもそもわたしは誰なのか……なにもわからなくなってしまって……」

 まあ、自分の名前も憶えていないような人間が、それまでの行動を憶えているなんてことはないよな。自分の姓名なんて記憶の中において最も重要な地位にあるものだろうし。よく他人の名前をど忘れしてしまうことはあるけれど……ん? ちょっと待て。

「じゃあ、なんでお前は僕の家の前にいたんだ? なにも憶えていないはずなら、僕の家がある場所なんてわかるわけないじゃないか」

「そうなんだけど……」

 ロゼは自分でも納得がいっていないのか、首を捻っている。

「自分が何者かさえわからない状況なのに、あなたの家――正確に言えば、このマンションの二〇一号室っていう場所の記憶が、わたしの頭の中に残っていたの。自分の名前さえ憶えていないのに……おかしな話だよね」

 そう言って、自嘲気味に笑った。まったくもっておかしな話だ。なぜ、僕の家の位置だけを憶えているのか。

「確か、お前はさっき何も憶えていないと言った。 でも、僕のマンションの部屋番号は憶えていた。さっきと言っていることが矛盾していないか」

「え? ああ、それは、言葉のあやというか……さっきは動揺していたから、あまり深く考えもせずに答えてしまって……ごめんなさい」

 ロゼは深々と頭を下げた。いやいや、そこまでする必要はないんだけれど。

「別に怒ってるわけじゃないよ。ならさ、冷静になって考えてみると、まだ憶えていることがあるんじゃないか?」

 僕がそう言うと、ロゼは唇に拳を当ててしばし考え、やがてはっと顔を上げた。

「何か思い出したのか?」

 しかし、僕の期待に反してロゼはかぶりを振った。

「そうか……」

「ごめんなさい。わたしとあなたが以前どういう間柄だったかはわからないけれど、こんな形で押しかけることになってしまって、あなたに迷惑をかけて……本当にごめんなさい」

 伏し目がちにそう呟くと、また深々と頭を下げた。もうほとんど土下座だ。

「お前が僕に謝る必要なんて露ほどもないんだ。だから面を上げてくれ、ロゼ」

 ロゼはその後もしばらく謝意の表明であるこの体勢を崩さなかった。何度か説得することでようやくその体を起こしたが、相変わらず目線は下を向いたままだ。

 ……なんだこれは。いったい、なにがどうなっているんだ。

 昨日、突然僕の前に現れ、「キミは記憶喪失だ」などと、にわかには信じられないようなことを言って僕を混乱させたと思ったら、今度は自分自身が記憶喪失になっただと? 

 それに、なんだか記憶を失っただけではなく、その振る舞いまでが一八〇度変わってしまったような気がする。昨日はあんなに悠然と、泰然自若としていたというのに。人間は、記憶を失うとその人格まで変わってしまうものなのだろうか。もしそうであるならば、記憶喪失になる前の僕はどのような人間だったのだろう。今よりも活発で覇気のある人間だったのだろうか。

 そんな今となってはどうしようもないことを考えつつ、何の気なしにズボンのポケットに手を突っ込む。すると、何か柔らかい感触があった。

 なんだろう? 携帯と財布はテーブルの上にあるし、そもそも普段はあまりポケットを活用しないしな……何か入れたっけ。

 ポケットからその柔らかい物体を引っ張り出してみる。

 それは、しわくちゃになった紙きれだった。レシートか何かだろうか。それにしては小さすぎるような気がする。

 その丸まった紙切れを広げた瞬間、僕はあまりの自分の記憶力のなさに愕然とし、ひどく落ち込んだ。なぜ、こんな大事なことを忘れていたのだろうか。

「どうしたの?」

 目を上げると、いつの間にか顔を上げていたロゼが心配そうに僕を見つめていた。

「ああ、いやね、本当に僕はどうしようもない馬鹿野郎だと思ってさ……」

 ロゼは小首を傾げた。僕の言わんとするところがわからないらしい。まあ、それもそうか。これを書いたのはこいつなんだけどな。

「これだよ、これ」

 投げやりに言って、『記憶を失う前』のロゼが置いていった紙切れを『記憶を失った後』のロゼに渡す。

 手渡されたそれを見たロゼは、灰緑色の瞳を大きく見開いた。置手紙を持つ手が震えている。

「こ、これ……」

 もしかしてなにか思い出したのか。ここはロゼに記憶を取り戻させるためにも、この手紙を見つけた経緯について説明したほうがいいかもしれないな。

「今日の朝、僕はお前を置いて学校に行ったんだ。それで、夕方に帰ってきたらお前はいなくなっていた。代わりに、この紙切れがテーブルの上に置かれていた。その時は、この文面の意味もよくわからないし、ちょっと遊びに出かけたんだろうなぐらいに思っていたんだけど、いつまでたっても帰ってこないから心配になって探しに出たんだ。でも結局見つからなくて諦めて帰ってきたら、お前がドアの前で蹲っていたってわけさ」

 僕が話している間、ロゼはずっと目を紙面に落としていた。畳み掛けるように話してしまったが、僕の言っていることが理解できただろうか。

 それにしてもこの文面は抽象的すぎる。『少し町の様子が気になるから出かけてくるよ』とはどういう意味なのか。

 それにこの筆跡はどこかで見た気がするんだよな……。

 しばしの沈黙の後、ロゼはゆっくりと顔を上げた。

「……これはわたしが書いたものなの?」

 ロゼの声は若干震えていた。

「僕は、お前がこの手紙を書いた場面に立ち会っていないから、そうだと断言することはできない。誰かがこの家に入り込み、お前の記憶を消去した後、これを書いて立ち去ったのかもしれない」

 僕の推測を聞いたロゼは唖然としている。この人はいったい何を言っているんだろう、といった表情だ。

「記憶を消すって……そんなことが可能なの?」

 僕は肩をすくめた。そんなこと僕に訊かれたって困るよ。

「憶えていないだろうけど、昨日お前は、『記憶を失う前』のお前は、僕にこう言ったんだ」

 僕は冗談に聞こえないように、少し声を落として言った。

「『ワタル、キミは誰かによって偽の記憶を植え付けられたんだ』ってね。それを聞いたときの僕の顔はまさに、今お前がしているような顔だったろうよ。でもな、ロゼ。初めて聞いたときには荒唐無稽に思われたその推論が、今となっては事実なんじゃないかと思えてきたんだ」

 ロゼは口を挟むことなく、僕の話をじっと聞いている。僕は唇を湿らせてから続けた。

「実は、僕も記憶喪失らしいんだ。ただ、お前の場合と違って、すべてを忘れてしまっているわけじゃないんだよ。ここ一年間の出来事は詳細に思い返すことができるのだけれど、高校に入学する以前のことは全く思い出せない――いや、より正確にいうと、抽象的なこと、たとえば、父親がいた、母親は幼いころにこの世を去った、だから父親と二人暮らしだった、といったことは思い出せる。だけれども、具体的なこと、つまり、父親や母親の顔や名前、暮らしていた家の間取りとか、そういったことが一切思い出せないんだ。この状況を例えるなら、物事を色々知っているけれど、広く浅くしか知らない知ったかぶりの男が、その道の人に専門的なことについて突っ込まれたときに、答えに窮してしまうような……そんな状態なんだ」

 ふうっ、と一つ大きく息を吐く。僕が話し終えたのを見計らって、ロゼがゆっくりと口を開いた。

「……なるほど。確かにそれはおかしいかも。もしかしたら、今の話を聞いて昨日のわたしはあなたが記憶を操作されたっていう結論に達したのかな……」

 僕は大きく頷いた。

「そうだろうね。そのうえ、お前は僕が知らない僕自身のことを何か知っている様子だった。そのことについて昨日の時点でしっかりと訊いておくべきだった」

「なんで訊かなかったの?」

「まあ、昨日はこのこと以外にもあれこれあってね……盆と正月が一緒に来たようだったからすごく疲れていたんだ。それを察したお前が、この話はまた明日することにしよう、って言って、僕もその言葉に賛同しちゃったわけだけど……。こんなことになるなら、昨日のうちに漏れなく訊いておくんだった」

 後悔先に立たずとは、今のような有様のことをいうのだろう。

「ごめんなさい。わたしがもったいぶらずにちゃんと話しておけば……」

「なんでお前が謝るんだよ。今のお前は何も憶えていないんだし。それに、昨日のお前だって僕の身を案じてくれたんだから、むしろ僕は嬉しいぐらいだよ。だから、負い目を感じる必要なんてない」

「……優しいんだね、ワタルは」

「そんなことないよ。僕も昨日から色々あっていっぱいいっぱいなんだ。だからあまりロゼのこと気にかけることができなくて悪いな」

「ううん。十分気にかけてもらっているよ。これ以上ないってくらいね」

「そうか」

 ロゼがそう思っていてくれるなら、否定することもないか。優しさの価値というものは、自分ではなく相手が判断するものなのだから。

「ところでさ」

 と言って、ロゼは部屋の天井を見上げた。

「わたしたちってどんな関係だったんだろうね」

 関係、か。

「昨日のお前は僕らの関係性についていろいろ言っていたけれど、一言で表すなら所謂、幼馴染ってやつだろうな」

「幼馴染ねえ……」

 その声音にはどこか物憂げな響きが含まれているように感じられた。表情もどこか沈んでいる。

「どうかしたか? なにかご不満でもあるのか」

「あー、いや、もしかしたらわたしとワタルはもっと深い関係なんじゃないかと思ってね……」

「深い関係? 親戚とかってことか?」

「いやいや。そういう方向の深い関係ではなくてさ」

「え、じゃあどういう意味だよ?」

「あー、もういいよ! なんでもない! 鈍い奴だな、ワタルは」

 不貞腐れたようにそう言うと、ロゼは僕のベッドに潜り込んでしまった。

「おい、ロゼ。シャワー浴びなくて平気なのか? 身体冷えてるだろ。それに腹も減っているだろ。何か食べるか?」

 反応はなし。どうやら完全に拗ねているらしい。

「なあ、ロゼ。僕はそこまで鈍い人間じゃない。お前の言いたいことがわからないわけないじゃないか。深い関係っていうのは、つまり、その……あれだろ? 恋人とかそういう……」

「ぷっ……ふふふっ」

 布団の中から押し殺したような笑いが漏れ聞こえてくる。

「なに笑ってんだよ? 僕がお前と恋人関係じゃないのか訊きたかったんだろ? いい加減に答えろよ!」

 痺れを切らして掛け布団を引き剥がした。ロゼは僕に背を向けて丸まっていた。

「わかった、わかった。答えるからさ。そんなにムキにならなくてもいいじゃない」

 そう言うとロゼは上半身を起こしてこちらを向いた。笑い過ぎたからか、目尻には涙が溜まっている。

「じゃあ答えてもらおうか。お前の言う深い関係というのは彼氏彼女の関係のことだろう?」

 ロゼは居住まいを正し、一つ咳をして僕の瞳をまっすぐに見つめた。

「違います」

「へ?」

「なにを勘違いしているのか分からないけれど、わたしは深い友人関係、つまりキミが親友に近い存在なのではないかと感じただけだよ。それを恋人だなんて……ぷぷぷっ」

 それだけ言うと、ロゼはまた腹を抱えて笑い始めてしまった。

 まったく。恋人関係だという結論に達してしまった自らの脳を痛めつけてやりたい気分だ。僕はロゼに対して恋愛感情なるものは一切抱いていない。昨日今日の二日間で僕が抱いた彼女に対する感情は妹に対するそれに近い。何年もかけて熟成されていった感情とでもいえばいいのだろうか。

 だから僕はこう断言することができる。この目の前で笑い転げている少女とは昔からの友達であったと。彼女とともに過ごしたであろう日々を思い出したわけではないけれど、心の内から湧き出る安らかな、あたたかい気持ちが何よりの証明であり、彼女との関係がここ数日のものだけではないことを確信せしめている。この想いを今のロゼに伝えても、恐らくぽかんとされるだけだろう。昨日の彼女にこの想いを伝えることができればまた違っていたかもしれないけれど。

 まあ何はともあれ、こうして無邪気に笑っている彼女を見ているだけで今は十分だ。これ以上できることもなし。

 今日はもう寝て、これからのことはまた明日考えることにしよう。

「ねえ、ワタル」

 ひとしきり笑い終えたのか、ロゼは目尻を指で拭うと訊ねてきた。

「なんだよ」

「そんなにわたしの恋人になりたいんだったら明日デートでもする?」

「はい……?」

「今のは肯定の返事と受け取っても大丈夫だよね。じゃあ明日はデートをしましょう」

「いや、ちょっと待て! 今のはそういう意味じゃなくてだな……」

「男に二言はない……でしょ?」

 彼女の顔には、昨日のあの妖艶な笑みが戻っていた。


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