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◇4



『今日仕事が終わったら俺の所に来い。事務課の井尻(いじり)まどか』



ヤツの尻と身体から手を離し、あわあわと顔を隠していた私に、人事部長はそう言った。

終わった…。

部署と名前まで知ってるとか…。

ヤツは行かなくていいとか言ってたけど、そういう訳にもいかないっつーもんでしょう。


「どうしよう…私クビかもしれない!!日中人気のない場所に男を連れ込んでお盛んな痴女による堂々のセクハラによって―――ってクビだよ間違いないよこれ…!!よりによって人事部長とか自分の不幸スキルが凄すぎる…!」

「ちょっと待って落ち着いて一から話して!分かんないから尻フェチ!」


自分のデスクに戻るなり机の下に潜り込んでじめじめとカビを生やした私に、同僚は優しく声をかけてくれた。

それが嬉しくて、あろう事か今までヤツとあった事した事全部吐いてしまった。


うっかりヤツの性癖の事も。



「うわぁ。引くわぁ」

「どっちに?」

「どっちも」


容赦ない攻撃に私は更にカビを増やした。

まぁ…これが普通の反応ですよね。私もヤツとの利害が一致してなかったらドン引きだったろうし。

だけど額を押さえる同僚の顔には軽蔑の文字は無かった。どちらかと言うと呆れの方だと思う。


「そんな事になっていたとは…私の予想を遥かに超えていたわ」

「面目ない」

「…それで?」

「え?」


何がそれで、なのだろう。ヤツの尻の感想でも求められているのだろうか。

それならばお安い御用だ。


「実はこう、私の短い指にもフィットするように―――」

「尻の話じゃないからね?まどか」


同僚の顔に一気に青筋が立てられる。デスヨネ★


「もしよ。もし、クビになったとしたらどうするの?職もお金もそうだけど、お尻の彼の事はいいの?」

「…」


…そうだった。

苦労して入ったこの会社も、

奇跡に近い確立で見つけた尻神も、

今日限りで全て失くしてしまうかもしれないんだ。


膝を抱えぎゅっと目を瞑ると、瞼の裏にヤツが現れ思考が占領される。


初めて見る自分以外の変t…フェチ男。


ヤツの名前もまだ知らない。

どうしてキスをしようとしたのかも、まだ教えて貰っていない。


狭い机の下は暗く篭り、何度追い払っても私に思考を戻してくる。


ヤツの唇を思い出し、知りたい、と思う。

手の温もりを思い出し、欲しい、と思う。


見上げる瞳の中に、何があるのか教えて欲しい。


「ほら、顔を上げて。そんな顔をしなくても大丈夫よ。とりあえず今すべき仕事をやりなさい。仕方ないわね、今日は私が美味しい熱~いお茶淹れてあげるから。そんな可愛い顔してると愛想つかされるわよ~」

「…なによ夏季(なつき)ぃー…」


肩をポンッと叩かれ椅子に座らされる。

まだぐるぐると思考がかき混ぜられていて、頭を掻き毟りたい衝動に駆られる。


「ふふっ。そんな深刻に考えなくてもいいと思うけどね~」


鼻歌交じりに給湯室へ消えていく同僚を睨んだ。

人事だと思って…!

これでも結構真剣に凹んでいるのに…!







「…それで?君は彼とあの会議室で何をしていたんだい?」


オフィスに誰もいないのをいい事にガンガンとロックな音楽を鳴らした部屋に通され、大きな顎に蓄えられた髭をジョリ、とさすりながら人事部長が私に問いかけてきた。

部長は部屋の中央にある3人がけの革張りの応接ソファの真ん中に座り、私は机を挟んで反対側に座らされていた。

私の後ろにある水色のパーテーションが、退路を断つかのように私を威圧してくる。

目の前の部長は優しく笑っているが、肉食獣が如く、獲物を前にどう甚振ろうかと楽しそうに目を光らせていた。

髭があるとその怖さが増す。

その鋭さに思わず目を逸らして俯いてしまった。


「…えっと…あの…」


何って…ナニをしていた訳じゃないけど、あの会合の事を言っていいのだろうか…?

私は現行犯逮捕で仕方ないけど、ヤツの事を話したらヤツの方が接触回数多いんだからマズいんじゃないだろうか。

しかし…無駄な被害者を出すのも気が引ける、よね。


「どうした?あいつの尻を揉んでいたよな?そんなに好きなのか?イイのか?」

「っ」


ばっと顔を上げれば部長と目が合った。

膝に肘を乗せ、重ねた手の甲に顎を乗せた部長が楽しげに言う。

顔をその目は先程の獰猛さが少し失せ、からかいの色が滲み出ていた。


「…申し訳、ありません…、見られていた通りです…。私が…好き勝手に触っていまし、た…。あの人に罪はありません、ので…」


言葉にして言って自分の行為に、顔から火が出る程恥ずかしくなった。

消えて死にたい。

もうさっさとクビにでもなんでもしてくれ…!!


「…可愛い顔してやるねぇ。こりゃあいつも必死になるわけだ」


そう言って身を乗り出しポンポンと頭を撫でてきた。

…何故撫でる?あいつ?一体何なんだ?

そして部長のそのなじるようにいやらしいセリフなのに、何故か嫌悪感が生まれなかった。

ニヤニヤと子供のように楽しそうに笑うからだ。

その視線は私を見ていない。私の後ろ、を見ている気がする。


そこでふと気になった。

どうして今私だけ呼び出されているのか。


冷静に考えてみれば、ヤツも私に手を出していた筈だ。

それを見て私だけ呼び出すなんて事はおかしい―――


疑問に答えが出かける前に、首に何かが回され嗅いだ事のあるいい香りが漂ってきた。

パシッという音と共に、頭の上に置かれていた部長の手が払われる。

ナニが起きた、と顔を上げると毎日見ていた黒スーツと、意外と逞しい喉仏が目に入った。


「あ―――」


何故ここにいるんだろう。

私しか呼び出されてなかったのに。

部長の手を払った手が私の首に回り、両腕で抱きしめられる図が完成した。


「―――彼女に触れないで下さい、井手(いで)。穢れます」

「おいおい人をバイ菌みたいに言うなよな」


私を無視して頭上で始められた会話。

なんかとても親しげな空気が流れているのは気のせいだろうか。

そして私を抱くヤツの乱れたシャツの上からネクタイがしわしわになって垂れていて、しかも少しシットリしているのは気のせいだろうか。


「ちっ。ちっと縛るのがゆるかったか。こんな簡単に解けられるとは思わなかったぜ。もっと色々聞きたい事があったのによぉ」

「余計なお世話です。彼女の声を聞かせる義理もありません。ああもうなんですか。その厭らしい目で見ないでください減ります」


そう言ってヤツは背広を脱ぎ、私の膝にかけてぐるぐると巻き出した。


「え、ちょ、ちょっと…あの…!?」


さっきから無視され続けていた私が素っ頓狂な声を上げると、男2人はこっちを向きそれぞれ笑みを溢した。

いたずらが成功したようにわははと肩をあげて笑う部長。申し訳なさそうに力なく笑うヤツ。


「脅かして悪かったなぁ!忍足(おしたり)が熱を上げてるって子を見たくてちょっと職権乱用しちゃった。その足でこの堅物を誘惑して骨抜きにしたんだなぁ」

「すみません、貴女を迎えに行けなくて。こいつに捕まらなければ貴女に怖い思いをさせなかったのに」


え、じゃあ何、私はクビを言い渡される為に呼ばれた訳じゃないって事…?

緊張が解けずるりとソファにもたれると、膝裏に手が回されて一気に視界が上昇する。


「わわ…っ!?」


ビックリして目の前にあるつっかえ棒…じゃなかった、ヤツの首にしがみつくと、小さく身体が揺れた。


「おやおや。天下の忍足専務殿にもそんなウブい所があるんだねぇ。これは夏っちゃんにも教えてあげないと」

「え、夏っちゃんって…!?」


夏っちゃん、―――比竹(ひだけ)夏季(なつき)?それはいつも私の相手をしてくれる、ぽってりした尻の持ち主の名前ではないか?

そう聞こうと身体を向けようとしたが、回された肩に力が込められ逆にヤツの身体に押し付けられる。


「…あいつを見ないで。私だけを見てください」


言い終わらないうちにヤツは足で扉を開けて、スタスタと人事部を颯爽と闊歩していった。







無言のまま辿りついたのは、昼休みにしか訪れない寂れた第5会議室。

私はというと、ここへ来るまでずっと抱っこされていた。

道すがら怪しんでこちらを見てくる人に顔を知られないようにとしっかりと首に腕を回し、顔を埋めていた。

わ、私だけでもバレないようにすれば、ヤツにも迷惑な噂立てられないだろうという事でね!


誰に言い訳をしているのかと一人ツッコミをしていると、いつもの長机に下ろされた。

私の足に巻かれていたスーツはシワを作り、そのまま床に落ちていく。


「あ…スーツが…」


拾おうと手を伸ばすと、ヤツに掴まれた。そのままヤツの顔近くに持っていかれ、笑みを作っていない唇から漏れる息がかすかに当たる。


「―――貴女は」


伏せられていた瞳がゆるゆると持ち上げられ、薄い色彩が私を捕らえる。

思ったよりも力強い視線に、思わずドキッとした。


「え、」

「…私は知っての通り、足フェチで、貴女の足に惚れ込んでいます。頬擦りする程嘗め回したい程好きです」

「は、はぁ」


改めて言葉にして出されると凄いな。イケメンの口からっていうのもポイントだ。


「貴女に出会って、だけどいざ理想の足に触れ、手にした時。私の頭上で声を押し殺し恥らう貴女を見た瞬間、手にしていた存在を忘れていました。待ち望んでいた奇跡のものだったのにですよ?そして唇を噛み締めながらも私の(もの)を求めた貪欲さに、私は嬉しいと感じたんです」


ふふ、と優しく笑みを溢し、また一歩近づいてくる。膝にやつの太ももがあたり、すっと間に割り込まれた。

急激に近づく距離に顔を背けると、顎に指がかかりもとの位置に戻される。

すり、と親指で顎を撫でられればたまったもんじゃあない。

ぎゅっと目を瞑れば、くすっと笑った気配がした。


「…そうやってすぐ顔を逸らすのが可愛くて、いじらしくて。でも負けん気で。全てが愛おしくて。足だけでなく、手や身体、髪や顔、この唇や心。貴女の総てに触れたいと思いました。だけど貴女は、私の尻以外は本当に興味がないようで残念でしたね」

「はぁ…ご、ごめんなさい」


思わず謝ってしまった。

それですよ、と言って私の両脇に手を置いて、ずいっと顔を寄せてきた。

うわぁお綺麗な肌ですこと。泣きボクロもこんなに近くで見れてわぁ嬉しい!

…なんて現実逃避している場合じゃなかった!近い!近すぎる!!前私が近寄った時嫌がってたんじゃないの!?


「名前を知ろうとも思われてない位、本当に眼中になさそうだったので、あの日賭けに出ました」

「賭け?」

「はい、賭けです。あからさまにキスをしかけた時、貴女がどう反応するのか、を。私を意識し出してくれれば良し。しなければもっと先の行為を―――と、私に気が無い相手にそこまでしなくてよかったと思いますよ。自分が空しくなるだけですし」


それに嫌われる確立が高くなりますしね、とにっこり笑った。

という事は、だ。

この男は私を意識させる為にわざとキスしようとしたという事か。しかも最後までするつもりはなかったと。

なんてずるくて計算高い男なんだ…!


「まぁ、それで駄目なら長期戦でいくつもりでしたけど、結果的によかったと思います。私、結構気が短い方なので。貴女が私を見上げてきた時なんて、理性がぶっ飛ぶかと思いましたよ。初めて貴女が私を意識的に見ようとしたという事ですからねぇ」


そうなんですか、と口を開こうとすると、唇にヤツの息が当たった。

ビックリしてのけぞると、バランスを崩して背中から長机に倒れ込んでしまった。机に迎えられた私の顔の横に肘を置き、覗き込まれる。

片方の手は私の膝裏を持ち上げ、徐々に登ってくる。


「…逃げないって事は、俺に興味が出たと受け取ってもいいのかな?」

「…足触ってる時限定で素が出るんですね?忍足さん」

「君しか知らないよ、まどかちゃん」


不公平だから下の名前を教えて欲しいと言うと、『後でね』と返された。

反論しようとすると、黙って、と人差し指で唇を封じられ、いつも足に限りなく近く寄り添っていた唇が私のものに重なる。

触れるだけの口付けに、頭が痺れた。


そして。


足りない、もっと、教えて、と手を伸ばしたくなる。

…これも忍足さんの計算なのだろうか。


「―――負けました」

「うん?」


閉じられていた瞳が開き、私を見つめてくる。

ちろりと薄紅の唇を舐める仕種にどこか身体がざわつく。


「あの日からずっと貴方の事が頭から離れません。…悔しいけど尻以外が気になって寝不足で足がむくんだ程です」


心と身体が求めるまま背中に腕を回しながら言うと、忍足さんは破顔し、大きな両手で顔を包まれる。


「とりあえず、お互いを知る事から始めませんか?」


その提案に頷くと、先程よりも口付けは深いものになる。

背中にしがみついていた腕をささっと下げて小悪魔ちゃんを鷲掴むと、小さな舌打ちが聞こえてきた。


「…会社だから後でと言ったのに、どうして君は煽るかなぁ」


熱を増した忍足さんから与えられるものに、どうしようもなく顔がにやける。

ああ。

これが愛しいっていう事なのかなぁ。

この先にあるものはなんだろう。



そう思ったら、尚更私の手は熱を求めて動き出す。



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