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今日は暑かった

       *


 さあ、ようやく私の走馬灯も終わり、話は冒頭に戻ってきた。

 走馬灯の割に長かったような気もするが、細かいことを気にしている場合ではない。今まさに、彼女が筆箱の箱を開けてしまったのだから。

「グルルルルゥ……」

 不穏なうめき声を唇の間から漏らす彼女。その手が選んだ武器は幸い縫い針だった。筆箱の中に入っていたモノの中でも一番殺傷能力が低い。仮に皮膚に刺さったとしても、チクリとする程度だ。

 私の中にわずかながら余裕が生まれる。

「そんな物騒なものは手放して、冷静になろう。な? いったい何が気に入らないんだよ。言ってくれ。言えないのならせめて仕草なりで示して欲しい」

「……グゥゥゥゥ」

「何が食べたいんだ。アンパンか? それともメロンパンか?」

「ウウゥゥゥ」

 言葉が通じたのか彼女が首を横に振った。金髪がふるふると乱れる。

 今は夏で、この部屋のエアコンは壊れて暑いままだというのに、彼女は汗一つかいていない。兵器に汗は必要ないのか。

 私の視界は額から垂れる汗が目に入ってにじんだ。

「違うか。じゃあそうだな、ラーメンか? それとも鍋焼きうど――――」

「グガアアアアアアアアアアアアアァァァァァッッッッッ!!」

 鍋焼きうどん、と言い終える前に彼女の絶叫が部屋中に、いやマンション中に響いてもおかしくもない大音量で発せられた。

 よくわからないが私は彼女の逆鱗に触れてしまったらしい。

 彼女は縫い針を指先でつまみ、私に向かって――――投擲した。

「――――ッ」

 私は咄嗟にそれを避けた。

 続けざまに縫い針が私に向かって飛んでくる。私の眼球に向けて。

 その投擲は正確に私の目の位置を捉えていた。回避行動を取らなければ、まちがいなく眼球を貫いていた。

 彼女は私を殺す気満々だった。なんてことだ。殺傷能力がないからと言って余裕などあるわけがないのだ。

 何せ彼女は人間兵器なのだから。

「ぐっ」

 縫い針が耳をかすめた。

 鋭い痛みが耳から脳天にかけて走る。

「頼むっ、望みが何なのか言ってくれ! お前はヒトの形をしてるんだぞ! だったら人語を話せっ!」

 自分でも何を言っているのかよくわからなかった。

 ただ、とにかく彼女と話し合いたかった。

 けれど彼女は私の言葉を理解するはずもなく、今度は千枚通しを筆箱から取り出した。

 それを指揮棒のように優雅に振り回し、最後に私に向かって狙いを定めた。千枚通しの切っ先が私の額ど真ん中の位置で固定されている。

「殺す気、か」

「…………」

 私の問いに、彼女は沈黙で肯定した。

「……最後に、笑ってくれないか?」

「グルゥ……」

 彼女は私を睨むだけだった。

 やれやれだ。

 北の研究所の男が彼女に触れようとした私を止めたのを、今になって私は思い出した。起動させればいずれは殺されるとわかっていたのだろう。

 でも、彼女の笑顔を思い出すと、そんなリスクは些事にしか思えない。

 それほどまでに、私は、彼女に――――

 彼女が千枚通しを右手に突進してきた。

 腕を引き、勢いを足して私にその刺突を見舞う気だ。

「頼むっ、笑ってくれよ!」

「ガアアアアアアアアァァァア!」

 くそったれ。

 本能的に私は回避しようとして足を動かした。すると足の先に何かが当たった。それは私が執筆の際にいつも使っている電子辞書だった。

 私は咄嗟にそれを手に取り、彼女に向かって思い切り投げつけた。

「これで言葉でも覚えろおおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉッッッ!!」

 ヤケクソだった。

 死を間近にして、急に怒りがこみ上げてきたのだと思う。

 けれど、結果的にその意味の無さそうな行為が功を奏した。

「んぐっ!?」

 私の投げた電子辞書が、こともあろうに彼女の口の中に入り、しかも彼女はそれを飲み込んでしまった。

 ちょうど絶叫しようとしたときに、私が電子辞書を投げたのだ。もちろんまぐれである。

「グググググガガガガガガ…………」

 彼女の口から軋むような機械音が発せられた。身を震わせ、目の焦点が合っていない。

 このとき初めて私は彼女がヒトではないと認識した。

 やがて、唐突に全ての挙動が停止した。

 部屋がしんと静まり返る。

 遠くのほうで救急車のサイレンの音が響いてくる。

「…………あの」

 ぽつりと、彼女が口を開いた。「わたしは……あの…………あぁ……あぁ……」

 私は信じられなかった。

 彼女が、人語を喋っている。ただ吠えるだけだった彼女が。

「ごめんなさい!」

 そうして突然、彼女は頭を下げた。「わたし、あなたになんて酷いことを……」

 彼女の瞳から大粒の涙がポロポロとこぼれた。それは床にポタポタと落ちて弾けていく。悲しい表情もまた、美しくて、私は見とれた。

「すぐに手当てをしますのでっ」

 彼女はそう言うと、部屋の隅にあるスチール製の戸棚から救急箱を取ってきて、その中から消毒液を取り出した。

 それから血が流れている私の耳にドバドバと消毒液を垂らした。

 耳から首筋に滝のように消毒液が流れる。

 眼前に彼女の顔がある。それも理性的なそれが……。

「ど、どうして――」

「あ、すいませんっ、痛かったですか?」

「そうじゃなくて……。どうして、急に言葉を?」

「え……あぁ」

 彼女はようやく質問の意味を理解したのか、戸惑った表情から少し落ち着きのあるものへと変えた。

「あなたが投げた電子辞書です」

「電子辞書?」

「はい。電子辞書を飲み込んだことによって、わたしの中のメモリーに語彙が辞書の分だけ増えたんです」

「…………」

 なんと単純な。

 けれどそんなこと、普通は思いつかないしやろうと思わない。故に盲点だったのだろう。

 北の研究員が聞いたら驚くに違いない。

 おそらく電子辞書の中の多くの語彙が、彼女に知識、それに理性を与えたのだろう。これまでの怒りや暴力がいかに不毛だったのかも理解したはずだ。

 これでもう少し丁寧に手当てしてくれたら満点なのだが、これまでのDV行為を鑑みれば、それは贅沢というものだろう。今や私の耳は消毒液に浸されているといっても過言ではない。

 恐る恐る、私は彼女の頭をなでた。彼女は「きゃ、くすぐったいです」と言って微笑んだ。

 私の心は踊った。これまでなら触れることはおろか近づくだけでも大変だったというのに。

 これから始まる桃色の同棲生活に思いを馳せた。

 ん、そういえば……。

 ふと、気になったことを思い出した。

「君はどうして今日はこんなにも怒っていたんだ?」

 私は身振りで部屋の惨状を示した。

 本棚は倒れて本や雑誌が散らばり、皿は割れ、テーブルまでもが割れ、テレビはグシャグシャに潰されわけのわからないパーツ類が散乱している。

「そ、それは、その……」

 彼女は恥ずかしそうに頬を赤らめた。

 その間も消毒液はドバドバと私の耳に注がれている。しみる。

「アイスクリームが、食べたくて……」

「…………」

 あぁ。

 今日は暑かった。

 今は夏なのだ。

 ラーメンや鍋焼きうどんなど、この暑苦しい部屋で食べたいとは思わないな。納得。

 首筋に流れる消毒液が、汗と混じった。

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