走馬灯、始まる
彼女の鉄拳が私の顔面目がけて飛んできた。
私はそれを寸でのところで避けた。別に私の動体視力が優れているというわけではない。まぐれである。
彼女が見舞った拳は冷蔵庫に突き刺さるように直撃した。というか、実際に突き刺さっていた。冷蔵庫の扉には障子に穴を空けたかのように、彼女の腕がすっぽり納まっている。
パラパラと床に落ちているのは、冷蔵庫の扉の破片だろう。それだけ目にすればなんと脆い作りしてんだとメーカーに問い合わせたくなるが、人並みに物を考えられる脳を持っていれば、まあわかると思う。
まともな人間が、冷蔵庫の扉を貫くほどの力を持っているわけがないと。
そう、彼女はまともではない。とても怒っているのだ。
もっと言えば、彼女は人間ですらない。〝人間の形をしている〟だけだ。
形だけとはいえ、彼女の容姿はとても美しい。
沖縄の海を彷彿とさせる透き通った青く大きな瞳、すっと通った鼻筋に雪原のような白い肌、そして輝く長い金髪の髪。
見た目だけなら完璧だ。
完璧に、私の好みである。
さらに私の好みを反映させて、彼女には純白のワンピースを着せている。これで麦藁帽子でもかぶって海辺を散歩すれば、夏の日のヒマワリのように美しく映える。
……いささか贅沢だったかもしれない。
せめて大人しくしていてくれればそれでいい。麦藁帽子も海辺の散歩も、この際諦めたっていい。
けれど私が自分の趣向を放棄したところで状況は好転などしない。彼女はそのきれいな顔立ちを鬼の形相に崩れさせ、金色の髪を振り乱して暴走の只中にいる。なんてことだ。
なぜ怒っているのかを私は必死に問うているのだが、彼女はその理由を話してくれない。否、話せない。彼女は言葉がわからないのだ。
つまり、私がどんなに怒りの原因を問いただしても、彼女の耳には私の口から何らかの音が発せられている程度にしか感じ取られていない。
彼女の右腕の肘から先までが冷蔵庫の中で冷やされている。
できればその冷気が腕だけでなく、怒り狂った脳みそもクールダウンしてくれないかと都合の良いことを考えたのだが、案の定というかなんというか――
「アアアアアァァァァァッ!」
彼女の絶叫が部屋に轟いた。
そう都合よくはいかなかった。
彼女は冷蔵庫から腕を引き抜き、再び私に襲い掛かってきた。私は転がるようにその場から撤退。直後、彼女は私がいた床を踏みつけた。
いや、踏み抜いた。
巨大な鉄球をぶつけて建物を粉砕するかのような轟音が鳴り響き、私はぎょっとした。彼女はフローリングの床をその凄まじい脚力でもって破壊したのだ。
今さっきの冷蔵庫のように、今度は彼女の脚が床に突き刺さっている。
幸いここはアパートの一階なので階下の住民の心配をする必要はない。大家にどう言い訳をするか、あるいはどう隠蔽するかが目下のところ問題だ。
とかなんとか目の前の問題から思考を逸らしていると、彼女が脚をズボッと引き抜いていた。それから私をキッと睨みつけてくる。
「おい、いったいどうして欲しいんだ。言ってくれ」
私は叫んだ。
けれどやはり彼女に言葉は通じなかった。
「オアアアアアァァァァァァァァ!」
返球されたのは獣めいた咆哮だった。
そして私は彼女が次に見せた行動に戦慄した。
彼女はさっと部屋に視線を走らせ、床にころがっていた筆箱を見つけ手に取った。百円ショップで買った青いプラスチック製の筆箱で、彼女はそれをお守りのようにしてよく持っている。
今のような状況になった時、彼女は決まってその筆箱を胸に抱き、目を閉じる。そうすると、いつも不思議と落ち着きを取り戻すのだ。
けれど今日は違った。
彼女は筆箱の蓋を開けたのだ。
今日こそは殺されてしまうかもしれない。
そんなことを思ったせいだろうか。
私は頭の中で走馬灯の如く彼女との出会いから今に至るまでを思い返した。