spice and spite
地下鉄からJRに乗り換えるために僕が階段を上ると、薄暗い日の光とともに潮の香りが僕の五感を刺激した。
乗り換えのためにしか使用しない駅だが、近くに海が無いことくらいはさすがに知っていた。
そのため僕は日常とは異なる違和感に足を止めて、この香りの正体を知るために周囲をぐるりと見渡したのだ。
彼女を見たのはその時が初めてで、その当時は彼女が時沢 友美という名前であることすら知らなかった。
彼女は人々が忙しなく行き交う駅のホームに一人で佇み、周囲とは隔絶した空気を放っていた。それは彼女の二十歳前の外見年齢とは考えられないような、あまりにも世離れした空気だった。
何かに追い詰められたような、しかしどこか達観したかのような顔をした彼女は、電車のレールと発車時刻を知らせる電子掲示板を見比べ、頭を振り駅の出口へと歩き出した。
僕は自分の真上にある電子掲示板を少し体をずらして覗けば、次の電車まではまだ10分近くある。
この駅が定期券の範囲内であるということも相成って僕の好奇心は活動を始めた。
彼女を見つけるのはそう難しいことではなかった。高校を卒業したばかりのような外見とその身にまとう雰囲気が醸し出すギャップは人ごみの中でもはっきりと判別できるほどだった。
僕は彼女を見失わない程度の、しかし彼女からは決して気づかれないような絶妙な距離を保って、彼女のあとを尾けはじめた。
駅構内には電車到着を報せるアナウンスが鳴る。僕が乗るのとは違う路線が到着したようだ。
さらに雑多となった人ごみの中を驚異的なほどの速さで抜け自動改札へ。どうやら彼女は駅から出ていくようだ。
僕は財布から定期を取り出し、彼女はなんの素振りも見せず、
彼女は改札を通過した。
切符を改札に入れる素振りも見せず、定期券を取り出す素振りも見せず、彼女は改札を通過したのだ。
「ちょっと、きみ・・・」
目の前で無賃乗車をされたのにも関わらずまるで無視する駅員の代わりに僕は静止の声をかけた。
「・・・」
聞こえなかったらしく彼女は一切の動作を変えない。
僕は彼女を追いかけるように早足で彼女に近づいたが、怒涛の降車客に阻まれた。
改札と僕の間に川、壁を作る駆け足の人たちを抜けて改札を出た頃には、もう彼女を見失っていた。
彼女と、一方的であったにせよ、出会ったのはその時が最初だった。
2回目の彼女との出会いは、もっと刺激的なものだった。
通過する駅の関係なのか彼女との唯一の接点であり遭遇場所は、乗り換えるためだけに下車する駅で彼女と出会うのは他にはない。
初めて彼女を見た時と同じように突然鼻孔をついた潮の香りにつられて彼女を見つけた。
見つけてしまったら、長年の恨みを晴らすべく復讐を誓う殺人鬼なんて目に入らない。
僕は手にしていた小説をカバンに仕舞って、彼女に注目した。
来るべく電車を待つように、またあの達観したかのような悲しそうな顔でプラットホームに立っていた。
何をしたいのかは判らない。彼女は電光掲示板を見て、僕は前回の出会いを思い出した。また無賃乗車をするのだろうか。だとしたら今回は見失わない様にしよう。
しかし前回と大きく異なったのは、電車の到着時刻が間近に迫っていたことだった。
彼女はそれに気づくと何かを決意したような顔になって、電車を来るのを待つことにしたようだ。
その間、彼女は悲しそうな顔をし、再び決意したかのように顔を勢い良く上げる。
距離があるのにも関わらず、ここまではっきり感情が判る。でも考えていることは全くわからない。単純な性格だが、複雑な事情を抱えているようだった。
駅内アナウンスが流れ、甲高い警笛が列車の到着を告げる。覗けば駅のいちばん端っこに電車が滑り込んでいる。
列車はブレーキをかけているがその速度はいまだ高く、かるく人を跳ね飛ばすくらいの速度は保っている。
いつもの通り迫ってくる電車。ほんのわずかな恐怖を感じながらも僕は電車に近付き、
彼女はなんの躊躇いも無く電車の前へと身を投げた。
とつぜん飛び出した少女の姿に、運転手はあっけをとられたのか電車は一切の速度を落とさないで、少女がいた場所を通過した。
「っ!!!」
僕は目の前で起きた人身事故に、悲鳴を上げるのではなく、声が出なくなるほど驚愕した。
出会ったともいえないような、ただ知っているだけの名前も知らない少女。だが彼女が眼前で命を落としたのは、僕の動きを完全に停止させるほどの威力は持っていた。
呆然と立ち尽くす僕の横を、何人かの人が通り過ぎていく。何事もないように列車へと乗っていく。何事もないように発車ベルが鳴り響く。何事もないように列車は動き始めた。
「ちょっと、待て!」
目の前で人が死んだ。東京の人は冷たいというけれど、さすがにここまで非人道ではない筈だ。
そのくらいのことは信じていたのに、周りに残る人たちは冷ややかな視線で僕を見つめるばかり。
僕の想いを無視しながら列車は駅を出て加速する。僕はプラットホームに佇んだまま動かない。
僕の前には電車で引き殺された少女の死体が転がっている筈だ。転がっている筈だった。
電車の消えたホームは遮るものがなく、僕は辺りを思う存分見渡せる。
しかし視界に入ったものは何もなかった。
血も、死体も、少女の姿もそこにはない。
「・・・う、そ」
確かに少女は飛び込んだはずだ。それは間違いない。でも現実にはいない。なにがどうなっているか判らない。
「やっぱり、ダメだったか」
困惑する僕の後ろで、落ち込み気味の声がした。
僕はその声に振り返れば、数分前と違わず同じ姿をした無傷の少女がそこにいた。
僕はただ彼女を見る。驚きのあまり思考が働かない、見るというよりも視界に入れると言った方が正しいと思いつくのはもう少し後のこと。
僕は彼女から視線を外せず、彼女はそれに気づいた。
微妙な空気が流れる気まずい沈黙。
それを破ったのは、彼女の方だった。
「えっ!何?!気づいてるの?!」
周りの目を一切気にしないような大声。でもそのおかげで僕も正気に戻った。だけど正気に戻ったからといって今の状況に順応できるという訳ではなくて、
「わぁ!やった!あなた、名前は?」
手を握ってぶんぶんと嬉しそうに振り回す彼女に僕は呆気にとられる。
「まぁ、名前なんて良いや!ホントに出会えてうれしい!」
えへへ~と顔いっぱいに笑顔を浮かべ、彼女はまだ僕の手を離さない。そこでようやく冷静になってきて気付いた。彼女の手、異様に冷たくないか。
「ちょっと座ろうか」
後ろに鎮座するベンチを指差すと、彼女はやっと手を離してベンチに座った。
少し遅れて僕も彼女の横に座る。
「それにしても、こんなこと初めてです!2年も幽霊をやってて初めてです!」
彼女の発言は、僕が予想していた通りだった。
「わたし、幽霊としてダメダメなのか誰にも気付いてもらえなかったんです」
周りの人は僕には視線を向けるが、間違いなく僕だけであり、その横には目を向けない。彼女を認識しない。
「2年くらい前にね、その時は海の近くに住んでたんだけど、海に落ちて死んじゃったんだ。あ、でも殺されたとかじゃないよ、あたしが勝手に落ちただけ。
それで気付いたら砂浜に寝てて、なんか身体が軽くて、あぁわたし死んじゃったんだって気付いたの」
彼女は訥々と話を綴るだけで、悲壮も感慨も見えない。人を狂わせるには2年なんて十分な時間だ。
「それからはツラかったんだよ。幽霊だから誰にも気付いてもらえない。誰もわたしを見えないし、感じない。
だから人の多い東京に行けば1人くらいはわたしに気付くと思ったの。
でも誰も気付かなかったみたい。わざわざ駅員の前で改札を素通りしても、電車に身を投げても、誰も何も言わないの」
無賃乗車も投身自殺も、彼女にとっては自分の存在を確認する行為だったのだ。
彼女はベンチから音もなく立ち上がり、プラットホームの端に立つ。振り向いたのは一番の笑顔。
「でもようやくキミに会えた。わたしが見える人に会えた」
アナウンスが流れ周囲の人は電車の到着予定地に向かう。ただ僕だけが彼女へ向かう。
「ねぇ、生きてるって何だと思う?
わたしは生きてるっていうのは誰かに気づいてもらえるってことだと、想ってもらえるってことだと思うの」
2年間誰からも認識されず、誰からも思われずに、孤独の極みを知った彼女は、まさしく、死んでいる。
「だから、」
僕の周りをゆっくりと回っていた彼女は小さな声を確かな声をあげて、
僕の背中を押した。
気持ちの悪い浮遊感。再び時間が遅くなるのを感じる。これがいわゆる走馬灯というやつなのだろう。列車の先頭がゆっくりと迫ってくる。デジャブというやつなのだろう。初めての体験のはずなのによく知っている気がする。そうか、当り前か、10分前に目の前で起こった現象と同じなのだから。
違うことと言えば、彼女は幽霊で僕は生身であることくらい。
2年は人を狂わせるのには十分すぎる時間だ。孤独であるには十分すぎる時間だ。
もっと早く出会っていれば、一生で会っていなければ、彼女は人を殺さずにすみ、僕は殺されることなどなかったかもしれない。
僕はそのことに悲しみを感じながら、列車の衝撃に身構えた。
数刹那後、僕に襲った衝撃は予想よりも遙かに小さくて、予期せぬ方向からだった。
落ちるだけだった身体が突然方向を変える。急激に、プラットホームから離れぬ方向に、列車から離れる方向に、彼女は僕を突き飛ばした。
したたかに背中を打ちつける。急ブレーキの耳をつんざくような音が鼓膜を刺激する。
「君、大丈夫か?!」
運転手が声をかけるが、僕は答えない。意識がそちらに向かわない。
僕の意識は、僕の上で涙を流す彼女へ。
「だから、あなたは、」
顔を見れば彼女の感情なんてすぐにわかる。これが本音だってすぐにわかる。
「あなたは、わたしを恨んでくれますか?」
駅なんて乗り換えのために利用しているにすぎない。彼女にしてみれば、僕なんてたまたま出会った偶然の産物にしか過ぎない。でも彼女を恨みさえすれば、たとえそれが壊れていて歪んでいたとしても、彼女のことを思うなら、僕との出会いは必然になる。
愛情の反対は憎悪ではなくて、無関心。つまり、憎悪の反対は無関心ではないということ。
そして憎悪ならば、簡単に長期間、人の心に残る。
恨まれることで、自分は生きているんだと実感したかったと涙で語る彼女。そんな彼女を僕が恨めるはずもない。
僕は彼女の髪に手を回し、ゆっくりと引きよせた。
彼女の名前を知ったのは、これから間もないことだった。