転生したら推しに婚約破棄していました〜乙女ゲームにルートがなかった男を幸せにするため、悪役令嬢ですが台本を書き直します〜
「婚約破棄を、申し上げますわ」
言ってから、私はようやく気づいた。
おかしい。私はなぜここにいるのだろう。なぜ私はいま、目の前の青年に向かってそんな言葉を口にしたのだろう。なぜ部屋の空気がこんなに静かで、なぜ自分の心臓がこんなにうるさいのだろう。
頭の奥で、何かが割れる音がする。その瞬間、濁流のように記憶が戻ってきた。
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私の名前はリーゼ。この国の貴族、シュタイン公爵家の長女だ。そして——前世では冴えない事務職の二十八歳で、乙女ゲームのオタクだった。
引き続き、記憶が雪崩のように押し寄せる。前世の部屋。薄暗い画面の光。ヘッドフォン。エナジードリンクの空き缶が積み上がった机。そして何度も何度も繰り返した、あのゲームのタイトル画面。乙女ゲーム「A beginning born from the end〜悪役令嬢の歩く道〜」。
このゲームは少し変わっており、悪役令嬢が主人公であった。主人公は冒頭で婚約者である第一王子に婚約破棄を申し渡し、そこから各攻略対象に入っていく。攻略対象は五人。隣国の王子、宮廷魔導士団長、平民出身の勇者、暗殺貴族の子息、商会主。どれも人気があって、各ルートはとても丁寧に作られていた。でも私が一番好きだったのは、そのどれでもない。
チュートリアルにだけ登場する、攻略対象外の第一王子。主人公の悪役令嬢リーゼの婚約者として名前が出て、わずか数行のテキストで退場する、報われない男。アレン・フォン・ミルクハルト殿下。――私はその男に、人生を狂わされたのだ。
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記憶が戻りながら、私は同時に現状を把握していっていた。ここはゲームの世界であり、私は悪役令嬢リーゼ・フォン・シュタインに転生している。そして——今まさに、チュートリアルを実行中だ。
ゲームの悪役令嬢リーゼは、婚約者アレンに婚約破棄を告げる。それがこの物語の始まりだ。ヒロインが王都に降り立つ前の、短い序章。リーゼにとっては人生の転換点だが、ゲームにとってはただの舞台設定に過ぎない。
「婚約破棄を、申し上げますわ」
その台詞を——私は、たった今、言ってしまった。
……まずい。すごく、まずい。いや、まずいどころの話ではない!私はいま、推しに婚約破棄を言い渡したのだ!
今すぐのたうち回りたい衝動をぐっとこらえ、私は推しであるアレンを真正面から見る。それだけで、私の心臓が止まりそうになってしまう。
王家の跡取りにふさわしい、落ち着いた色の燕尾服。淡い金髪は光の加減で白にも見える。切れ長の銀灰色の瞳は、いつもどこか遠い場所を見ているような気がした。
ゲームのグラフィックで見た表情と、全部同じだ。違うのは——その横顔が、本物だということ。
スチルの中のアレンは静止していた。でも今のアレンは、かすかに呼吸をしている。指先が、胸のあたりが、全身が動いている。
「……分かった」
低く静かな声でそれだけ告げて、彼は窓の外に視線を向けた。白いカーテンが、午後の風に揺れている。
私は知っている。このシーンを何百回と見返した。スキップせずに、いつも最後まで見た。
ゲームのアレンは「……分かった」と言って、画面の端へ消えていく。フェードアウト。それ以降、彼はどのルートにも登場しない。彼の婚約はここで終わりを告げたのだ。にも関わらず、アレンはどのルートでも主人公のことを陰ながら助けてくれていた。
隣国に渡る船を手配してくれたり、主人公の悪い噂を止めたり、喧嘩した時は仲を取り持ってくれたりもした。婚約者でもない少女に、こんなにも尽くしてくれる男。そんなの好きにならない方がおかしい!
だから私は何年もかけてレビューを書いた。運営へのお問い合わせフォームを埋めた。「アレンルートを実装してください」という署名活動も立ち上げた。しかしいいねが五万を超えた夜、私はエナジードリンクを飲みすぎて倒れそのまま病院に運ばれて——死んだ。それが前世の最後の記憶だ。
目の前のアレンは、まだ窓の外を眺めていた。横顔が、少しだけ歪んでいる。ゲームのスチルと、まったく同じ顔で。
胸の奥がぎゅうっと締め付けられる。
ゲームで見たこの表情に、私は十年間狂わされたのだ。静止画の中の、たった一枚のスチルに。
彼が悲しんでいるのか、怒っているのか、それとも別の何かなのか、ゲームは何も説明してくれなかった。テキストは「その横顔が、少しだけ歪んでいるような気がした」というナレーションの一行だけで、次のシーンへと切り替わってしまったから。
でも今、私はその横顔を、本物として見ている。三次元で。呼吸している人間として。
彼の顔が一瞬歪んでいるように見えた。表情が崩れているわけではない。ただ口元が、ほんの一瞬だけ何かに耐えるように引き結ばれたのだ。たったそれだけ。それでも推しの世界一のファンたる私には分かる。あれは悲しみをこらえている顔だ。表にださないよう、必死に抑えている顔。
どうしよう、どうしよう、どうしよう!脳内が、パニックに陥いる。推しが泣きそうにしている。私のせいで。私が婚約破棄してしまったから。*
私は深呼吸をして、なんとか思考を整える。
待って。落ち着いて。これはゲームのシナリオ通りだ。悪役令嬢リーゼが婚約破棄を言い渡す——それがチュートリアル。私は今、チュートリアルを完遂した。正しい流れだ。何も間違っていないはず。*
……間違っていない?間違っていない、わけがない。*
私は目の前の青年を見た。アレン・フォン・ミルクハルト。
ゲームの中で「その横顔が少しだけ歪んでいるような気がした」と描写されただけで、全員の心を鷲掴みにした男。攻略対象でもないのに、全ルートの中で一番語られたキャラクター。運営への要望ランキング、八年連続一位。「アレンルートを出してください」の署名が、十二万票集まったキャラクター。
そのアレンが、今、本物として目の前に立っている。そして私は今、そのアレンに婚約破棄を告げた。告げてしまった。台詞通りに。シナリオ通りに。完璧に。
なんで私はこんなに完璧にやってしまったのだ!?
部屋には沈黙が落ちる。
アレンはまだ窓の外を見ていた。部屋の空気がひどく静かで、遠くで馬車の音が聞こえる。
言い直せるだろうか。「今のは忘れてください、実は私、前世で十年間あなたの推しでした、ゲームにルートがなくて運営に叫び続けて死にました、転生したらあなたに婚約破棄を言ってしまっていたんです、取り消していいですか」
いやそんなことを突然口走ったら、頭のおかしい奴だと思われてしまうだろう。
そんなことを考えてアレンがゆっくりとこちらを向き、銀灰色の瞳が私を見た。
その瞳には、感情の色が見えなかった。だが、何もないわけではない。むしろ、溢れそうな何かを、奥底に沈め切ったような目。
「……君の意志は、承った」
彼は冷静に、完璧に、まるで何も感じていないように言い放った。
あ、これだ。私はその声を聞いた瞬間、確信した。
ゲーム内でのアレンの評判は「冷たい」「感情がない」「リーゼ様が婚約破棄したのも無理はない」そういうものばかりだったし——ゲームのプレイヤーたちも最初、みんなそう思っていた。でも違った。
この人は冷たいんじゃない。彼の頭にはきっと色々な考えが浮かんでいるはず。それはあの表情を見れば分かる。ただそれを口に出さないだけ。
口下手なのか、単に話すことが嫌いなのかは分からない。でも、ずっと主人公を助けてくれていたこの人が冷たいわけがない。それだけは分かる。
アレンは一礼して、部屋を出ていった。廊下から、石畳を踏む音が聞こえてくる。私は一人になって、その場に立ち尽くした。頭の中が、嵐のように騒がしかしい。婚約破棄してしまった。推しに。しかも私が言い渡した。言い渡してしまった。
……このままでいいのだろうか。いや、いいわけがない!
チュートリアルだから仕方ない、は言い訳にならない。ゲームのシナリオだから、は免罪符にならない。今のアレンの横顔は本物だ。ゲームのスチルじゃない、この世界に息づいてる本物の人間の顔だ。
ゲームにアレンルートはなかった。私は静かに、その事実を思い出す。
十年間、「アレンルートを出してください」と叫び続けた。しかし運営はその意見を聞くことはなく、私は死んだ。そして転生した。
……なら。なら、私が作るしかない。
ゲームにないなら、現実で作る。台本がないなら、自分で書く。攻略情報がないなら、一から知ればいい。あの人が何を好きで、何で笑って、どんな言葉に心が動くか——全部、自分の目で確かめればいい。
スタート地点は最悪。挽回の手段なんてあるわけがない。だがそれがどうした!推しを悲しませるなんて、人として以前にオタクとして失格だ!!
廊下に出ると、アレンの背中がまだ見えた。遠ざかっていく、淡い金髪。
どう弁明すればいいのか、何を言えばいいかも分からない。攻略ルートは存在しないから、正解の台詞も選択肢もない。転生特典の知識も、この件に限っては何の役にも立たない。
でも——行くしかない。前世の私が十年間叫んで届かなかったものを、今世の私が届ける。それだけだ!
私は息を切らし必死に走りながら、ひとつだけ、心の中で決心する。
今度こそ——この人を、幸せにする。世界初のアレンルートを、私が作ってみせる!
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