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妖異譚 あれが過ぎると申します

あれが過ぎると申します 憑

掲載日:2026/04/17

 野太い読経の声がわんわんわんとこだまする。

 鐘の音《ね》、太鼓の音《おと》。

 経本が宙に抛擲《ほうりあ》げられ扇のように開いたと思うたら、もうもうたる香煙を揺らしつつ、蛇腹が瀧となって雪崩《なだれ》落ちる――そこに記された文字《もんじ》は、正《まさ》しく文字でありながらも、意を伝うべき媒体としての真面目《しんめんもく》を頑として拒絶せるかの如し。

 バラバラバラと折本がかつ開かれかつ閉じらるるが儘《まま》に、墨痕の閃《ひらめ》きが人の眼に刹那点ずるや否や、直ぐにまた堆積する紙間に挟まれ、闇の底へと沈んで行く。



   *  *  *  *  *  *  *  *



 先の戦争で母は三人の息子を兵隊にとられた。

 長男は幸い内地勤務だったが、次男は南方、三男は満州に出征した。

 百姓仕事の大事な働き手でもある息子が三人も――特に下の二人は生死を分ちかねない危地に送込《おくりこ》まれ、さすがに母は少し気が違ったかと思われるほどに落胆した。


 やがて負け戦とは言え、ともかく戦争は終り、長男は間もなく帰ってきた。次男も年が明けて春が過ぎ、夏の初めに復員した。しかし、三男はまだ帰らない。

 長男、次男が復員し、母の気苦労も少しはましになるかと思われたが、その帰ってきた次男の様子がどうもおかしい。


 南方は随分ひどいありさまだったと人からも聞くので、家族にも言えぬ相当な苦労があったのだろうとは思われたが、それにしても、どうにもおかしい。

 まず、眼付が違う。炯炯《けいけい》たる眼光で、家の中をあちこち見回したり、威圧するような、睨みつけるような視線を小さな弟や妹に向けたりもする。

 二人ともまだ国民学校に通う児童《こども》である。年の離れた兄のこの眼付が厭で堪らない。血を分けた兄弟妹《きょうだい》とは言え、何とも怖ろしく近付き難い。どうして兄《あん》やんはこんなことになってしまったのだろう。そう思うだに哀しく、小さな胸を痛めていた。

 戦争に行く前、本来の次男にはいささか剽軽な所があり、快活で御喋りな質《たち》でもあった。弟妹《ていまい》にも優しく、色々と面白おかしい話をしてくれるのが常であった。

 それが今では、まるで人格が他人のものと入替ったようである。刺すような眼遣いをしたかと思うと、次の瞬間には、さっと表情を曇らせ下を向き、陰鬱な様子でじっといつまでも黙り込んでいる。


 或いはまた、一旦口を開けば、家族を前に何やら難しい理窟ばかりを並べ始める。

 決して裕福ではない家のことゆえ、子女《こども》は皆、尋常科しか出てはいない。それは次男にしても同じことである。しかるに、そこの教育で教わることなどあり得ぬような高尚な話をする。

 元来勉強家でも読書家でもなく、学問などにはむしろ縁遠かった男なのだが、どこで覚えたものだか、漢語やら、剰《あまっさ》え、横文字からなる語彙を多用する。口調からして、宛《さなが》ら高等教育を受けている最中《さなか》の、衒学の書生然たる雰囲気である。

 そうして、世を慷慨し悲嘆するような論を滔滔《とうとう》と述べ立てる。兄でも親でも、小さな弟妹《おとうといもと》であっても、相手は誰でも構うものではない。眼前に相対する者の何如《いかん》を問わず、すぐに難解な禅問答を吹っ掛けてくる。

 今のこの振舞《ふるまい》とかつての為人《ひととなり》とがどうにも結びつかない。全く似つかわしくないのである。

 兵隊のときに学んだものとも到底思われぬ。生きるか死ぬかの戦場。就中《なかんづく》、過酷を窮めた南方戦線。学問をする余裕などある訣《わけ》が無い。また、仮令《たとい》余裕があったとしても、学殖に志すような人物ではそもそも無いのである。

 誰がどう考えても不可思議としか言いようがない。


 次男は食事にもあまり手を付けなかった。滋養になるものを殆ど口にしないのである。

 復員時からひどく痩せてはいたが、それが一向に回復しない。もとより、田畑の仕事を手伝うそぶりも見せぬし、その体力があるとも思われぬ。むしろ病人と言った方がふさわしい窶《やつ》れようである。


 盆を過ぎた頃、甚《いた》く心配した父母《ちちはは》が長男に頼んで次男を馬車に載せ、ここいらでは頗る腕の立つと言われる医者のもとに診《み》せに行かせた。


 しかるに、名医は一目見るなりこう言った。


「こりゃあ、どうも…… わしが何とか出来るもんやなさそやな……」

 途方に暮れた長男は、何度も頭を下げて頼み込んだが、医者はとうとう頸《くび》を縦には振らなかった。

「まあ、気の毒なこっちゃが、わしなんぞの出る幕やない言うこっちゃ。何なら、帝大の博士やら教授やらであったとした所で、手も足も出んやろ。言うたら、医者では無《の》うて神仏《かみほとけ》におすがりせんならん類《たぐい》のもんとちゃうかいの? 加持祈祷やな。坊《ぼん》さん神主《かんぬっ》さん、或いは修験者《すげんじゃ》どんか、そうけな人に早う見せたがええ」

 苦笑いのような、困惑した顔でそう宣告する。


 薬も注射も処方しないどころか、ろくに診察すらせぬ医者に、兄は大いに憤慨したが、その気持ちを抑えて弟を連れ戻ると家族にこう零《こぼ》した。

「田舎では名医で通っとっても高が知れとるわいの。今の世の中で、修験者《すげんじゃ》なんぞ勧める医者があったもんかいや。二十世紀も半分過ぎよるこの時世に。ああけな思考《あたま》じゃ医学も科学も話にならんのう」


 しかし、明治生まれで前世紀生まれの両親の反応は違っていた。

 長男次男には黙ったまま、こっそりと伝手《つて》を辿って、隣の県の澄泉寺《ちょうせんじ》なる台密《たいみつ》の寺に祈祷《きとう》を申し込んだらしい。泰澄《たいちょう》菩薩《ぼさつ》だか誰だかが遠い昔に開闢《かいびゃく》なされたという由緒ある寺である。


 数日後、父は野良の帰りに紺屋《こうや》の甚《じん》さんに呼び止められた。

「ちくっと、寄ってくれんかの。渡すものがあるで」

 神妙な顔で囁くように言われ、紺屋の裏の納屋の陰まで連れて行かれた。そうしておいて、甚さんは一人そのまま母屋に向った。

 このような所でこそこそと待たねばならぬのは妙な事だと、粗略に扱われた違和感と言おうか、多少の不満と言おうか―― 加えてなぜだか後ろめたいような、不安な心持にも捉われたが、とりあえずは素直に従っておいた。紺屋は集落の肝煎《きもいり》筋《すじ》に当たり、今でも昔の権威がそこはかとなく保持されている風があった。

 しばらくして、辺りを窺うようにしながら甚さんが戻って来たと思ったら、懐から何やら取出し、そっと隠すように手渡された。見れば、膨らんだ渋紙の包で、掌よりも一回りばかり大きい。表には墨で何やら文字《もんじ》が書いてある。

「早う、しまいやれ。早う、早う」

 せかされるまま、ろくに検《あらた》めもせず懐中したが、その際、抹香のような薫《かおり》が仄《ほの》かに鼻に漂った。

 何でも、澄泉寺《ちょうせんじ》から人伝《ひとづて》に送ってきたものらしい。


 一体、父が祈祷をまず相談した相手が、この甚さんであった。


「それに這入っとるもんをな、家のぐるりにしっかり撒いたがええらしい。こそっとな、人に見られんようにて言うとらぁたで」

 押し殺すような声でそう語る。


 寺から祈祷の修験《すげん》が来るのは、まだ十日程先のことになるとの話だった。しかし、その間にも、もしかしたら次男に憑いた妖魔が勘付いて、何やら怨《あた》を為すようなことがあるやも知れぬ。そうなっても当座を凌ぐべき方便として仮の咒《まじない》が肝要との判断らしい。咒は人に見られたり、知られたりすると、効能が薄まるので、誰にも知られずこっそりと一人で行うが是非のものだと言う。

「嬶《かか》には言うてもよかろうか?」

「さあて……? ――まあ、黙っとらるるがええ思うがの。咒《まじない》やけぇな。人の考えの及ばんところもあろうで。したれば、知っとる者《もん》は少なぇ方がええと思うがな」


 紺屋《こうや》を後にして、人気の無い所でそろそろと紙包を取出してみた。書かれてある文字《もんじ》は梵字というものであろう。包を開くと浅葱色の紙の袋が出てきた。ここにも同じような文字《もんじ》が記してある。口の所は何度か折返し巻くように畳まれて、その部分を押さえる紙縒紐《こよりひも》が回し懸けてある。それを丁寧に解《ほど》いて中を覗いてみたところ、先程も嗅いだ、仏前で焚く香のような薫が濃厚に立った。何でも塩と灰と砂とを混ぜたような、鼠色の粉がたっぷり這入っているのが見える。

「嬶《かか》にも言うてはならんのじゃのう」

 何やら、ありがたいような、そら怖ろしいような、訣《わけ》の判らぬ心持がした。

 家に帰ってもどうも落ち着かなかった。何と言おうか、懐に漬物石でも抱えさせられているような感に捉われた。


 晩飯の後、すっかり昏くなるのを待って、厠に行くふりで表に出ると、家を一回りしながら粉を撒いて歩いた。妻を含めて誰にも見られてはならぬと思うと、知らず知らずに足取りが早くなるようだった。妙な脂汗が額に滲んだ。


 それから幾日かが過ぎ、果たして祈祷の三日前のことである。次男が目に見えて苛々し始めた。

 鋭く慳貪《けんどん》な瞳を弟妹《ていまい》のみならず、兄や親にまで向けてくる。

「どうも、何やらん奸悪《かんあく》なる策動が進行しよるがに見ゆるがのう? どうで? 何《なん》か隠しとるやろ? そろそろ祈祷なんぞが来るんやなかろうかの? 詐謀《さぼう》偽計《ぎけい》なんぞは露見するもんや。祈祷が来るのう? いついつ来やる?」

 全く何も知らない筈のところ、そうまくし立てて食って掛かる。

 迷信嫌いで、そもそも父母《ふぼ》の画策にも没交渉なる長男は、はなから否定した。

「何言うとるで。そげながあるわけなぇで。しっかりしとくれよ……」

 しかし、後ろめたい所がある父母《ちちはは》は随分と肝を冷やした。

「祈祷て何や? そげなは知らんが……」

 取繕うようにごまかしたが、何とも冷や汗が出た。殊に、家族の誰にも判らぬよう一人こっそりと例の粉を撒いた父は、一層身が縮む思いがした。


「まあ、ええ。そうやって知らぬふりを通したらええ。こっちにもやりようはあるでな」


 その後も「祈祷はいついつ来やる?」との問いは、事あるごとにしつこく発せられたが、その度毎《たびごと》に家族は重ねて強く否定した。そうすると次男もそれ以上深く追及しようとはせず、不敵な笑みを浮かべてその場を離れるのが常であった。



 さて、当日の朝。

 三人の僧が案内を乞うた。人足二人を連れている。


 父が迎え入れると、中でも年長らしい一人が、早速次男の姿を見付け、ずかずかと近寄って来た。次男は居間に座ったまま、挨拶どころか坊様に見向きもせず、あらぬ方《かた》を眺めながら、にやにや薄笑いを浮かべている。

 その様子を矯《た》めつ眇《すがめ》めつ見回しながら、

「おや? どうやらもう抜け出とるようやの…… やれやれ…… しっかし、この兄《あん》さんの心胆《しんたん》をば、半分かそれよりようけか掴《つか》んで、そのまま持出しとるようや。――駄賃のつもりやろが、益体《やくたい》も無い。今、この兄《あん》さんは、言うたら蛻《もぬけ》の殻みたようなもんや。虚《うろ》言うかの。――まあ、抜けた言うても遠くにゃあ行っておるまい。この家《や》のどこぞに隠れておろうて……」などと誰に語るとも無くぶつぶつ呟いた。

 そうして、仰のいて屋根裏の桁や梁の辺りを探るように、また睨むように眺めつつ、一通り家の中を歩き巡った。


 その間、残りの僧二人は、家族一同を仏壇のある座敷に集めた。


 僧自らも運び、人足にも運ばせて来た、大小幾つかの行李や風呂敷包を開いてさまざまな道具を並べ祈祷の準備に取掛る。その坊様達の一挙手一投足を見詰めながら、両親は真剣だった。

 長男は内心莫迦(ばか)莫迦《ばか》しいとも思いつつ、弟がしつこく疑っていたとおりの仕儀に至ったことに、かなり驚きも覚えていた。父母《ふぼ》が自分にも黙って事を進めていたという、思わぬ経緯《いきさつ》を悟り、不満ながらもあえての言挙《ことあ》げは控えた。

 年少の弟妹《おとうといもと》と来ては、目の前で進行しつつある、今まで見たことも無い、何とも珍しくも物々しいことどもに目を見張っていた。驚き呆れ、ただただひどく怯えるばかりだった。


 一人次男のみは恬淡たる風で落着き払い、穏やかな笑みさえ見せて座布団の上に納まっている。



 やがて祈祷が始まった。



 香炉が焚かれる。

 焔《ほのお》と共に盛んに薫煙が立昇り、鬱然《うつぜん》たる燻《いぶ》りの気が皆の鼻と肺とに苦しいほどに充溢《じゅういつ》する。

 行者三人三様ながら、いずれも野太い読経の声がわんわんわんと響き渡る。

 鐘が鳴る。太鼓が打ち鳴らされる。

 仰々しくも厳かなる大音響が、空気のみならず人も家をも振動させる。


 その殷殷《いんいん》たる響振《きょうしん》の中、若年の僧二人の手によって、重ねて置かれた経本の一帖《いっちょう》が宙に抛擲《ほうりあ》げられ、扇のさまに蛇腹が広がり、羽搏《はばた》き、舞い落ち、流れる――

 折本の各葉がかつ開かれかつ閉じらるるが儘《まま》、数多《あまた》の文字《もんじ》の墨痕が刹那閃(ひらめ)くように顕《あらわ》れては消え、もうもうたる香煙を揺らしつつ、バラバラバラと瀧の如くに雪崩《なだれ》落ちる――

 一帖《いっちょう》が終れば、次の一帖。そして、また別の一帖――次から次へと転読《てんどく》が続いて行く――


 何とも言われぬ尋常ならざる雰囲気。

 わけても、幼い弟と妹は、煙たさと音と振動との迫力に圧潰《おしつぶ》されてしまうような、耐えがたい苦痛を感じていた。


 逸早《いちはや》く異変に気付いたは、さすが年長の坊様である。


「これは、いかんな」


 小さな二人が、それぞれ己の膝の上に重なるように身を伏せている。眉を八の字に寄せ固く目を閉じた顔。食いしばった口許《くちもと》から苦し気な息が漏れる。

 それを見て父母《ちちはは》は、はっと胸が締め付けられた。慌てて母がにじり寄る。


 坊様曰く、魔というものは弱い所に付込む性質《たち》らしい。法力により隠れ場所から燻《いぶ》し出された憑物《つきもの》が行き場を失って、今度はか弱い弟妹《おとうといもと》を祟ろうと降《くだ》り始めたとか――

 法師は、何やら真言を唱えつつ、経本で子供二人の背中を何度も叩いた。

 父や母は、もう気が気ではない。あんなに激しく叩かねばならぬものだろうか。


「この童《わらわ》どもは、この家《や》には置いとかん方がええの」

 指図を受けて、早速長男が弟妹《ていまい》を連れ出し隣の集落にある親類の家へと向かった。

「祈祷が終っても二三日《にさんち》は帰って来させぬようにの。ええかな? ――おんころころせんだりまとうぎ、おんあびらうんけんそわか―― そうさの、次の己《つちのと》亥《い》の日にでも戻すがよかろ」



 加持は、実に半日以上も続いた。



 なるほど大層なものである。

 しかし、それにしても泰澄《たいちょう》菩薩《ぼさつ》だかから千年も続く霊験は実に灼《あら》たなるもの。頗る油断のならぬ魔縁《まえん》であったらしいが、どうにか調伏《ちょうぶく》が敵《かな》った様子である。

「まあ、これで一安心やろ。あっこからな、しぶしぶ出て行きよったでな」

 法師は多少なりとも得意げな表情を浮かべ、屋根裏の烟出《けむりだし》を指差した。安心なのだかどうだか、半信半疑の心持は家族それぞれにあったが、まあ、信じるほかあるまい。


 汗みずくになって、かなりの疲労が見てとれる祈祷僧達に、母は真新しい手拭と白湯とを進めた。一連の行《ぎょう》の最中《さなか》、上りもせずに戸口の式台にじっと腰掛け控えていた人足二人にも湯呑茶碗が運ばれた。

 そうして父も母も、一仕事を終えた坊様方《ぼんさんがた》に向って、何度も何度も米搗《こめつき》飛蝗《ばった》のように頭を下げ、礼を述べた。弟妹《ていまい》を親戚に預け戻って来ていた長男も、行者に低頭して謝意を示した。専《もっぱ》ら科学に信を置くこの男だが、さすがに殊勝な顔付となっている。

 ただ、次男の方は、何やらまだぼんやりとしている。

「まあ、日が経つにつれて、おいおいと正気も戻ろうて。そやな、何や滋養のあるもんでも食わせてやればよかろう」

 ほっとしたような笑みを浮かべて長者の坊様がそう言った。


 父はうやうやしく盆に載せた布施の包を差出しながら、次男にはいかなる魔が、いつ、どのようにして憑いたのか、何故《なにゆえ》次男が取憑《とりつ》かれる次第になったのかを尋ねた。

 その問いに年若の僧二人の眉根がいささか険しくなったように見えたが、長者の法師は涼しい顔を作って、

「まあ、それは知らんといたがよかろうの。知らぬが華とは言うものな」と答えた。

 それでも父は、根掘り葉掘り何とか聞き出そうとしたものだったが、

「知るちゅうことも関りや。知ったら繋がりができてまうのや。魑魅《ちみ》魍魎《もうりょう》の魔道なんぞ、なりたけ関わらんに越したことはない。在俗のあんたらは尚更《なおさら》な――」などと、畢竟《ひっきょう》はぐらかされるばかりで教えてはくれなかった。



 数日後、預けられていた弟妹《ていまい》が戻って来た。

 長男には、今回の案件、それも迷信が大いに絡んだような経緯《ゆくたて》について、どうにも納得が行かぬ心情があった。しかし一方では、世の中には無理にも呑込まなければならぬ諸事もあるものだと、大人の分別を自らに言い聞かせた。


 十日が過ぎ二十日経ち、やがて、呆けたようになっていた次男にもだんだんと生気が蘇《よみがえ》ってきた。


 三男がシベリヤから戻って来るまでには、それから更に二年を待たねばならなかった。


 数年が経ち、次男には生来の快活さが大方《おおかた》戻ったように見えた。ただ、どことは無しの陰のようなものも何かの端々(はしばし)に窺われた。そうして、復員直後のあれこれは、聞かれても一切覚えていない風であった。

 何かの拍子にその話が持出されると、何とも情けないような、複雑な苦しい表情で首を傾げては黙り込んだ。なおもしつこく問われれば、一瞬にして人が変わったように激昂するので、次男の前であの話をするのは皆にとっての禁忌となった。


 弟妹《ていまい》は長じてからも、あの時分の兄《あん》やんの怖ろし気な眼付をしばしば思い出すことがあった。そのたびに、由々しく忌まわしく、身内のことながらに厭《いと》わしい心持がぶり返した。その何とも言えぬ厭《いや》な感じはあの時のまま、いつまで経ってもありありと胸裏に甦って来るのであった。





                         <了>










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