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人の不運を背負う私が婚約解消を申し出ても、幸運公爵様はなぜか離してくれません!

作者: 野塩いぜ
掲載日:2026/04/10

 音を立てて何かが割れた。その瞬間、ああまただ、と思った。


 グランヴェル公爵邸の広間。婚約のための顔合わせの席で、私はまだ挨拶すら終えていなかった。紅茶を注いでくれた使用人の手が滑りそうになり――代わりに、私の目の前のティーカップが、ひとりでに罅割れて砕けた。

 テーブルクロスに紅茶の染みが広がっていく。広間がしん、と静まる。使用人は目を丸くし、付き添いの者たちがざわめき始める。


 物心ついた頃から気づいていた。私には、周りの人の不運を引き受ける性質があると。


 庭師が梯子から落ちそうになった瞬間、代わりに私の足元の石畳がぱかりと外れる。侍女がよろめいてぶつかりそうになった花瓶は無事で、私の棚の置物が音を立てて落ちる。そんなことの繰り返し。

 私のそばにいる人には、不運が起きない。全部、私に降りかかる。

 自分で止められるものなら、とっくにそうしている。でもこの体質はどうにもならなくて、せめてもの救いは引き受ける範囲がそばにいる人に限られることだった。だから少し距離を取って生活すれば、大きな問題にはならない。普段ならば。


 初めて訪れた公爵邸で、見知らぬ使用人に囲まれた今日は、普段通りとはいかなかったらしい。


 ……よりによって、この場で。


「本当に、申し訳ございません」


 頭を下げる間も、周囲のざわめきは収まらない。初対面の場でこの醜態。両親が何と思うだろう。せっかく整えてくれた縁談なのに。


 この縁談は、両親の悲願だった。


「リリーネ。お前にようやく良いお話が来たのよ」


 母はどこか緊張した面持ちで、グランヴェル公爵家の名を口にした。当主が代替わりしてから驚くほど家運が上向いたと噂される名門。その若き当主クラウス・グランヴェルは、生まれながらに強運を背負っていると社交界で囁かれる人物だった。


「あの方のおそばなら、お前の不運もきっと打ち消される」


 父の声には、祈るような響きがあった。娘が一生、誰かの不運を背負い続けなくてもいいかもしれない。その可能性に賭けたいのだと、すぐにわかった。

 断る理由はなかった。両親の願いを無碍にはできなかったし、それにもしかしたら、この人のそばでなら。そう期待してしまった自分がいた。

 なのに早速これだ。期待するだけ無駄だったのだと、紅茶の染みが教えてくれている。


 ――しかし。


「問題ない」


 広間の空気を断ち切るように、声が落ちた。

 顔を上げると、クラウス・グランヴェル公爵がまっすぐ……まるで逃げ場を与えないようにこちらを見ていた。整った顔には、怒りも驚きも呆れもない。感情というものをどこかに仕舞い込んでしまったかのような、ただ静かな灰色の目。


「誰も怪我をしていないのだから、十分に幸運だ」


 それだけ言って、クラウス様は何事もなかったように紅茶を口に運んだ。

 周囲が急速に落ち着いていく。公爵がそう言うなら、そうなのだとでも言うように。


 この方は、本当に何にも動じないのだろうか。


 そう思いながら、私はほんの少しだけ肩の力を抜いた。


***


 そんなことがあったにもかかわらず、私たちの婚約はつつがなく成立した。

 不運体質の令嬢と幸運の公爵。噂好きの社交界がどう見ているかは想像に難くないけれど、クラウス様は周囲の声など気にも留めていないようだった。それどころか、私の体質についても一切触れてこない。知っているのかいないのか——おそらく縁談の経緯を考えれば知っているのだろうけれど、それについて何も言わない人だった。

 ただ穏やかに、淡々と、日々が過ぎていく。

 公爵のそばにいれば不運が打ち消される。そんな両親の期待は、残念ながら早々に裏切られた。


 その日は朝から天気が良かった。雲一つない青空の下、クラウス様と庭園を歩いていた時のことだ。

 前触れもなく、空が翳った。

 正確に言えば、空が翳ったのは私の頭上だけだった。クラウス様の周囲には柔らかな日差しが降り注いでいるのに、私の真上にだけ、どこからともなく灰色の雲が湧き出して——次の瞬間、局地的な豪雨が降り始めた。

 あまりにも理不尽で、あまりにも滑稽だった。


「……すみません」


 謝る相手が空なのか公爵なのか自分でもわからないまま、私は数秒で全身ずぶ濡れになった。クラウス様は一歩隣で、一滴も浴びていない。晴天と豪雨の境目に二人で立っている光景は、さぞ異様だっただろう。

 するとクラウス様は迷いなく雨の中に入ってきた。そして、雨から私を守るように外套を広げる。幸運の加護があるはずのその身体は、私のそばに来た瞬間からたちまち雨に濡れていった。それでもクラウス様は動かない。


「濡れてしまいますよ」

「構わない」


 短い返事。表情は相変わらず読めない。けれど、外套を直す指先はひどく丁寧だった。


 この人は、幸運ではなく自分の手で私を庇おうとしてくれている。


 雨はほどなく止んだ。嘘のように空が晴れて、二人だけが濡れたまま庭園に取り残される。


「こんなに濡れて……申し訳ございません」

「問題ない、すぐに乾く」


 一言で片付けて、クラウス様はまた歩き出した。濡れた体を気にする素振りすらない。

 何にも動じない人だ、と改めて思った。でもその背中を見ながら、少しだけ違うことも思い始めていた。

 動じないのではなくて、動じる必要がないと思っているのかもしれない。私の不運ごときでは。


 ——けれど、その印象が揺らぐ出来事があった。


 発端は一通の手紙だった。私がクラウス様に宛てて書いた、ほんの事務的な連絡。日程の確認と、ちょっとしたお礼。何の問題もないはずの内容が、なぜか全く別の相手に届いた。しかもよりによって、クラウス様とやや険悪な関係にあるという隣領の伯爵のもとへ。

 そしてその手紙の中身が、行き違いの過程でどういうわけか別の文書と混同され、外交上のちょっとした誤解を生んでしまったのだ。


「クラウス様、本当に申し訳ございません。私の手紙が原因で——」

「知っている」


 クラウス様は書斎の椅子に座ったまま、淡々と経緯を聞いていた。怒っても当然の状況だろう。隣領との関係に余計な波風を立てたのだから。

 ところがクラウス様は、黙って立ち上がると、外套を羽織った。


「先方に挨拶に行く。丁度よかった。あの件は一度顔を合わせて話すべきだと思っていた」


 丁度よかった、というのは本気なのだろうか。

 結果的に、クラウス様は隣領の伯爵と直接会い、手紙の誤解を解くどころか、以前からの懸案事項までまとめて片付けてしまった。外交上の成果と言っていい手際で、周囲は「さすがは幸運の公爵」と感嘆した。

 でもあれは、幸運で片付けて良いものではなかった。事前に状況を把握し、相手の性格を読み、落とし所を用意した上での交渉だ。全部、クラウス様自身の力だった。

 戻ってきたクラウス様に、恐る恐るお礼と謝罪を述べると、返ってきたのは意外な言葉だった。


「こういった対応も僕の仕事のうちだ」


 いつもと同じ平坦な声。でも、気のせいだろうか。ほんの少しだけ、口元が緩んでいるように見えた。

 得意気、というほど大げさなものではない。でも確かにそこには、自分の力で事を成した人間の、静かな充足があった。


 ああ、この人も、ちゃんと嬉しいと思うことがあるのだ。


 不運を起こしておいて言えた義理ではないけれど、あの表情を見られたことが、少しだけ嬉しかった。


 そしてもうひとつ、この頃から気づいたことがある。


 クラウス様が、私の不運をじっと観察しているのだ。


 雨の時もそうだった。手紙の件もそうだった。怒りも呆れもしないけれど、何かを確かめるように、私の周囲で起きる出来事を静かに見つめている。

 あるとき、使用人が廊下で書類を落としかけた。彼の手は持ち直し、紙は散らばらない。その直後、私が持っていた本が手から滑り落ちた。

 何でもない出来事。でもその一瞬、クラウス様の視線が使用人から私へ、滑るように動いたのを私は見逃さなかった。


 ……気づいているのだろうか。ただ運が悪いのではなく、周囲の不運が私に流れ込んでいることに。


 確かめるのが怖くて、聞けなかった。


 その答えは、思いがけない形で返ってきた。


 隣領との関係改善を記念した晩餐会。私にとっては居心地の悪い場である。大勢の人に囲まれるということは、それだけ多くの不運を引き受けるということだ。

 案の定、小さなトラブルは絶えなかった。椅子の脚がきしむ。フォークが滑る。ドレスの端を踏まれる。そのどれもが些細で、周囲は気づかない。


 誰かがぶつかり、テーブルが揺れる。本来ならその人のグラスが落ちるはずだったのだろう。でも倒れかけたのは私のグラス。赤い葡萄酒がドレスに向かって弧を描こうとした、まさにその瞬間だった。


 視界がぐるりと回る。


 気づいた時には、クラウス様の腕の中にいた。片手で私の背を抱き、もう片手でグラスを受け止めている。葡萄酒は一滴もこぼれていない。


「——っ!」


 驚いて見上げると、クラウス様の顔がすぐ近くにあった。灰色の瞳が、静かに私を見下ろしている。


「大丈夫か」


 低い声が、鼓膜を震わせる。

 周囲が息を呑むのが分かった。でもそんなことはどうでもよかった。温かい腕の中で、彼の心臓の音が聞こえる。規則正しいはずのそれが、ほんの少しだけ速い。この音を、ずっと聞いていたいと思ってしまう。


 離れるまでの時間が、無性に長く感じた。


「……ありがとう、ございます」


 声が震える。恥ずかしいからだ。周囲の視線が集まっているせいだ。

 でも、本当は気づいていた。恥ずかしいのは、見られていることではなくて――離れたくない、と思ってしまったことだと。


「君はよく周りを見ている」


 グラスをテーブルに戻しながら、クラウス様が言った。唐突な言葉に、意味がわからず目を瞬く。


「周囲の不運が君に集まるからか」


 息が止まった。

 不運体質のことは、縁談の経緯からご存知だろうとは思っていた。でもこの人は、ただ知っていたのではない。自分の目で観察して、因果の流れそのものを見抜いていた。


 淡々と言うクラウス様の声に、責める色はなかった。呆れる色も、憐れむ色もない。ただ事実を述べるように、静かに。


「……すみません。ずっと、ご迷惑を」

「僕が迷惑に思っているように見えるか」


 見えない。全く見えない。この人はどんな不運が降りかかっても、眉一つ動かさない。

 でもそれは冷たさではないのだと、もう知っている。外套をかけてくれた手を、手紙の件で見せた口元の緩みを、彼の腕の温度を……私は知っている。


 家族以外にこんなまなざしで見てくれる人がいるだなんて、思ったこともなかった。


 晩餐会の帰り道、馬車の中で、私は自分の胸に手を当てた。

 まだトクトクと速く脈打っている。クラウス様の腕の中にいた時の鼓動が、まだ収まらない。

 これが何なのか、本当はもう分かっている。分かっていて、知らないふりをしている。


 だって。

 この気持ちに名前をつけてしまったら、きっともう――戻れなくなってしまうから。


***


 知らないふりは、長くは続かなかった。


 クラウス様の声を聞くと胸が跳ねる。目が合うと、視線を逸らせない。外套の裾が翻るたびに、あの雨の日を思い出す。

 クラウス様が好きだ、と思った。もう誤魔化しようがないほどに。


 その日、私はクラウス様と二人で馬車に乗っていた。隣領への用件から帰る道すがら、窓の外を流れる新緑を眺めながら他愛のない話をしていた。

 クラウス様は相変わらず淡々としていたけれど、最近は私にだけ見せてくれる表情の機微がある。声が少しだけ柔らかい時がある。ふとした拍子に目が合って、先に逸らすのはいつも私のほうだった。

 窓の外の景色を見ているふりをしながら、硝子に映るクラウス様の横顔をこっそり盗み見る。そんな自分が少しおかしくて、少し苦しかった。

 好きになっている。なってしまっている。この気持ちが膨らむほど……この人のそばにいられる幸運が、怖くなる。


 前触れは、なかった。


 馬が突然、甲高く嘶いた。何かに怯えたのか、車体が大きく跳ねて世界が傾く。窓の外の景色が滅茶苦茶に回った。悲鳴を上げることもできず、息が詰まる。

 衝撃の直前、力強い腕に引き寄せられた。クラウス様が私の頭を抱え込んだのだ。そのまま自分の身体を壁にするようにして馬車の側面に叩きつけられた。

 轟音。衝撃。そして——静寂。


「……クラウス、様……?」


 馬車が止まった。傾いた車内で、私はクラウス様の腕の中にいた。全身を確かめる。痛みはない。怪我もない。私は、無傷だった。

 でも。


 クラウス様の額から、一筋の血が流れていた。


「大したことはない」


 いつもの声。いつもの平坦な口調。でも額の血は、嘘をつかない。


「——っ、すみません、すぐ手当てを」

「落ち着きなさい。傷は浅い」


 クラウス様は片手で額を押さえながら、もう片方の手で私の肩を支えた。冷静で、揺るぎなくて、何一つ変わらない。

 でも私の中で、何かが音を立てて崩れた。


 クラウス様が、怪我をした。


 幸運の公爵が。何をしても運に守られるはずのこの人が。


 ――私のせいだ。


 そう思った瞬間、全身が冷える。でも、そうじゃないと思いたかった。馬が暴れただけだ。偶然だ。クラウス様の幸運にだって、たまにはこういうことがある。

 そう言い聞かせて、その日はなんとか表情を繕った。クラウス様に心配をかけまいと、いつも通りに振る舞った。


 けれど夜になって、一人で部屋に戻ると、思考が堰を切ったようにあふれ出す。


 クラウス様に不運が降りかかったことは一度もなかった。雨も、手紙も、グラスも。不運は全部私に来ていた。それが今日、初めてクラウス様を傷つけた。

 何が変わった?

 その答えは、わかっていた。


 私だ。私の気持ちが変わった。


 クラウス様を好きになった。好きになってしまったから、私にとっての一番の不運は彼が傷つくことになった。

 今日は額の浅い傷で済んだ。でも次は? もっと深い怪我をしたら。もっと取り返しのつかないことが起きたら。

 好きになればなるほど、クラウス様を傷つける不運は大きくなるのではないか。

 ベッドの縁に座って、膝を抱えた。目を閉じると、あの額の血が蘇る。私が拭おうとした時、「いい」と静かに手を退けたクラウス様の指。あの人はきっと、どれだけ傷ついても大したことはないと言うのだろう。でも私にとっては大したことなのだ。あの血の一滴が、これまでのどんな不運よりもずっと重い。


 泣きたいのか苦しいのかもわからないまま、一晩中考えた。それでも答えは変わらない。


 眠れぬまま迎えた次の朝、私は決めた。


 ――婚約を、解消しなければならない。


***


 翌日、私はクラウス様の書斎を訪ねた。


 扉を叩く手が震えていた。一晩かけて固めた決意が、この扉の向こうにいる人の顔を見た瞬間に崩れてしまう気がして、怖かった。

 でも行かなければ。この人を、これ以上傷つけないために。


「入りなさい」


 いつもと変わらない声。扉を開けると、クラウス様は窓際に立っていた。太陽の光を背に受けた彼の額には、小さな手当ての跡がある。それを見た瞬間、決意が一層固まった。


「クラウス様。お話があります」

「聞こう」

「……婚約を、解消していただけませんか」


 声が震えた。俯いたまま、言葉を続ける。


「私のそばにいると、あなたに不運が及びます。昨日の怪我は偶然ではありません。私の……私が、あなたを傷つけたんです。これ以上一緒にいたら、もっとひどいことが起きるかもしれない。だから——」

「リリーネ」


 名前を呼ばれて、顔を上げた。

 クラウス様が、まっすぐこちらを見ていた。あの灰色の目。怒りも、失望もない。顔合わせの日と同じ——逃げ場を与えないような、静かなまなざし。


「君に怪我がないなら、幸運だ」


 ……え? クラウス様の言っていることが、私には理解できなかった。


「昨日、馬車が横転して、君は無傷だった。僕にとってはそれで十分だ」

「で、でもあなたが怪我を——」

「額の傷がなんだ」


 クラウス様が、一歩こちらに近づいてくる。


「君と離れるほうが、よほど僕の不幸だ」


 息が詰まった。この人がそんな言葉を口にするなんて思わなかった。いつも冷静で、感情を見せないこの人が。


「……どうして、そこまで」


 かすれた声で聞いた。わからなかった。私のような不運を連れてくるだけの人間に、なぜこの人がそこまで言うのか。


 クラウス様は少しの間、黙っていた。窓の外に目を向けて、それからゆっくりと口を開いた。


「……僕は生まれた時から幸運だと言われてきた。公爵家の財政が傾きかけていた頃に生まれて、その後持ち直したというだけで、僕のおかげだということになった」


 初めて聞く声だった。平坦なのはいつもと同じ。でもその奥に、押し込められた何かがある。


「剣の稽古で勝てば、才能ではなく運がいいと言われた。交渉がまとまれば、僕の手腕ではなく星の巡りだと言われた。何をしても——」


 一度、言葉を切った。


「何をしても、僕自身の力だとは思ってもらえなかった」


 胸が痛んだ。この人が何にも動じないように見えていたのは、動じることを諦めていたからだ。感情を見せても、喜んでも悔しがっても、全部「幸運の公爵だから」で片付けられる。だから表情を消した。期待することをやめた。


「君が来てから、変わった」


 クラウス様が、窓から私に視線を戻した。


「君のそばでは、予定通りにいかないことが起きる。雨に降られる。手紙は届かない。グラスは倒れる。——そして僕は初めて、自分の力で対処するということを、楽しいと思えた。君が教えてくれたんだ」


 あの手紙の日の、ほんの少し緩んだ口元を思い出した。あれは初めて、努力を努力として発揮できた人の顔だったのだ。


「幸運も不運も関係ない。僕は僕の意志で、君のそばにいたい」


 静かに、でもはっきりと、クラウス様は言った。その力強さに、熱い涙が頬を伝う。


 婚約を解消しに来たのに。この人を守るために離れようとしたのに。この人の言葉が、全部壊していく。私が一晩かけて積み上げた理屈を、たった数言で。

 でもそれは壊されたのではなくて……本当は最初から、私の理屈のほうが間違っていたのだ。


「……私のそばにいたら、不運は続きます」

「知っている」

「花瓶が割れます。雨に降られます。手紙は届かないし、グラスは倒れます」

「それがどうした」

「……もっと、ひどいことが起きるかも、しれません」

「構わない」


 一言一言が、短くて、強くて、揺るぎない。この人らしい。この人らしくて——ずるい。


「……私、」


 喉がしまって苦しい。涙で前が見えない。でも言わなければ。この人がこんなにも真っ直ぐに言ってくれたのだから。私も、私の意志で。


「私のせいで、もし全部うまくいかなくなっても――」


 自信なんてない。不運はなくならない。この先も花瓶は割れるし、雨は降るし、きっともっと大変なことが起きる。

 でも。


「それでも、私は……あなたの隣にいたい。クラウス様が、好きなんです」


 クラウス様が小さく息を吐いて目を細めた。

 あ、と思った。笑っている。口元だけではない。あの灰色の目が、確かに微笑んでいる。


「僕も君が好きだ、リリーネ」


 その手が、そっと私の頬に触れた。涙を拭うでもなく、ただ触れるだけの、不器用で温かい手だった。


***


 ——それから数日後。公爵邸の庭園で、私の足元の石畳がぱかりと外れた。近くにいた使用人はにこにこと何事もなく通り過ぎていく。

 よろめいた私の腕を、隣を歩いていたクラウス様が無言で支えた。そして何事もなかったように歩き出す。その横顔が、ほんの少しだけ楽しそうに見えるのは、きっと気のせいではない。


 私だって彼と一緒なら、不運を乗り越えるのも楽しいなんて思えるのだから。

 

王道甘々恋愛譚、楽しんでいただけたら嬉しいです。

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