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SKYPIECE  作者: 御影のたぬき


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8/8

第8話 ルカの話

 ルカが最初に話してくれたのは、朝食の後だった。

 第5層の朝は音で始まる。太陽は届かない。プラットフォームの裏面が空の代わりだ。ランタンが少し明るくなって、人々が動き始める気配で、朝だとわかる。ルカが用意した食事は、豆と芋と乾燥肉だった。シンプルで、でもちゃんとしていた。

 ジールは出された分を全部食べた。ピカトも食べた。ルカは食べながら、どこかを見ていた。

「食えるか」とルカが言った。

「十分だ」

「遠慮はいらない。ここには食い物がある。不便なものもあるが、食い物は足りている」

 ルカが義手の左腕でカップを持った。手首の関節が、人間のものとは少し違う角度で動く。気にしている様子はない。長い付き合いの証拠だ。

「聞きたいか」とルカが言った。

「聞かせてくれるなら」

「どうせなら聞いた方がいい。お前の役に立つかどうかはわからないが、知っておいた方がいいことはある」

 ルカがカップを置いた。

「20年前、俺は第1層にいた。今のお前と同じ仕事をしていた。スラムランナー。荷物を運んで、伝令をして、スラムレースで走った」

 話し方が静かだ。感情を抑えているわけじゃなく、感情がその話の中に帰っていないように見える。遠い話として、ただ取り出している感じだ。

「第3層のレースで3年間、1度も負けなかった。当時の俺にしてみれば、それが全てだった。上なんか考えたこともなかった。スラムの中で一番速い、それで十分だった」

「なぜ考えなかった」とジールが聞いた。

「家族がいたからだ。母親と、妹が2人。3人を養うのが仕事で、走ることはその手段だった。夢じゃなく、手段だった」

 ジールは黙った。

「ある日、上の人間が来た。礼儀正しかった。脅しでもなく、強引でもなく、丁寧だった。お前の能力は特別だ、上に来れば報酬が出る、IDを出す。そういう提案だった」

「断れたか」

「断れた。でも断らなかった。上に来れば、家族全員のIDが取れると言われたから」

 ルカが少しの間を置いた。

「それだけだった。レースがしたかったわけじゃない。ただ、母親と妹たちを上に連れて行きたかった。それだけで、俺は行くことにした」

 ピカトが静かに聞いている。食べ終わった後も、動かずにいる。

「上に行って、最初の1ヶ月はよかった。飛行レーンを自由に使えた。ちゃんとした食事があった。清潔な部屋があった。家族は下にいたが、IDの手続きが進んでいると言われた」

「本当に進んでいたか」

「後で知ったが、進んでいなかった。人質だった」

 その言葉を、ルカは淡々と言った。

「実験が始まったのは2ヶ月目だ。どこまで加速できるか。どこまでGに耐えられるか。段階的に上げていって、記録して、また上げた。それは順調だった。数値がいいと言われた。俺は褒められることが嬉しかった。下では走ることを褒めてくれる人間は少なかったから」

 ルカが笑った。苦い笑いではなく、本当に可笑しいと思っているような笑い方だった。

「馬鹿だったな、と今は思う。褒められて舞い上がった。数値が出ると嬉しかった。家族のことは、毎週進んでいると言われ続けた」

「いつ気づいた」

「4ヶ月目に限界実験があった。それまでの最大値の1.5倍で加速させる実験だ。手を上げれば止められる、と言われた。手を上げなかった。上げるのが嫌だったから。自分が限界を見せることが、嫌だった」

 ルカが義手の左腕を右手で軽く触った。

「限界は、あった。腕が三箇所折れた。衝撃で筋肉が断裂した。神経に影響が出た。腕は残ったが、動かなくなった」

 部屋が静かになった。

「治療はした。でも、完全には戻らなかった。企業は丁寧だった。謝罪した。補償の話をした。義手を提供してくれた。それから、下に帰る手続きをしてくれた。家族全員のIDは、その条件として渡された。約束は守った」

「守ったのか」ジールが思わず言った。

「そこは守った。それが不思議でもあり、腹立たしくもある。最低限のことを最低限だけ守る。それで、悪いことをした気にならないようにしている人間の顔を、俺は覚えている」

 ルカが立ち上がって、棚の方に歩いた。何かを取るわけでもなく、少し体を動かしたかっただけのようだ。

「俺が話したのは、脅しとしてじゃない。お前がどこに向かうにしても、知っておいた方がいいと思ったからだ。上がどういう場所で、企業がどういうものかを」

「ありがとう」とジールは言った。

「礼はいらない」とルカは言った。「同じことが繰り返されるのが、嫌なだけだ」

 その日の午後、ジールはルカの建物の外に出た。

 第5層を少し歩いた。迷子にならない程度に、ゆっくり歩いた。

 ここには人がいる。たくさんの人間が、太陽の届かない場所で暮らしている。子供が走っていて、老人が座っていて、誰かが笑っている。第1層と変わらない。ただ場所が違う。

 違うのは光だけじゃない、とジールは気づいた。

 第5層の人間は、上を見ない。

 第1層の人間は、どこかで上を見ている。スカイラッシュの日に外に出てきたように、プラットフォームの縁に向けて視線が行く。届かないものへの意識が、第1層にはある。

 第5層にはそれがない。

 諦めたのか、それとも最初から意識していないのか、ジールにはわからなかった。どちらの方が楽なのか、どちらの方がいいのかも、わからなかった。

 足元を見た。スラスターが装着されている。

 走りたい、と思った。

 この狭くて暗い第5層を、全力で走り抜けたい。でも今はそれができない。目立つことができない。スラスターを噴かせば音が出る。

 ジールは普通に歩いた。

 ルカの言葉が頭の中にある。20年分の話が、まだそこにある。

 人質、と言った。家族を人質に取られた。でも約束は守られた。守ったのに、腹立たしい。

 そういうものだ、とジールは思った。正しい悪意より、丁寧な不誠実の方が始末が悪い。

 ピカトは夕方まで、ルカと話し込んでいた。

 2人の会話を端で聞いていると、スラスターの設計の話と機械義手の制御システムの話が交互に来る。ジールにはついていけない内容だが、2人は楽しそうだった。ルカが専門用語を出して、ピカトがさらに専門的な返しをして、ルカが驚く。

「この子、どこで学んだ」とルカがジールに言った。

「独学だ」

「本当に?」

「本当に」

「才能だ。この年齢でここまでできれば、上に行けば——」

 ルカが言いかけて止めた。

「いや、上はやめておこう」

 ピカトが首を横に振った。

「上には行かない。行く必要がない。ジールのスラスターを作る。それが仕事」

 ルカが少し笑った。

「いいコンビだ」と言った。

 夜、端末に通信が入った。

 ピカトが確認してジールに渡した。

 テキストだった。

「どこにいる。企業の捜索チームが動いている。逃げた方がいい」

 送信者の識別コードは登録されていない番号だった。でも、ジールには察しがついた。

「シンカだ」とピカトが言った。「番号は違うが、タイミングと内容がそうだ」

「どうして連絡先を知ってる」

「第1層の情報を持ってる人間に聞いたんだろう。マーカスか、マーケットの誰かか」

 ルカが横から端末を覗いた。

「返信するか」

「どう思う」とジールがルカに聞いた。

「お前を騙す目的で連絡してきたなら、返信しなくても場所は割れる。返信して居場所を教えなければ、損はない」

 ジールは端末を持った。

「逃げた。今は安全な場所にいる。捜索チームについて、詳しく教えてくれ」

 送信して、待った。10分で返信が来た。

「企業の技術部門が動かしている。6人。非公式チームだから、私的な行動に近い。撤退させることはできる。ただし、情報が必要だ。名前と写真だけでいい。あとは俺が動く」

 ジールはピカトに端末を渡した。

「信用するか、しないか」

 ピカトが読んで、考えた。

「信用しないと何が起きるか。捜索チームがいつか第5層に来る。信用すると何が起きるか。もしシンカが企業に情報を渡せば、捜索が精密になる。もし本当に動いてくれれば、捜索チームがいなくなる」

「どっちもリスクがある」

「そうだね」ピカトが端末を返した。「でも、あの人が直接来た理由が、私にはまだ引っかかってる。企業の手として動くなら、もっと別のやり方がある。直接来る必要はなかった」

 ルカが立ち上がって、窓の小さな隙間から外を見た。

「俺には判断できない。でも——上の人間が下に来ることは、普通は起きない。来たのには理由がある。その理由が何かによって、信用できるかが変わる」

 ジールは端末に打った。

「名前はジール。写真は送れない。これで何ができる」

 5分後に返信が来た。

「十分だ。3日待て」

 3日という時間を、ジールはどう使えばいいかわからなかった。

 走れない。目立てない。第5層の中を歩くことはできるが、それはいつもの自分じゃない。

 結局、ルカの話を聞いた。ルカは話し好きではないが、聞けば答えてくれる。20年分の話が、少しずつ出てきた。上にいた頃の話、義手に慣れた話、第5層に来てからの話。

 「ここはいい場所か」とジールが聞いた。

 ルカは少し考えた。

「いい場所かどうかは知らない。でも、見ていない場所だ」

「上から?」

「上からも、外からも。都市管理AIの監視が届かない。企業の目が届かない。だから静かだ。静かなことがいい場所かどうかは、人による」

「ルカにとっては」

「俺には合ってる。もう走れないから、見られなくてもいい。走っていた頃は違ったかもしれない」

 走ることと、見られること。

 その2つが結びついている感覚は、ジールにもある。スラムレースで走る時、観客がいると違う感じがする。速さを誰かに届けている感覚。それが好きなのか嫌いなのか、よくわからないが、あることは確かだ。

 スカイラッシュの空を、何万人もの人間が見る。

 自分がそこに飛び込んだとして。

 ジールはその想像を途中で止めた。まだ何も決まっていない。

 3日目の朝、シンカから連絡が来た。

「捜索チームを引き上げさせた。技術部門には、対象者がアンダートーク外に逃げた可能性が高いと情報を入れた。1週間は動かない」

 3人で確認した。

「信じていいと思う」とルカが言った。「もし嘘なら、今頃ここに来てる。来ていない」

「礼を言うか」とジールが言った。

「言えばいい」とピカトが言った。「ただ、シンカが何かを求めていると思う。対価がある。善意だけじゃない」

「それでも話を聞く分にはいい」

 ジールは端末に打った。

「ありがとう。理由を聞いていいか」

 返信は翌朝だった。

「話したいことがある。会えるか」

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