第6話 降下
シンカがアンダートークに降りることにしたのは、純粋な好奇心ではない。
と言えば嘘になる。
半分は企業の仕事だ。もう半分は、自分の目で確かめたいという気持ちだ。データで見た3.2倍の速度が、本物かどうか。あの日に見た動きが、自分の記憶通りかどうか。
外縁区画から垂直に降りるルートは、プラットフォームの支柱に沿った保守用通路がある。本来は都市のメンテナンス要員が使う通路で、IDと特別許可証が必要だ。シンカはコーディネーター経由で取得した。
降下は夕方に設定した。人の動きが多い時間帯の方が、目立たない。
正式な意味では、シンカはスカイピースの市民だ。アンダートークの中を歩くことは、技術的には禁止されていない。ただ、上の人間がアンダートークに入ることは、現実的にほとんどない。歓迎されない、というより、想定されていない。
保守用通路の終端はプラットフォームの裏面にある。そこからさらに支柱を伝って降りると、アンダートークの第1層に出る。
降りた瞬間、匂いが変わった。
上は無臭だ。人工的に管理された空気を吸っていることを、シンカは当然だと思っていた。下は違う。機械油の臭い、食べ物の臭い、人間の臭い。何百種類もの臭いが混ざって、それが空気になっている。
シンカは立ち止まった。
見上げると、プラットフォームの裏面がある。下から見たら、それが空になる。
上で生まれた人間には理解しにくい感覚だが、シンカには少し、わかる気がした。
第1層の東端から歩き始めた。
スカイラッシュの翌日から警備が増えていることはシンカも知っている。でも今日シンカが来るのは、企業の公式行動ではない。私的な下見だ。警備員には伝えていない。
問題は、あのランナーをどうやって見つけるかだ。
データから絞り込める情報は少ない。検知された時刻と場所から、外縁近くを移動ルートとして使っているランナーだとわかる。スラムレース参加者のデータは公式には存在しないが、マーケットに聞けば情報を持っている人間はいる。
シンカは周囲を観察しながら歩いた。
人々が見てくる。奇異な目ではない。ただ、見慣れない人間を値踏みする目だ。上層の服装をしているが、シンカは意図的に目立たない格好を選んだ。フードを深めにかぶって、スラスターは外している。
マーケットが見えた。非公式の屋台が並んでいる。食料、部品、情報。
シンカは1つの屋台の前で立ち止まった。電子部品を売っている老人の屋台だ。
「何か探してるか」老人が言った。
「情報がある」
「情報は商品だよ、若いの」
「払う」シンカはデバイスを出した。「スラムランナーの話が聞きたい。スカイラッシュの日にレースで1位になった」
老人は少し考えた。
「ジールのことか」
名前を出した。
名前はジール。第1層を拠点とするスラムランナー。荷物の配達と伝令を仕事にしている。相棒がいて、整備士の少女だという。スラムレースには年に数回出て、ほぼ必ず1位になる。
情報の量としては十分だ。
ただ、今どこにいるかは老人も知らなかった。
「夕方になれば外縁近くに来ることがある」老人は言った。「習慣みたいなもんで、あの辺をよく走ってる」
シンカは礼を言って歩き出した。
ジール。18か19歳、と老人は言っていた。スラムランナー。
企業の言う「高G耐性を持つ個体」という言い方が、シンカの中でずっと引っかかっていた。個体、という言葉が。自分もそう呼ばれていた時代がある。
外縁近くに来た時、人の声がした。
配管の上だ。足音がある。速い。
シンカは立ち止まって、音の方向を見た。
廃ビルの上から、人影が飛んだ。フットスラスターを最低限に絞った飛行。着地して、そのまま走る。姿勢が低い。無駄がない。
あの動きだ、とシンカは思った。
あの日に見た動き。
人影は気づいていない。こちらを見ていない。前だけを見て走っている。シンカは動かなかった。追いかけることもしなかった。ただ、走りを見た。
速い。
データの数字が本物だとわかった。見れば、わかる。スラスターの出力があれほど低いのに、あの速度が出る。体の使い方が根本から違う。重力への対処が、シンカが何年もかけて学んだことと全く別のアプローチから出来上がっている。
学んだものじゃなく、持って生まれたものだ。
人影は視界から消えた。
シンカはそこに立ち続けた。
何をすべきかは、来る前からわかっていた。でも、やるべきかどうかは、まだ決まっていなかった。
ジールは外縁近くを短く流して、工房に向かって戻り始めた。
その時、背後に人の気配がした。
追ってくる感じじゃない。ただ、いる。
振り返った。
フードをかぶった人間が立っていた。距離は20メートル。こちらを見ている。
見知らぬ人間だ。ただ、何かが違う。服装だ。目立たない格好をしようとしているが、素材が違う。上層の素材だ。アンダートークには売っていない種類の布が、細部に使われている。
ジールは逃げなかった。逃げる理由が、まだわからなかった。
男が近づいてきた。フードの下の顔が見えた。
ジールは、一瞬で気づいた。
見たことがある顔だ。
上層の中継で。スカイラッシュの映像で。何十回と流れる、あの顔だ。
「シンカ・レイ」
声に出た。計算したわけじゃなく、反射的に出た。
男は止まった。フードの下で、眉が少し動いた。
「知ってるか」
「知らないわけがない」
ジールは動かなかった。逃げるか、立つか、一瞬で判断する。逃げても追いつかれるかもしれない。上のレーサーが本気で追えば、ジールでも逃げ切れる保証はない。
だが、シンカは追ってくる雰囲気がなかった。ただ、立っている。
「俺のことを探してたのか」とジールは言った。
「そうだ」
シンカが正直に言った。
「なんで」
「スカイラッシュの3日前、外縁から君が走るのを見た。AIも記録した。君の速度が、普通じゃないと判断した」
ジールの胸に、いくつかの感情が同時に来た。
「それで」
「企業は君に興味を持った。俺は——」シンカが少し間を置いた。「自分で確認したかった」
「確認できたか」
「できた」
2人の間に沈黙があった。
アンダートークの夕方の音が流れる。機械の音、人の声、配管の振動。
「接触して、どうする気だ」ジールが言った。「上に引っ張るのか。企業の人間実験に使うのか」
シンカは表情を変えなかった。
「企業はそれを求めている。俺は——正直に言う。今は何も言えない」
「なぜ正直に言う」
「嘘をつく理由がない」
ジールはシンカを見た。20歳の、スカイピースのトップレーサー。企業スポンサー付きの、完璧な上層の人間。
嘘をつく理由がない、と言った。
「俺はここを離れない」とジールは言った。「IDもない。上に行く気もない」
「今は」
シンカが言った。
今は。ジールが3日前にピカトから聞いた言葉と同じ言葉が、シンカの口から出た。
「今は、だ」シンカが続けた。「でも、状況は変わる。君が思ってるより早く」
「どういう意味だ」
「企業は君を特定した。名前まではまだかもしれないが、場所はわかっている。このまま放置はしない」
ジールは黙った。
「俺が来たのは、脅しじゃない。情報を持っておいてほしかった。それだけだ」
シンカが背を向けた。来た方向に帰ろうとした。
「なぜ情報をくれる」
ジールが聞いた。
シンカは止まった。振り向かなかった。
「俺も同じように見つかった。何も知らないままに」
それだけ言って、歩き出した。
ジールはその背中が見えなくなるまで、動かなかった。
工房に戻って、全部ピカトに話した。
ピカトはジールが話し終わるまで一度も口を挟まなかった。それから3秒間、黙っていた。
「シンカ・レイが、直接来た」
確認するように言った。
「そうだ」
「企業の公式行動じゃなく」
「そう見えた」
ピカトが立ち上がった。作業台の向こうから、棚の奥の方に手を伸ばした。何かを取り出した。
小さな端末だ。
「第5層への連絡手段。念のため作ってあった」
ピカトが端末をジールに渡した。
「念のために」とジールは繰り返した。
「そう。念のために、ね」
ピカトの目が、真剣を通り越して何か別のものになっていた。
覚悟、だとジールは思った。
「ピカト」
「なに」
「怖いか」
「怖い。それが何か問題でも?」
ジールは首を横に振った。
「俺も怖い」
「だよね」
2人は工房の入り口に並んで座った。アンダートークの夜がまた始まる。いつもと同じ音、いつもと同じ光、いつもと同じ匂い。
でも何かが変わった。
変わり始めた夜だった。




