第5話 記録
都市管理AIが最初に異常を検知したのは、スカイラッシュ当日の午後2時17分32秒だった。
外縁区画の飛行監視センサー群が、プラットフォームの縁から340メートル下方に、想定外の速度ベクトルを持つ熱源を捉えた。識別コード未登録。飛行レーン外。速度:通常スラムランナー推定値の3.2倍。
AIはそれを「要調査」として記録し、上位システムへの報告を保留した。
アンダートーク内部の移動体は、通常は監視対象外だ。IDを持たない人間の動きを全て追跡しようとすれば、演算リソースが足りない。だから基準値を超えたものだけを記録する。す
今回は、基準値の3.2倍だった。
報告が届いたのは、AIではなく、人間だった。
外縁区画の監視を担当する下請けセキュリティ会社の若いオペレーターが、ログを見て首を傾げた。自分の判断ではどうにもならないと思って、直属の上司に投げた。上司は興味を持ったが、自分の権限外だと判断して、企業コンソーシアムの技術部門に転送した。
そこから先は速かった。
シンカ・レイがその報告を受けたのは、スカイラッシュ表彰式の翌日だった。
正確には、シンカに送られてきたわけじゃない。スポンサー企業のコーディネーター経由で「確認したいことがある」という連絡が来て、面談の席で報告書を見せられた。
「外縁区画の下方で、これだけの速度を持つランナーが観測されました」
コーディネーターではなく、今日は技術部門の人間だった。50代で、白衣を着ていない代わりに、白衣の雰囲気を持っている人間だ。
「あなたが外縁の下見をされた時、下層の移動者を確認されたとのことで」
シンカは昨日のことを思い出した。外縁の柵から見下ろした時、スラムランナーが走っていた。高速で、複雑な経路を、迷いなく。
「見た。スラムランナーだった」
「速かったですか」
「速かった」
「どのくらい」
「正確には測れない。ただ、普通じゃなかった」
技術部門の人間が頷いた。手元のデバイスをシンカに向けた。データが表示されている。速度グラフ。測定値。比較値。
「AIの記録では、通常のスラムランナーの3.2倍です。加速パターンも異常で、通常の人間が出せる反応速度を超えています」
シンカはデータを見た。
3.2倍。加速パターンの異常。
「それが、そのランナー固有の能力だとすれば」技術部門の人間は慎重な言い方をした。「高G耐性を持つ個体の可能性があります」
高G耐性。
それがスカイラッシュの本質的なテーマだと、シンカは知っている。レースの裏側。企業が本当に求めているもの。音速飛行に耐えられる人間の発掘。シンカ自身も、高G耐性を持つから今のポジションにいる。でも企業はまだ満足していない。シンカの数値では足りないと、何年か前から感じていた。
「そのランナーを特定したいと思っています」技術部門の人間が言った。「もし可能なら、シンカさんにご協力いただけますか。あなたが実際に目視で確認されているので」
「協力というのは」
「アンダートークへの接触は私たちには難しい。IDのない人間のいる場所に、私たちが入るのはリスクがある。でもあなたは——」
「俺に下に行けと」
シンカは感情を抑えた声で言った。
「お願いします、とは言いにくい立場ですが」
「言えばいい。ただ」シンカは技術部門の人間を見た。「その人間を特定して、それからどうする気だ」
間があった。
「接触します。説明します。協力を求めます」
「強制はしないのか」
「しません。今は」
今は、という部分が引っかかった。
シンカは椅子から立ち上がった。
「考える時間をくれ」
シンカが自分のフラットに戻ったのは夜だった。
スカイピースの高層居住区。一面がガラスになっている部屋で、夜の空中都市が見える。ドローンが飛び交い、ホログラムが光り、人々が飛行レーンを移動している。完璧な未来都市の夜景だ。
シンカはソファに座らずに、窓の前に立った。
真下は見えない。スカイピースはプラットフォームで遮られていて、アンダートークは見えない。ただ、360メートル下に別の世界があることはわかっている。
あのランナーのことを考えた。
3.2倍の速度。加速パターンの異常。
それが本物なら、自分より上の素質を持つ人間が下にいる。ID一枚持っていないだけで、下に留め置かれている。その人間は今何をしているのかと、シンカは思った。スラムを走って、荷物を運んで、自分の能力が何を意味するのかも知らないまま生きているのか。
それでいいと思うかと聞かれれば、シンカには答えがなかった。
自分はそれでよくないと思う立場にない。シンカ自身も、企業に発掘されてトップレーサーになった。発掘される前の自分の人生がどうだったかは、今は思い出したくないことになっている。
アンダートークに行く、ということはどういうことか。
企業のために動く、ということだ。それは今もやっていることで、今更抵抗はない。ただ、それがどういう結末になるかは知っている。
接触する。説明する。協力を求める。
強制はしない。今は。
今は、が引っかかったまま、シンカは夜景を見ていた。
ジールは3日間、大人しくしていた。
ピカトの言いつけ通り、目立つ依頼を断った。第3層の小口の配達を2件こなしただけだ。収入は減ったが、賞金がある。問題ない。
3日目の夕方、ピカトが珍しく機嫌が悪そうだった。
「何かあったか」
「マーケットで聞いた話。気になる話」
ピカトが作業台の前に座った。でも作業はしていない。それは珍しい。
「スカイラッシュの翌日から、外縁区画の警備が増えてる。ドローンが増えた。人間の警備員も増えた。今まで見なかった顔の人間が来てるって話もある」
「増えた理由は」
「わからない。レース後の警備強化、というのが公式の理由らしいけど」
「でも違う」
「たぶん違う」
ジールは考えた。
都市AIが記録したこと。技術部門への報告。そこからどう動くかは、ジールには予測できない。ただ、何かが動いているのは感じる。
「俺が原因だと思うか」
「確定はできない。でも、可能性は高い」
ピカトが顔を上げた。
「逃げ道を考えておきたい。もしここに来られた時の」
「どこに逃げる」
「第5層。最深部。あそこは都市AIの監視が届かない。電波が減衰する構造になってる」
「あそこは危険だ」
「ここより危険か、という話だよ」
ジールは黙った。
第5層。アンダートークの最底部。太陽光が完全に届かない場所。古い住民たちが巣を作っている場所。人口密度は高いが、管理する組織もない。行ったことがあるのは1度だけだ。
「すぐじゃなくていい」ピカトが言った。「でも、準備だけはしておく」
「わかった」
ジールはそれから外に出た。
第1層の東端まで歩いて、いつも見る場所から上を見た。プラットフォームの縁。その向こうの空。
今日はスカイラッシュはない。普通の日だ。飛行レーンをドローンが行き来しているだけの、普通の日。
それでも誰かがいる。
シンカ・レイが、今日も上にいる。
ジールは自分がなぜその名前を思い出すのかがわからなかった。ライバルでも何でもない。別の世界の人間だ。でも、なぜか頭の隅に居座っている。
足元のスラスターに目を落とした。
オーバードライブ機構。使ったことのない、ピカトが2年かけて作ったもの。
いつか使える日が来るかもしれない、とピカトは言った。
来るとしたら、近いかもしれない。
来てほしいような、来てほしくないような。ジールにはまだ、その区別がついていなかった。




