第4話 当日
スカイラッシュの朝は、上層と下層で別の顔を持っていた。
スカイピースでは、開会セレモニーのドローン編隊がプラットフォームの上空を旋回していた。企業スポンサーのホログラム広告が大気圏に貼り付けられたみたいに光り輝き、観客席には何万人もの人間が詰めかけている。レーサーたちはカメラに向かって笑い、企業のロゴを見せ、完璧に世界に向けて飾られている。空中都市が、今日だけは特別なテーマパークになる。
アンダートークでは、人々が外に出ていた。
いつもより早い時間から、第1層の外縁近くに人が集まり始めた。子供を連れた親が、老人が、10代のグループが。誰もが上を見ている。プラットフォームの縁の向こうに、青い空が見える。今日だけはその空に、別の世界の人間が飛ぶ。
ジールはその人波の中にいた。
スラムレースのスタートは午後だ。午前中はスカイラッシュの開会セレモニーがあって、レース自体は昼過ぎに始まる。外縁コース区間はレース後半。ジールのスラムレースと重なる計算だ。マーカスの設計通り。
「人、多いな」
ジールは隣のピカトに言った。
「記録的な人出らしい。外縁通ることを先週発表したから」
ピカトは小さなデバイスを手に持っていた。スカイラッシュの公式中継を受信できるように改造した受信機だ。本来はIDを持つ市民だけがアクセスできる有料中継だが、ピカトはそこに頓着しない。
「シンカ・レイは今年も出てる」
「当然だろ」
「今年は外縁区間が追加されて、風の処理が難しいって専門家が言ってる。シンカは数日前から外縁に来て下見してたって話。入念だね」
ジールはその名前を聞くたびに、昨夜ピカトが言ったことを思い出す。シンカ・レイが、外縁から下を見ていた。ジールが走っていた時間に。
でも、それが何かに繋がることはない。そう思った。
スカイラッシュのレースが始まった。
下から音だけが聞こえた。最初は低いエンジン音。それが急速に高まって、プラットフォームの上空を何かが超高速で通過する轟音に変わった。壁が震えた。配管が共振した。アンダートークの古い建物が、軋んだ。
人々が歓声を上げた。
見えないのに。音しか届かないのに。それでも上を見て、歓声を上げた。
ジールは感情の処理に時間がかかった。何かを感じていることはわかったが、それが何なのかがわからなかった。あの轟音の正体は、時速630キロ超で飛ぶ人間だ。同じ人間が、あの速度で空を飛んでいる。
羨ましい、という感情ではない。
もっと単純な何か。
あそこに行きたい、という感覚。理屈じゃなく、体が求めるみたいな感覚。
「ジール」
ピカトが肘でつついた。
「スラムレース、1時間後だよ。準備して」
ジールは頷いて、人波から離れた。
スラムレースのスタート地点は第1層の東端にある。
参加者は12人。アンダートーク内でそれなりに名前の知られたランナーたちだ。ジールのことは全員が知っている。賞金レースには必ず来て、必ず勝つ。それがこの場での評判だった。
「ジール、今日は本気で行くぞ」
ソウルが声をかけてきた。20代前半の男で、スラスターの改造を自分でやるタイプだ。腕は悪くない。ジールの次に速い。
「いつだって本気だ」
「賞金の使い道は決めてるか」
「決めてる」
「何に使うんだ」
「合金」
「合金? 何それ」
「部品の素材。お前には関係ない」
ソウルが苦笑した。
マーカスがスタートの合図の準備をしている。手製の発光装置で、3色のライトが順番に光る。赤、黄、青。青でスタートだ。
ジールはスラスターの出力確認をした。ピカトがチェック済みだから問題ないはずだが、自分でも触る。スラスターは体の一部だ。他人に任せっぱなしにするものじゃない。ピカトはそれをわかっていて、最終確認はジールにやらせる。
周囲の音が、少しずつ変わってきた。
上から、轟音が近づいてくる。
スカイラッシュが、外縁区間に入ってきた。
ジールは上を見た。プラットフォームの縁の向こう、青い空に、閃光のような何かが通過した。見えた。一瞬だけ見えた。高速で移動する点。人間の形をした点。
歓声が上がった。アンダートークの人々の歓声と、はるか上のスカイピースの歓声が、空気の中で混ざった。
マーカスが赤のライトを点けた。
ジールは前を向いた。
レースが始まった。
最初のターン、7人が密集した。ジールはその密集を外から抜ける道を選んだ。遠回りに見えるが、密集の中に入ると互いのスラスターの気流が干渉する。外を回る方が速い。
2ターン目、配管の下をくぐる区間。昨日確認した通り、高さ1.7メートル。ジールは腰を落とした。スラスターを噴かさずに、体の勢いだけで通り抜ける。横にいたランナーがスラスターを使って引っかかった。ジールは通り抜けた。
3ターン目、廃ビルの壁走り区間。
ここでジールは前に出た。
壁を走る、というのは説明が難しい動作だ。スラスターの側面噴射で体を水平方向に押し付けながら前進する。普通のランナーはここでスラスターに頼る。ジールは足の角度と体重移動で、スラスター補助を最小限にしながらやる。その方が速い。理由は体が知っている。
上から、また轟音が来た。
スカイラッシュの第2ラウンドが外縁区間に入ってきたのだ。今度はさっきより近い感じがした。プラットフォームの縁を、ほぼ真上を通っているはずだ。
その瞬間、ジールの集中が一瞬だけ乱れた。
轟音が体に響いた。高速移動の感覚が、音として届いた。そこに自分がいたら、という想像が、コンマ数秒だけ頭をよぎった。
足がわずかに滑った。
壁から離れて、一瞬落下した。
スラスターを反射的に噴かして、体勢を立て直した。ロスは0.5秒。
「ジール!」
遠くからピカトの声がした。観客の中から見ていたのか。
前を向いて走る。ソウルが並んでいた。仕掛けてくる気だ。コースの後半、廃ビルの屋上区間が来る前のストレートで、ソウルが全開加速してきた。
ジールも加速した。
スラスターの出力を上げる。体が前のめりになる。G。重力が後ろに引く。引かれる。引かれながら、それに逆らって前へ。
普通のランナーはここで限界が来る。心臓が追いつかなくなる。視界が白くなる。
ジールには来ない。
どこまでも加速できる感覚。体が速度を求めている感覚。これが自分のおかしさだ、とジールはわかっていた。普通じゃない。でも止められない。
ソウルを抜いた。
そのまま屋上区間に入って、ゴールまで誰にも追いつかれなかった。
1位でゴールした時、アンダートークの空がまた震えた。
スカイラッシュの最終区間が、外縁を通過した音だ。
2つのレースの轟音が重なって、空気が歪んだみたいに感じた。ジールはゴール地点で上を見た。プラットフォームの縁の向こう、一瞬だけ見えた閃光。シンカ・レイかもしれない。誰かはわからない。ただ、あそこで誰かが飛んでいる。
下から、歓声。上から、歓声。
2つの世界の歓声が、初めて同じ空間に存在した日だった。
表彰と賞金の受け取りが終わった後、ジールはピカトを探した。
見つかった。人波の端で、デバイスを見ている。
「見てたか」
「見てた。0.5秒ロスした」
「わかってる」
「轟音に集中乱された」
「わかってる」
「それで1位だから文句は言わない」
ピカトがデバイスをしまった。
「シンカ・レイ、今年も1位だった」
ジールは頷いた。
「当然だろ」
「外縁区間、最速タイムで通過してた。乱流があったのに」
ジールは何も言わなかった。
「スカイラッシュが終わった後」ピカトが少し間を置いた。「外縁区画を監視していた都市管理AIが、何かを記録したって話がある。マーケットで聞いた」
「何を」
「わからない。でも、外縁区画で異常値が出たとか。飛行レーンの外に、想定外の速度を持つ飛行体が検知されたとか」
ジールは固まった。
「俺じゃない。俺はアンダートークの中を走ってた」
「そう。あなたじゃない。でも、アンダートークの中を走るランナーが、都市管理AIに検知されるほどの速度を出したなら——」
ピカトが真っすぐジールを見た。
「何かが動く前に、帰ろう」
ジールは頷いた。
賑やかな人波の中を、2人は早足で抜けた。
帰り道、ジールはずっと考えていた。
都市管理AIが記録した、想定外の速度を持つ飛行体。それがジールではないとしても、それに近い場所にいたことは確かだ。
シンカ・レイが外縁から下を見ていた。
都市AIが外縁区画で異常値を記録した。
2つのことが、偶然かもしれない。
偶然、であってほしいと思った。
工房のコンテナが見えた時、ピカトが言った。
「しばらく、目立つ依頼は断った方がいい」
「そうしろと言うなら」
「お願いだから、そうして」
お願い、という言葉も、ピカトはあまり使わない。
ジールは頷いた。頷きながら、なぜか胸の中に妙な熱さがあることに気がついた。
怖れではない。
なんだろう、と思った。
何かが始まる感じ、だ。
それは間違っていなかった。




