第3話 スカイラッシュ前夜
シンカ・レイはレースの3日前にスカイピース外縁区画に来た。
下見のためだ。
コース拡張区間の確認はドローン映像でできる。データも十分にある。でも彼は必ず自分の目で見る。ドローンは風の感触を伝えない。データは死角を映さない。コースを走るのは自分の体で、体が感じることは体で確認するしかない。
外縁区画は、スカイピースの中でも特殊なエリアだ。
プラットフォームの縁。ここから先は空だ。眼下に広がるのはアンダートーク。配管と廃ビルと電線が複雑に絡み合う、薄暗い迷宮。スカイピースの住民はここを見ない。見る必要がないから。あるいは、見たくないから。
シンカは柵の近くまで行って、真下を見た。
遠くに、何かが動いた。
人間だった。高速で移動する人間。フットスラスターを使っているが、出力が小さい。なのに速い。配管の上を走り、ビルの壁を蹴り、廃材を足場にして、複雑な立体空間を一切の迷いなく動いている。
スラムランナーだ。
シンカは目を細めた。
速い。普通じゃない速さだ。あのスラスター出力で、あの速度は出ない。なのに出している。体の使い方が根本から違う。重力の使い方、慣性の逃がし方、反応の速さ。全部が、シンカが今まで見たどのランナーとも違う。
人影はすぐに視界から消えた。
シンカはしばらくその場所を見ていた。
何か言いたいことがあるわけじゃない。ただ、印象に残った。
「シンカ選手、下見の方は終わりましたか」
スポンサー企業のコーディネーターが背後から声をかけてきた。
若い男で、いつも情報端末を片手に持っている。コーポレートのロゴが入ったジャケットを着ている。シンカと同年代だが、住んでいる世界が違う感じがする。
「終わった」
「新しいコース区間について、何か懸念点は」
「外縁区画のカーブ、風が複雑になる。プラットフォーム縁のエッジ効果で乱流が出る」
「対策は」
「進入角度を2度変える。自分でやる」
コーディネーターが端末に何かを入力した。
「外縁区画は観客エリアにも近いです。今年は下層まで……アンダートークまで、コースの一部が視認できるということで、話題になっています」
シンカは特に何も言わなかった。
「下層の人間には、今まで縁のなかった大会ですが」コーディネーターが続けた。「企業としては、新しい市場への……」
「下見は終わった」
シンカはそれだけ言って歩き出した。コーディネーターの話には最後まで興味が持てなかった。企業の話はいつでも同じだ。市場、戦略、機会。シンカはレースをする。それだけだ。
ただ。
ふと、さっきの人影のことを思い出した。
あの速さは、上でも通用する。スラスターがまともなら。
スラスターがまともで、IDがあれば。
シンカはその考えを打ち切った。意味のないことを考えても時間の無駄だ。レースまで72時間を切った。集中することがある。
ジールはその夜、コース確認書を受け取った。
スラムレースのコースだ。マーカスから3日前に出す、と言っていた通りの時間に届いた。手書きの地図で、第1層の外縁近くを大きく使うルートが引かれている。
「ここ、外縁区画のすぐ下じゃないか」ジールはピカトに言った。
「そう。マーカスはわかってやってる。スカイラッシュが上を通る時間と、スラムレースの時間を合わせる気だよ。盛り上がるから」
それは確かに盛り上がる。アンダートークの住民が下からスカイラッシュを見上げながら、同時に自分たちのレースを見る。2つの世界が、1つの空間の中に並ぶ。
「難しいコースか」
「下見してくれば」
「この後行く」
「私も行く」
ピカトが立ち上がった。珍しい。ピカトが自分からコース下見についてくることはほとんどない。
「なんで」
「あなたが一人で行ったら、どこかの配管の上でぼーっと上を見上げてるのが目に見える」
「見上げない」
「絶対見上げる」
ジールは何も言えなかった。ピカトはたいてい正しい。
夜のアンダートークを2人で歩いた。
ジールが前を歩き、ピカトがついてくる。ピカトはスラスターを持っていない。必要ないからだ。ジールのいるところにはジールがいる、という単純な計算をしている。何かあれば、ジールがどうにかする。
「第1ターン、ここを左折か」
ジールが地図と現場を照合した。廃ビルの角を曲がって、配管の下をくぐる区間だ。
「配管の高さ、1.7メートルか。腰を落とす必要がある」
「スラスターで浮けばクリアできる」
「燃料がもったいない」
「あなたはケチ」
「節約家だ」
ピカトがふんと言った。
コースを一通り確認して、外縁近くの開けた場所に出た。プラットフォームの真下。ここから仰ぎ見ると、プラットフォームの縁が見える。
来週ここを、シンカたちが飛ぶ。
ジールはやっぱり上を見た。
「見てる」
ピカトが呆れたように言った。
「仕方ないだろ」
「仕方ないとは思う。でも——」
ピカトが珍しく言葉を止めた。何かを選んでいる感じがした。
「シンカ・レイって知ってる?」
知っている。スカイピースの現トップレーサーだ。19か20歳で、企業スポンサー付きで、軍用レベルのスラスターを使う。スラムでも名前は知られている。
「スカイラッシュで3年連続優勝してる」
「そう。あの人、今日、外縁区画にいた」
ジールは振り向いた。
「なんで知ってる」
「マーケットで聞いた。外縁区画の警備員が話してた」
「下見か」
「たぶん。それで——」ピカトがジールをまっすぐ見た。「あの人、外縁から下を見てたって」
沈黙があった。
「あなたが走ってた時間と重なる」
ジールは理解した。ピカトが何を言いたいのかを。
「見られた、かもしれない」
「かもしれない。確認できない。でも——もし見られてたなら、あの人は気づく。あなたの動きがおかしいって」
気づく。
シンカ・レイが。
それが何を意味するのか、ジールにはよくわからなかった。良いことなのか、悪いことなのか。どちらにせよ、今の自分には関係ない。IDを持たない下層の人間が、上の世界のトップレーサーに気づかれたとして、それが何かに繋がることはない。
「関係ない話だ」
「そうだといいね」
ピカトの声に、珍しく感情が混じっていた。心配、だ。
「本当に関係ない」
「うん」
2人は工房に帰った。
ジールは眠れなかった。別に理由はない、と自分に言い聞かせた。ただ眠れなかっただけだ。
スカイラッシュ前日。
アンダートークは普段より賑やかだった。
外縁区画に近い第1層には、人が増えていた。明日のレースを下から見ようという人間と、マーカスのスラムレースを見ようという人間と、単純に祭りの空気を楽しもうという人間。ドリンクを売る屋台が出て、違法改造のモニターを設置して上層のレース中継を流そうとしている業者もいる。
「アンダートークがこれだけ盛り上がるの、久しぶりだな」
ジールはマーカスに言った。前日確認のために第3層に来ていた。
「10年前のスカイラッシュの時もこうだった」マーカスが言った。「あの時はコースが遠くて何も見えなかったけど。今回は見える。外縁通るから」
「見えることで、何か変わるか」
マーカスは少し考えた。
「変わるかどうかはわからない。でも見えることが大事なんだよ。見えないものへの憧れと、見えるものへの羨ましさは違う。見えた方が、感情が大きくなる」
感情が大きくなる。
ジールはそれを頭の中で転がした。
「感情が大きくなって、どうなる」
「さあ。爆発するか、諦めるか、燃えるか。人によって違う」
「マーカスはどうだった」
「俺は——」マーカスが義眼の方を、軽く触った。「燃えた。役に立たなかったけどな」
それ以上は言わなかった。
ジールも聞かなかった。
夜、ピカトがスラスターの最終チェックをしていた。
作業台の前に座って、細かい部品を1つずつ確認していく。ジールは横に座って、それを見ていた。ピカトの手の動きは迷いがない。設計した本人だから当然だが、その確かさを見ていると落ち着く。
「調子は」
「問題ない。ただ——」ピカトが手を止めた。「左スラスターのジャイロ、わずかに偏差が出てる」
「影響は」
「高速旋回の時、0.3度ずれる。レースには影響ない。でも、高出力時には」
「高出力って、オーバードライブの話か」
「そう。オーバードライブを使うなら、今日中に直す必要がある」
ピカトがジールを見た。
「使わないんでしょ」
「使わない」
「なら関係ない。明日のスラムレースには、今の状態で十分」
ピカトは作業を再開した。
ジールはじっとピカトの手を見ていた。
「なあ、ピカト」
「なに」
「お前はなんで、オーバードライブを作った」
間があった。
ピカトは手を止めずに言った。
「使わないために作ったわけじゃない」
「じゃあ」
「いつか使える日が来るかもしれない、と思ったから。あなたの体が、それを必要とする日が来るかもしれないと思ったから」
ジールは黙った。
「今じゃない」ピカトが続けた。「明日でもない。でも、ゼロじゃないから作った」
作業が続く。ツールが小さな音を立てる。コンテナの外で、誰かが笑っている声が聞こえる。
「ありがとう」とジールは言った。
「礼はいらない」とピカトは言った。「勝って来て。3ヶ月分の生活費」
ジールは笑った。
それで十分だった。
スカイラッシュ当日の朝が来た。




