第2話 オーバードライブ
ピカトが最初にジールのスラスターを改造したのは、2年前のことだ。
きっかけは些細なことだった。第3層のスラムレースで、ジールが1位になった。それ自体は珍しくない。ジールはいつも1位になる。ただその日は別だった。コースの後半、急降下からの急加速という区間で、ジールは他のランナーが誰一人やらなかったことをやった。
スラスターを全開にした。
通常、高G旋回の直後に全開加速をすると、普通の人間は意識を失う。心臓が追いつかないからだ。血液が脳から離れて、視界が白くなり、そのまま落ちる。スラムレースでの死亡事故は、たいていそれが原因だ。
ジールは落ちなかった。
そのままゴールした。事もなげな顔で。
ピカトはその日からジールのデータを取り始めた。心拍数、加速耐性、反応速度。医療機器などないから全部手製の測定装置で、精度は怪しいが傾向は読める。3ヶ月分のデータを見て、ピカトは結論を出した。
「あなたの体、設計が違う」
ジールはその言葉をよく覚えている。設計が違う。まるで機械の話みたいだった。でも的確だと思った。自分の体は、最初から何かが違う。
「どう違う」
「心臓の出力が異常に高い。血管の弾性も。高Gでの循環維持能力が通常の人間の2倍以上ある」
「それって」
「音速近くまで加速しても、たぶん意識が保てる。たぶん、ね」
たぶん、の部分を強調した。
それからピカトはオーバードライブ機構の設計を始めた。2年かけて。廃材のドローンから取り出した推進ユニットを5基並列につなぎ、ジール専用のフットスラスターに組み込んだ。瞬間最大推力は既製品の8倍。起動すれば0.3秒でマッハ域に達する。
ただし、使ったことはない。
ピカトが禁止しているから。
翌朝、ジールが目を覚ますと、ピカトはすでに起きていた。
作業台の前に座って、何かの回路図を書いている。コンテナの中は狭い。ジールのベッドとピカトのベッドが向かい合わせにあって、その間に作業台がある。プライバシーという概念は、2人の間にはほぼ存在しない。
「何時だ」
「6時ちょっと前」
「依頼は」
「10時に1件。第2層の薬品配達。あと、新しい依頼が昨夜入ってた」
「どんな」
「スカイピース外縁区画への配達」
ジールは起き上がった。
「外縁?」
「レース当日に外縁エリアに設置する観覧用機材の、事前確認書類。書類だけだから軽い。でも場所が場所だから」
「上に入れない」
「入れない。渡せるのは外縁ゲート前まで。でも報酬はいい」
ピカトが数字を言った。普通の依頼の3倍だった。
「なんで高い」
「検問が増えてるから。外縁区画はレース前後でセキュリティが厳しくなる。リスク料金」
ジールは頷いた。受ける理由しかない。
「わかった。その前に今日の朝飯は」
「昨日の残り」
「ないよりましか」
ピカトは回路図から目を離さずに言った。「コンテナの奥の棚」
10時の依頼を終えて、ジールは外縁区画に向かった。
アンダートークの第1層、最外縁部。ここはアンダートークの中でも特別な場所だ。スカイピースのプラットフォームの縁が真上にあり、上層と下層が最も近い。プラットフォームから鉄骨の支柱が何本も垂直に伸びていて、それがアンダートークの建物と接触するかしないかの距離まで来ている。
仰ぎ見ると、プラットフォームの裏面が見える。巨大なコンクリートの天井。配管やケーブルが無数に走っている。ここに住む人間はそれを「空」だと思って育つ。
検問は書類通りの場所にあった。
警備ドローン3機と、人間の警備員2名。上層の制服を着た、IDを持つ人間たち。ジールを見る目が、一瞬止まった。
下層の人間を見る目だ。
特に悪意があるわけじゃない。ただ、違う種類の生き物を見る目。ジールは慣れていた。慣れることが正しいかどうかは別として、慣れていた。
「配達です。書類1件、外縁管理局宛て」
警備員が書類を確認して、受け取りのサインを返してきた。それだけだった。
帰ろうとして、ジールは足を止めた。
上を見た。プラットフォームの縁、その向こうに、薄く青い空が見える。来週ここを、スカイラッシュのコースが通る。外縁の縁ぎりぎりを、時速700キロのレーサーたちが飛ぶ。
ここから見えるのか。
プラットフォームの縁まで、仰角で見れば、コースの一部が視野に入るかもしれない。計算上は、とピカトが言っていた。
「何か」
警備員の1人が声をかけてきた。
「いや。何でもない」
ジールは歩き出した。
夕方、工房に戻ると珍しい来客があった。
マーカスだ。
アンダートーク第3層の非公式レース、その仕切り役をやっている男だ。50代で、左目が義眼で、首に古い火傷の痕がある。スラムの顔役の1人で、信用はできる。完全には信用できないが、それはここでは当たり前だ。
「ジール。来週、特別レース開く」
マーカスはコンテナの入り口に立ったまま言った。中に入ろうとしないのは、ピカトが入室を許可しないからだ。ピカトは工房への入室に厳しい。盗みの心配だけじゃない。ピカトは自分のテリトリーに他人を入れたくない性格だ。
「スカイラッシュに合わせて」ジールは外に出て言った。「観客目当てか」
「そう。あっちがレースやるならこっちもやる。上のレースが見えない位置でやる。競合させる」
賢い考えだとジールは思った。スカイラッシュの日、アンダートークの住民の気分は荒れる。自分たちに手が届かないものを見せられるから。その気分を、スラムレースにぶつける。
「賞金は?」
「過去最高額にする。スポンサーが4社ついた」
「スポンサー? アンダートークに?」
「下層への物流会社2社と、違法改造部品の業者2社。みんなスカイラッシュに乗っかりたい」
マーカスが笑った。義眼は笑っても動かない。
「出るか」
「いくら」
「1位で今月の生活費が3ヶ月分になる」
ジールは計算した。3ヶ月分。それだけあれば、ピカトのスラスター改造に必要な特殊合金が買える。ずっと探していて、見つからなかったやつが。
「出る」
「決まり。コースの詳細は3日前に出す」
マーカスが去った後、ピカトが入り口から顔を出した。
「聞いてた」
「当然」とピカトは言った。「賞金、合金に使う気でしょ」
「読まれてる」
「あなたは顔に出る。それと——」
ピカトが少し間を置いた。
「スカイラッシュ当日のレースは、観客が多い。上からも下からも、この辺を見てる人間が増える。気をつけて」
「何を」
「あなたが飛ぶのを、おかしいと思う人間が出てくるかもしれない」
おかしい。
その言葉が、ジールの胸に引っかかった。
「俺が速いのは昔からだ」
「速いのとおかしいのは違う。あなたの速さは——普通じゃない。ちゃんとわかってる人間が見たら、疑問を持つ」
ピカトの目が真剣だった。昨夜と同じ、めったに見せない真剣さだ。
「誰かに目をつけられたくない。上にも、下にも」
上にも、という部分が引っかかった。
「上って、誰が見てる」
「スカイラッシュの関係者が外縁区画に入ってくる。企業の人間も来る。もしかしたら、レーサーも」
ジールは空を見た。プラットフォームの向こう。ガラスとドローンと完璧な未来。
「わかった。気をつける」
「気をつけるだけじゃ足りないかもしれないけど」
ピカトは中に戻った。
ジールは少しの間、外に立っていた。
来週、スカイラッシュがある。来週、スラムレースがある。2つの世界が、一瞬だけ同じ空の下に重なる。
それで何かが変わるとは思っていなかった。
思っていなかったが。
その夜、ジールは夢を見た。
速度の夢だ。
限界のない加速。地面も天井もない空間を、どこまでも前へ。スラスターの音が消えて、風の音さえ消えて、ただ速度だけが残る。体が空気になる感覚。重力が意味を失う感覚。
目が覚めた時、体に汗をかいていた。
コンテナの薄い壁越しに、アンダートークの夜の音が聞こえる。機械の唸りと、遠くの怒鳴り声と、配管を流れる液体の音。
ジールはそっと右足のスラスターを見た。暗がりの中で、機材棚の上に置かれたそれは、ただの道具に見える。
ただの道具だ。ジールはそう思った。
来週まで、そう思い続けるつもりだった。




