第1話 スラムランナー
地面など、最初から存在しない。
ジールはそう思いながら走っていた。正確には走るというより、流れていた。廃ビルの外壁を蹴って、錆びた配管を足場に、隣のビルの窓枠へ。視界の端に絡み合う電線と、その隙間から滲む灰色の空。太陽はスカイピースのプラットフォームに飲み込まれて、ここには届かない。昼も夜も、この場所はいつだって薄暗い。
フットスラスターの出力は最低限に絞っている。燃料は高い。音がする。音がすれば、見つかる。
「ジール、西側迂回して。検問出てる」
耳のイヤピースからピカトの声が飛んできた。17歳の声にしては落ち着いている。いや、ピカトはいつでも落ち着いている。パニックになるのがジールの役割で、冷静でいるのがピカトの仕事だ。2人でちょうど1人前になる。そういう組み合わせだった。
「どの検問」
「スタック通りの北端。警備ドローン2機」
「通れるルートは」
「廃工場抜けて、東の配管エリア経由。3分ロスする」
「依頼主は待てるか」
「さあ。謝るのはあなたの仕事じゃない」
ジールは舌打ちして方向を変えた。
アンダートークは迷宮だ。設計図など存在しない。何十年もかけて廃材と意地だけで積み上げられた都市の底。ビルの上にビルが乗り、配管の上に配管が這い、どこかで誰かが何かを増築し続けている。太陽の光はスカイピースのプラットフォームに遮られ、昼でも薄暗い。代わりに光るのは違法改造の電飾看板と、上層都市から流れ落ちる廃液の蛍光色だ。
ここで生まれて、ここで育った。
だからジールにはわかる。どこに足を置けば次の足場がある。どの配管が体重を受け止めて、どれが抜ける。どこに検問が立ちやすく、どこに逃げ道がある。地図は頭の中にある。更新され続ける、生きた地図が。
廃工場の屋根を駆け抜ける。ここはかつて何かを作っていた場所だ。何を作っていたのかは誰も知らない。機械の残骸が廃墟の中に散乱して、それがまた別の何かの部品に再利用されて、今は第3層の違法マーケットで売られている。アンダートークではあらゆるものが再利用される。廃棄物も、時間も、人生も。
スラスターを短く噴かして3メートルのギャップを飛んだ。着地。衝撃を膝で逃がして、そのまま前転せずに走る。余計な動作は速度を殺す。
「東配管エリア、今どこ」
「D区に入ったとこ」
「あと2分で届けられる。依頼主に連絡して」
「もう入れてある。ついでに追加料金も」
「追加料金?」
「検問迂回は特別対応料金。うちの規定」
そんな規定、今作っただろ、とジールは思ったが黙った。正しいのはピカトだ。アンダートークで正しいのはいつもピカトで、ジールは走ることしか取り柄がない。
配管エリアは文字通り配管の森だ。直径1メートルを超える太い幹線管が何本も並走して、その間を細い枝管が縫う。全部が何かを運んでいる。スカイピースの廃水か、廃熱か、廃棄物か。ここに住む人間はその廃棄物で生きている。それをおかしいと思う感覚は、ジールにはもうない。生まれた時からそうだったから。
スラスターなしで、配管の上を走った。
道具に頼り切ると、道具が使えない時に死ぬ。足の裏の感覚で配管の振動を読む。錆の浮き方で強度を判断する。呼吸は浅く、目線は3歩先。スラムランナーの基本だ。誰かに教わったわけじゃない。体が覚えた。
目的地は第2層の商業区画。依頼の荷物は医薬品だ。上層からこっそり横流しされた本物の薬で、下層では10倍の値段がつく。それを運ぶのがジールの仕事だ。危険物でも、違法物でもない。ただ、貧しい人間には届かないはずのものを、届く場所まで運ぶ。
それでいいと思っている。いいと思うしかない。
商業区画の受け渡し場所は、第2層の東端にある修理屋の裏口だった。
建物の外壁に古い広告パネルが貼り付けられていて、端が剥がれて丸まっている。一度も更新されていないから、広告の中の女性が宣伝しているのは10年前に廃盤になった飲み物だ。下層では何もかもが古い。情報も、機械も、建物も、夢も。
「遅い」
裏口で待っていたのは老人だった。70代か、あるいはもっと上か。背が低く、目だけが鋭い。医療用の簡易点滴スタンドを片手で握っていた。
「検問があった」とジールは言った。
「知ってる。だから遅いと言ってる」
老人は荷物を受け取り、中身を確認した。3秒で終わった。
「全部ある。追加料金は払う」
「連絡は受けてます」
「君は毎回、時間通りに来るな」
老人が言った。褒めているのか確認しているのか、判然としない言い方だった。
「検問があっても、雨でも」老人は続けた。「なぜだ」
「仕事だから」
シンプルな答えだ。他に言いようがない。ジールにとってそれは仕事で、仕事である以上は終わらせる。感動的な理由など何もない。ただ走って、届けて、金をもらう。
「君にIDがあれば」老人はしみじみと言った。「上でレーサーになれる」
「IDはないです」
「わかってる。それが惜しいと言っている」
「ありがとうございます」
ジールはそれだけ言って裏口から離れた。
惜しい、か。
言葉として受け取ったが、感情はほとんど動かなかった。IDがなければ上には行けない。上に行けなければレースには出られない。それはジールが生まれる前から決まっていたことで、今更悔しがっても仕方がない。そういうものだと思ってきた。そう思い続けてきた。
スラスターを起動して、来た道を戻り始める。
ピカトの工房は第1層と第2層のちょうど境目にある。
正確には建物でもなく、巨大な廃コンテナを3つ積み上げて内装を改造したものだ。電力は上の配管から違法タップしていて、水は雨水と廃水の再生利用。条件だけ聞けば最悪の住環境だが、ピカトは「機能してれば十分」という人間なので気にしていない。
工房に戻ると、ピカトはジールのフットスラスターを分解していた。作業台の上に部品が整然と並んでいる。数十個のパーツが、まるで解剖図のように配置されている。
「ただいま」
「おかえり。右スラスターのノズル、摩耗してた」
挨拶に0.5秒も使わずに本題に入る。それがピカトだ。
「どのくらい」
「あと20回使ったら詰まる。交換した」
「どこから取った」
「第3層の廃棄ドローンから。適合する合金だった」
ピカトは作業台から振り向かずに言った。小柄で、髪が短い。眼鏡はかけていないが、作業時だけ拡大鏡のゴーグルをつけている。今もゴーグルをしたまま振り向いたので、目だけが2倍に大きく見えた。
「今日の依頼、どうだった」
「検問で3分ロスした。荷物は届けた」
「お金は受け取った。あと、今後のルート修正が必要かも」
「スタック通りの北端、頻繁に検問立つようになった」
ピカトはそれをどこかに記録した。おそらく頭の中に。ピカトの頭はデータベースだ。アンダートーク中の検問パターン、廃材の相場、機器の部品互換性。全部入っている。
「それと」ピカトが言った。「スカイラッシュのコース発表、見た?」
「さっき聞いた。外縁まで拡張されるって」
「アンダートークの真上を通る」
ジールはスラスターを外して作業台の空いているスペースに置いた。
「でも、それがうちに何か関係ある?」
「ない。ないけど」
ピカトが珍しく言葉を区切った。
「コース外縁って、第1層の直上だよ。かなり近い。観客も来るかもしれない」
「スラムに来る観客なんていない」
「外縁の崖下から見上げれば、コースが見える。計算上は」
ジールは考えた。スカイピースの縁から、アンダートークの真上を通るコース。視線を上げれば、高度数百メートルを時速700キロで飛ぶレーサーたちが見える。
自分には一生関係ない場所を、自分の頭上を、別の世界の人間が飛ぶ。
「見たいか?」とピカトが聞いた。
「別に」
それは嘘だった。でもピカトはそれ以上追わなかった。
夜になると、アンダートークは少しだけ賑やかになる。
非公式マーケットが本格稼働して、さまざまな出所不明の商品が並ぶ。上層から流れてきた食料、解体されたドローンの部品、出所を問わない薬品、問うべきではない情報。ジールは夕飯を買いながら、ぼんやりとその光景を見た。
いつもと同じ夜。いつもと同じ人たち。
ただ1つ違ったのは、あちこちで同じ話題が飛び交っていたことだ。
「スカイラッシュのコース、今年は外縁通るんだろ」
「見えるぞ、下から。真上だ」
「上の連中が飛ぶの、初めて見られる」
ジールは揚げたイモをかじりながら歩いた。
それが何だ、と思う。見えたとして、それが何だ。レースに出られるわけじゃない。上に行けるわけじゃない。眺めるだけだ。檻の中から外を見るような話だ。
でも、なぜか足が止まった。
立ち止まって、上を見た。配管と電線の網。その向こうのプラットフォーム。さらにその上の、ガラスとドローンと空中公園の都市。
スカイピース。
スカイラッシュ。
時速700キロ。
ジールは自分の足元を見た。フットスラスター。ピカトが丁寧に整備した、オーバードライブ機構つきのカスタム品。普通のスラスターとは違う。ピカトが2年かけて設計して、廃材で作り上げた、世界に1つしかない推進装置。
使ったことはない。オーバードライブは。
ピカトが禁止しているから。「死ぬから」と、ピカトは一言で言った。
ジールは揚げイモの最後の1切れを口に放り込んで、歩き始めた。
スカイラッシュは来週だ。自分には関係ない。関係ないに決まっている。
それでも、頭の中に数字が浮かんでいた。
時速700キロ。
ジールは音速近くでも耐えられる。そう気づいたのは13歳の時だ。スラムレースで誰よりも速く飛んで、誰よりも高いGに耐えて、それでも平気だった。意識が飛ばなかった。理由はわからない。ただそういう体だった。
それが何の意味を持つのか、今まで考えたことはなかった。
アンダートークでは、その能力に何の価値もないから。
工房に戻ると、ピカトはまだ作業していた。
「遅い」
「マーケット寄った。ピカトの分も買ってきた」
包みを差し出す。ピカトは受け取って中を見た。
「これ、私が好きなやつ」
「知ってる」
2人でコンテナの入り口に座って、夕飯を食べた。アンダートークの夜はうるさい。どこかで機械が動いていて、どこかで誰かが言い争っていて、どこかで子供が泣いている。それがここの夜の音だ。
「ピカト」
「なに」
「オーバードライブ、一度だけ試してみたいんだが」
間が空いた。
「だめ」
即答だった。
「なんで」
「死ぬから」
「俺の体は普通じゃないって言ってるだろ」
「普通じゃないのは知ってる。でも普通じゃないからって無敵じゃない。マッハ域の衝撃波は体の外側から来る。G耐性があっても意味ない」
ピカトは食べながら言った。感情の起伏がない。データを読み上げるみたいな言い方だ。でもその目には、何かがある。
「スカイラッシュのこと考えてる?」
「違う」
「嘘つき」
ジールは黙った。
「来週、コースが外縁通る。あなたは今夜からそのことを考えてた。私にはわかる」
ピカトは食べ終わった包み紙を丁寧に折りたたんだ。
「やめてほしい。真剣に」
真剣に、という言葉を、ピカトはほとんど使わない。使わないから、使った時の重さが違う。
「わかった」とジールは言った。
「本当に?」
「本当に」
嘘ではなかった。諦めたわけでもなかった。ただ今夜は、それ以上考えることをやめた。
配管の隙間から、小さな星が見えた。この場所から見える星は、いつも少ない。でもその少ない星が、やけに明るかった。




