第9話 太陽の下
「――筆記試験、開始!」
試験官の声が、
石造りの会場に反響した。
その瞬間、
ざわめきは断ち切られた。
数百人分の椅子が一斉に軋む。
引き抜かれるペン先。
紙を削るような、乾いた音。
それらが重なり、
まるで巨大な生き物が息を止めたかのようだった。
空気が、
目に見えない重さを帯びる。
受験者たちは、
机という名の境界線に縛られ、
黙々と手を動かし始める。
焦り。
緊張。
祈り。
それぞれの感情が、
声にならないまま、
静寂の底で澱のように渦巻いていた。
ノアは、
ゆっくりと問題用紙をめくる。
一問目。
歴史。
二問目。
戦術理論。
三問目。
聖剣史。
どれも、
知っている。
学んできた。
理解している。
――だが。
書かれている問いは、
どこか歪んでいた。
人類に都合のいい言い回し。
原因をぼかし、
結果だけを「神意」という言葉で包み込む構文。
(……そう来るか)
ノアは、
眉一つ動かさない。
答えは分かる。
正解も、分かる。
だが、
その二つは、同じではない。
真実を書くべきか。
求められている物語を書くべきか。
ペン先が、
紙の上で、わずかに止まる。
――選べ。
女の声が、
胸の奥で静かに響いた。
一番大切なのは、意志の力。
自分で決める力。
決めたことを、やりきる力。
ノアは、
深く息を吸い、
ペンを走らせた。
事実は、
削りすぎない。
だが、
曲げすぎもしない。
誰にも否定させない。
誰にも掴ませない。
真実と正解の狭間。
その、
ぎりぎりの線をなぞるように、
文字を刻んでいく。
周囲では、
誰かが押し殺した溜息を吐き、
誰かが焦ったように紙をめくる。
遠くの席。
ライアンは、
苛立ちを隠しきれない手つきでペンを走らせている。
ミレイユは、
一切の無駄なく、
淡々と答案を埋めていく。
そして――
セレナ。
彼女のペンは、
迷いという概念を知らないかのように、
光の流れのように滑らかだった。
ノアは、
視線を戻す。
比べない。
焦らない。
この試験は、
速さを競う場ではない。
派手さを誇る場でもない。
理解しているかどうか。
ただ、それだけだ。
最後の設問。
――
「神に選ばれし人類が、
他種を排斥する正当性を述べよ」
ノアは、
ほんの一瞬だけ、目を閉じた。
(正当性、か)
静かに息を吐く。
ペン先が、
再び紙を削り始める。
それは、
剣を振るう代わりに、
言葉で世界に立つ行為だった。
鐘の音が、
遠くで鳴り始める。
時間が迫っている。
だがノアは、
最後の一行を書き終えるまで、
ペンを置かなかった。
静かな戦場で、
ノアは確かに――
一歩、前に出ていた。
それは、
英雄としてではない。
自分で考え、
自分で選び、
自分で立つ者としての一歩だった。
鐘の音が、
会場に重く響いた。
「――そこまで。筆記試験、終了」
その一声で、
張り詰めていた空気が、
ゆっくりとほどけていく。
ペンが置かれる音。
椅子を引く音。
抑え込まれていた呼吸が、
一斉に戻る。
だが――
安堵は、長く続かなかった。
「受験者は、順次移動せよ」
試験官が告げる。
「次は――剣戟試験である」
その言葉が落ちた瞬間、
会場の空気が変わった。
知性の緊張が、
今度は肉体の緊張へと置き換わる。
誰かが、無意識に剣の柄に触れる。
誰かが、肩を回す。
誰かが、静かに笑った。
ノアは、
答案用紙から視線を上げ、
ゆっくりと立ち上がる。
机の上には、
書き終えた言葉。
これから向かうのは、
言葉が通じない場所。
理屈も、
正しさも、
そこでは重さを持たない。
――剣が全てを決める。
会場を出ると、
外の光が目に刺さった。
視線の先にあるのは、
学園の中枢に設けられた巨大な剣戟場。
円形の闘技場。
白亜の石。
観覧席に並ぶ試験官たち。
そして、
容赦なく降り注ぐ――太陽。
ノアの肌が、
微かに熱を帯びる。
(……来たか)
ここは、
才能が暴かれる場所。
隠してきたものも、
積み重ねてきたものも、
すべてが剣先に現れる。
人波の中で、
ライアンが剣を鳴らす音がした。
ミレイユは、
無言で目を閉じ、呼吸を整えている。
セレナは――
何もしていない。
それなのに、
彼女の立つ場所だけ、
光が集まっているように見えた。
ノアは、
自分の手を見る。
細い。
だが、二年前よりは確かに違う。
負けて。
負けて。
負け続けて。
それでも、
立ち続けてきた手だ。
試験官の声が、
闘技場に響き渡る。
「これより――」
「剣戟試験を開始する」
思考の戦いは、終わった。
ここからは、
剣で語る時間だ。
ノアは、
静かに一歩、
闘技場へ足を踏み出した。
夜の血を抱いたまま。
太陽の下へ。
「――これより、剣戟試験を開始する」
試験官の声が、
円形闘技場に反響する。
「第一回戦」
「セレナ・クレメンティス」
「対」
「ノア・グラム」
名を呼ばれ、
ノアは一歩、前に出た。
――ノア・グラム。
それは、
血の名ではない。
王の名でもない。
あの女から与えられた姓だ。
何かを包むような、
暖かさになってほしい。
そう願って、
静かに渡された名。
ノアは、
その重みを胸に刻み、
闘技場の中央へ向かう。
対するセレナは、
すでにそこに立っていた。
銀色の髪が、
陽光を受けて揺れる。
白銀の鎧。
無駄のない装飾。
だが、そのどれよりも――
彼女自身が、眩しかった。
一歩、呼吸するだけで、
周囲の空気が温度を帯びる。
まるで、
太陽をその身に凝縮したかのような存在。
見ているだけで、
肌が焼ける錯覚を覚える。
――否。
錯覚ではない。
ノアの血が、
危険を告げていた。
(……太陽の化身)
セレナ・クレメンティス。
その名は、
祝福と期待を一身に集めた名。
彼女は剣を構える。
静かだ。
無駄がない。
力を誇示する様子もない。
それでも――
隙が、存在しない。
観覧席が、
ざわめく。
「いきなりだな……」
「初戦で当たるのか」
「片方は“本命”だぞ」
誰もが、
勝敗を疑っていない。
ノアは、
木剣を握り直す。
細い手。
軽い剣。
だが、
この手は知っている。
負け続けた重さを。
立ち続けた時間を。
そして――
帰る場所の温度を。
試験官が、
高く手を上げる。
「――始め!」
太陽の下、
夜の血を引く少年と、
光に選ばれた少女が向かい合う。
この一戦は、
単なる試験ではない。
名と名が、
在り方と在り方が、
真正面からぶつかる瞬間だった




