第8話 門の向こう側
「いって」
女は、ノアの背中を軽く叩いた。
「らっしゃい」
ぱん、と乾いた音が鳴る。
それは見送りの音で、
叱咤でも、祝福でもない。
ただの――合図だった。
ノアは一歩、外へ出てから、
ふと足を止める。
振り返る。
「……結局さ」
少しだけ、声が揺れた。
「僕、王立学園に行くけど」
「それで、いいの?」
問いというより、
確認だった。
女は、腕を組み、
いつもの場所に立っている。
「あんたが決めたんだろ」
即答だった。
「だったら、勝手にしなさい」
一拍置いて、
女は少しだけ目を細める。
「あんたは、あんた」
「うちの息子とは、違うんだから」
比べない。
期待しない。
縛らない。
それが、この人のやり方だった。
「……そう」
ノアは、小さく頷く。
「じゃあ」
「行ってきます」
その言葉は、
もう迷っていなかった。
女は、ふっと息を吐き、
少しだけ声を柔らかくする。
「気をつけて」
「帰って来なさい」
“無事で”とも、
“必ず”とも言わない。
帰る場所がある、
ただそれだけを置いていく言い方。
ノアは、もう振り返らなかった。
背中に、
もう一度叩かれることはない。
だが――
あの音は、
確かに残っている。
ぱん、という乾いた音が、
胸の奥で、
静かに鳴り続けていた。
それは、
送り出す音だった。
そして、
帰りを待つ音だった。
ノアは歩き出す。
王立学園へ。
選ばれるためではなく、
自分で決めた道を、やりきるために。
学園は、門からして豪華だった。
否――
豪華という言葉では足りない。
白と金を基調とした巨大な正門は、
城塞のそれに近い厚みを持ち、
門扉一枚一枚が、要塞の壁のようにそびえ立っている。
装飾は多い。
だが、過剰ではない。
刻まれているのは、
剣、書、聖印、そして枝を広げる一本の樹。
――ユグドラシル。
門の向こう、
学園のさらに奥には、
その本体がそびえていた。
近い。
あまりにも、近い。
見上げようとすると、
首が痛くなるほどだ。
幹は雲を突き抜け、
枝は空を裂き、
葉は光を反射して淡く輝いている。
まるで、
世界そのものが学園を見下ろしているようだった。
学園の外壁は、
厚い白亜の石で築かれている。
長い年月を経ているはずなのに、
欠けも、歪みもない。
それだけ多くの手が入り、
それだけの価値が注ぎ込まれてきた証。
壁沿いには塔が立ち、
それぞれが役割を持つ。
剣術塔。
学術棟。
聖剣管理区画。
どれもが独立していながら、
中央へ向かって配置されている。
中心には、
ユグドラシルの根を囲むように作られた
中枢区画がある。
この学園は、
教育施設ではない。
――人類の未来を製造する場所だ。
門の前には、
すでに多くの少年少女が集まっていた。
良質な装備。
磨かれた剣。
自信に満ちた顔。
中には、
家名を背負っている者もいる。
彼らは皆、
ここに立てていること自体を、
誇りに思っている。
ノアは、その端に立ち、
黙って学園を見上げた。
自分は、
選ばれたわけじゃない。
祝福されたわけでもない。
ただ――
ここへ来ると、
自分で決めただけだ。
ユグドラシルの葉が、
風に揺れる。
その音は、
拍手のようにも、
嘲笑のようにも聞こえた。
ノアは、
小さく息を吐く。
この場所は、
英雄を育てる。
同時に、
英雄になれない者を、はっきりと選別する場所でもある。
その中へ、
夜の王の血を引く少年が、
今、足を踏み入れようとしていた。
門は、
静かに開かれ始める。
まるで――
世界が、ノアを試すかのように
入試会場は、人でごった返していた。
鎧の擦れる音。
剣を背負った者同士の視線。
緊張と自信が入り混じった、重たい空気。
ここに集まっているだけで、
地方では“選ばれし者”と呼ばれる連中だ。
だが、この場所では違う。
全員が、選別される側。
ノアは、人波の端に立ち、
静かに周囲を見渡していた。
――いた。
人混みの中でも、
見慣れた気配はすぐに分かる。
ライアン。
相変わらず、
苛立ちを隠そうともせず腕を組み、
周囲を睨むように立っている。
その傍らに、
見知らぬ女が二人いた。
「セレナ」
「……あんまり目立つな」
「目線が邪魔だ」
ライアンの低い声。
それに、即座に返す声がある。
「セレナは目立ちたくて目立ってるんじゃないでしょ」
「アンタが見てるだけじゃない?」
軽い口調。
だが、棘がある。
「ミレイユ」
「それは黙っとけ」
「はいはい」
肩をすくめたのが、
ミレイユと呼ばれた女だった。
ライアンと年は近い。
体格も似ている。
鋭い目つきと、
無駄のない立ち姿。
剣士だと、一目で分かる。
「……二人とも」
「静かに」
そう言って、
会話を止めた声があった。
その瞬間、
ノアは――無意識に息を止めた。
セレナ。
そこに立っているだけなのに、
空気が変わる。
銀色の髪。
白に近い肌。
だが、それ以上に異質なのは――
その“存在感”。
まるで、
太陽そのものを、
その身に凝縮したようだった。
視線を向けるだけで、
肌が焼けるような錯覚を覚える。
暖かいのに、
近づけば危険だと本能が告げる。
――ああ。
ノアは、直感的に理解した。
(太陽の剣に、最も近い)
(……太陽の化身)
セレナは、
ユグドラシルの祝福を、
疑いようもなく受けている存在。
選ばれた者。
人類の希望。
彼女の周囲だけ、
光が違って見える。
ノアは、そっと視線を逸らした。
長く見ていられない。
焼かれる。
物理的な意味ではなく、
存在そのものを否定される感覚。
人波のざわめきが、
再び耳に戻ってくる。
ここには、
剣の才能がある者も、
血筋に恵まれた者も、
努力を積み重ねた者もいる。
だが――
太陽は、一つでいい。
そう言わんばかりに、
セレナは立っていた。
ノアは、拳を軽く握る。
ここは、
英雄が生まれる場所。
同時に、
夜が最も深くなる場所でもある。
入試の鐘が、
遠くで鳴り始めた。
物語は、
もう後戻りできない地点に来ていた。




