第7話 刃になるまで
「……何、そんなに傷だらけで」
戸を開けた瞬間、
女はそう言った。
声は低く、驚きよりも先に、
心配が滲んでいる。
「ただいま」
ノアは靴を脱ぎながら答える。
足取りは重く、
服の内側で、打撲が脈打っていた。
「“ただいま”じゃないよ」
女は一歩近づき、
ノアの顔を覗き込む。
「どうしたの?」
少しだけ、眉が寄る。
「……ちょっと、やらかした」
それ以上は言わない。
言えなかった。
女は、深く追及しなかった。
「そう」
短くそう言って、
火にかけていた鍋を弱める。
「それで」
「明日も、行くの?」
その問いは、
責めでも、詰問でもない。
選択を返す問いだった。
ノアは、少し黙った。
傷が痛む。
体も、心も、重い。
「……どうだろう」
本音だった。
女は、その答えを否定しない。
しばらくして、
ぽつりと口を開いた。
「ねぇ」
背中を向けたまま、
ゆっくりと。
「一番大切なのはね」
「力でも、才能でもないよ」
ノアは、黙って聞いている。
「意志の力」
言葉は、穏やかだが、
芯がある。
「自分で決める力」
「自分で決めたことを――」
女は、振り返る。
皺だらけの顔で、
まっすぐノアを見る。
「やりきる力」
それだけ言って、
それ以上、何も付け足さなかった。
励ましも、命令もない。
行けとも、行くなとも言わない。
ただ、
決めるのは自分だと、
そう伝えただけ。
ノアは、視線を落とす。
拳を、ぎゅっと握る。
――自分で、決める。
夜の王としてか。
少年としてか。
答えは、まだ出ない。
だが、
この言葉は、
確かに胸に残った。
暖炉の火が、
ぱちりと音を立てた。
その音が、
今のノアには、
やけに大きく聞こえた。
「……なんで俺が」
「こいつ前に座って、教わらなきゃなんねぇんだよ」
ライアンは、椅子を乱暴に引き、
机に肘をついて大きく愚痴をこぼした。
声は大きい。
わざとだ。
「おかしいだろ」
「剣なら俺の方が上だろうが」
ノアは、気にする様子もなく、
開いた本に視線を落としたまま言う。
「そこ、間違ってるよ」
淡々とした声。
感情も、皮肉もない。
ただの事実。
ライアンの眉がぴくりと動く。
「……あ?」
「今の答え」
「年代がずれてる」
ノアは、ページをめくる。
「人類がエルフの森に“火”を放ったのは」
「神聖暦二三七年じゃない」
指で行をなぞりながら、続ける。
「正確には」
「神聖暦二三六年の冬至明け」
「翌年にかけて行われた焼討ちだ」
静かな声が、
容赦なく訂正する。
「……てめぇ」
ライアンは舌打ちをする。
「分かってるっつうの」
「細けぇんだよ」
「細かくないよ」
ノアは即座に返す。
「その違いで」
「人類側の“正当防衛”って主張が崩れる」
顔も上げない。
ただ、言葉を積む。
「先に矢を放ったのは人類」
「エルフは、交渉に来ていただけ」
一拍。
「だから、今も森は立ち入り禁止区域になってる」
ライアンは、言葉に詰まった。
机を叩きたい衝動を、
歯を食いしばって堪える。
「……チッ」
分からないわけじゃない。
だが、説明できない。
それが、一番腹立たしかった。
「剣なら勝てる」
「でも、ここじゃ勝てねぇ」
その事実が、
ライアンのプライドを静かに削っていく。
ノアは、顔を上げないまま言う。
「分かってる、じゃ足りない」
「説明できなきゃ、評価されない」
それは、
学園のための言葉であり、
同時に――
ライアン自身への宣告だった。
部屋に、沈黙が落ちる。
ノアは、淡々と次の問題へ進む。
そこからの日々は、
ほとんどが――敗北だった。
負けて。
負けて。
負けて。
剣を握るたび、
地面を見ることになる。
構えを工夫しても、
足運びを変えても、
体格の差は埋まらない。
負けて。
負けて。
息が上がり、
腕が震え、
視界が狭くなる。
「遅ぇ」
「甘ぇ」
「そこだろ」
ライアンの声が、
容赦なく降ってくる。
負けて。
それでも、
ノアは剣を置かなかった。
次も、
また次も。
――負けて。
だがある日、
ほんの一瞬だけ、
違う結果が出た。
勝った。
理由は単純だった。
力でも、速さでもない。
ライアンの踏み込みが、
“いつもと同じ”だったから。
ノアは、
それを知っていた。
偶然の勝利。
再現性はない。
次の稽古で、
すぐに叩き潰される。
――負けて。
――負けて。
――負けて。
だが、
その一勝は、消えなかった。
身体にではない。
記憶に残った。
また、勝った。
今度は、
間合いだった。
ほんの半歩。
剣が届くか、届かないか。
その差を、
ノアは“知っていた”。
だが――
すぐに対応される。
負けて。
それでも、
また勝った。
ライアンが、
怒っている時。
感情が剣に出た瞬間。
ノアは、
そこだけを狙った。
負けて。
勝って。
負けて。
そして――
最後の一戦。
勝った。
大きな勝利ではない。
圧倒でもない。
だが、
はっきりとした勝ちだった。
剣が弾かれ、
ライアンが一歩下がった。
沈黙。
ノアは、
その場で息を整えながら思う。
(……勝ち方が、違う)
力で勝ったことはない。
速さでもない。
勝てたのは、
相手を“知った”時だけ。
負け続けた時間が、
そのまま、刃になっていた。
ライアンは、
剣を握ったまま、
ノアを睨んでいた。
そこには、
最初の嘲りはない。
あるのは――
警戒。
敗北は、
ノアを折らなかった。
むしろ、
形を変えていった。
負けて。
負けて。
負けて。
その全部が、
最後の勝ちへ、
静かに繋がっていた。
そして、
二年の歳月が過ぎた。
振り返れば、
それは驚くほど静かな時間だった。
季節は巡り、
雪が降り、
花が咲き、
また枯れた。
朝は剣を握り、
昼は本を開き、
夜は傷を抱えて眠る。
その繰り返し。
劇的な勝利も、
世界を揺るがす事件もない。
ただ、
毎日が少しずつ削られていった。
剣戟では、
相変わらず負ける日の方が多い。
だが、
「何もできずに負ける」日は、
いつの間にか消えていた。
一太刀は、防げる。
一歩は、踏み込める。
一瞬なら、主導権を握れる。
それだけで、
二年前のノアとは別人だった。
勉学では、
ノアは教える側のままだった。
ライアンは文句を言い、
舌打ちをし、
それでも机に向かった。
気づけば、
問い返すようになり、
自分の言葉で説明するようになった。
「分かってる」から、
「説明できる」へ。
それは、
剣よりも確かな成長だった。
ノア自身も変わった。
背は少し伸び、
身体は相変わらず細いが、
無駄な力みが消えた。
感情に振り回されることは減り、
それでも――
完全には、抑えきれない。
あの“一瞬だけ出てしまう力”は、
二年経っても、
自在にはならなかった。
だが、
出し方は分かり始めていた。
怒り。
恐怖。
そして――
守りたいものを踏みにじられた時。
その全てが、
まだノアの中にあった。
女の家は、
変わらずそこにあった。
暖炉の火。
簡素な食事。
「行ってきなさい」と
「おかえり」。
それだけで、
ノアは人でいられた。




