第5話 同行
バルドは、断りもなく家の中へ足を踏み入れた。
まるで自分の家であるかのように。
床を軋ませ、棚を覗き、
生活の痕跡を一つひとつ確認する。
聖犬は、短く鼻を鳴らしながら、
その後をついて回っている。
「……おや」
バルドの視線が、机の上で止まった。
積まれた本。
書き込みのある紙束。
「王立学園の勉強ですか」
興味深そうに言うが、
その声色は探る者のそれだった。
女は一瞬だけ、間を置いた。
そして、穏やかに答える。
「はい」
「孫が、少し興味を持ってましてね」
――孫。
その言葉が、この家に落ちたのは、初めてだった。
ノアは、何も言えない。
だが、胸の奥で、
何かが静かに締めつけられる。
バルドは、意外そうに眉を上げ、
すぐに笑みを作った。
「ええ、それはそれは」
「優秀なお孫さんだ」
机の紙を軽く指で叩く。
「うちの息子はねぇ」
「剣はそこそこできるんですが、頭が悪くて」
「芋息子でして」
冗談めかした口調。
だが、その裏には、
自分は“選ぶ側”だという余裕が滲んでいる。
「いやぁ、教えを乞いたいくらいですよ」
ノアは、視線を上げた。
「……そうですか」
声は低く、冷たかった。
感情を殺した言葉。
それ以上、踏み込ませないための一線。
その瞬間、
聖犬がノアの前に立った。
くるり、くるりと回り、
低く唸る。
鼻先が、わずかにノアへ向く。
空気が、張り詰めた。
バルドはそれを見て、
一瞬だけ目を細める。
だが、すぐに肩をすくめた。
「……まあ、念のためです」
それからしばらく、
家宅捜査は続いた。
床下。
棚の奥。
暖炉の裏。
だが――
何も出ない。
やがて、バルドは警邏隊証を仕舞い、
形式ばった笑みを浮かべた。
「どうやら」
「何もなかったようです」
聖犬の綱を引き、
扉へ向かう。
「失礼しました」
そう言って、
男は家を出ていった。
扉が閉まる。
足音が遠ざかる。
静寂が戻る。
女は、深く息を吐いた。
「……全く」
肩を落とし、
小さく呟く。
「失礼な警邏だね」
ノアは、その背中を見つめていた。
そしてノアは、
バルドの背中を追った。
距離は取っている。
足音も、呼吸も、風に溶かす。
追跡というより、
同行を選ばせるための観察だった。
バルドは気づいていた。
気づかないふりをしていただけだ。
路地を抜け、
人通りの少ない通りに出たところで、
ノアは声をかけた。
「あの……」
バルドは足を止め、
ゆっくりと振り返る。
「おや」
その口元に、
わずかな笑みが浮かぶ。
「さっきのお孫さんじゃないか」
驚きはない。
予想通りだと言わんばかりの声音。
ノアは、一歩前に出る。
「僕に……」
「剣を教えてくれませんか?」
聖犬が、ぴたりと止まる。
「代わりに」
「あなたの息子さんに、勉強を教えます」
それは願いではなく、
取引の提示だった。
一見すれば、
敵陣に自ら足を踏み入れる、
愚かな自爆行為。
だが――
ノアにとっては違う。
敵を知る。
太陽の剣に近づく。
人類の“英雄の育て方”を、内側から見る。
この機会を逃す理由は、なかった。
バルドは、しばらく黙ってノアを見つめた。
値踏みする視線。
恐れはない。
警戒も薄い。
やがて、
意外なほどあっさりと言った。
「……いいよ」
ノアは、一瞬だけ目を瞬かせる。
「今からですか?」
問い返すと、
バルドは歩み寄り、
ノアの目線の高さに合わせるように、
しゃがみ込んだ。
「ちゃんとさ」
声は低く、穏やかだ。
「おばあちゃんに、
“行ってきます”って言ってからだ」
それは命令ではなく、
条件だった。
「それができるなら、着いてきな」
ノアは、迷わなかった。
踵を返し、
家の方を見る。
扉の向こうにいる女を思い浮かべ、
一度だけ、深く息を吸う。
「……行ってきます」
それだけを言い残し、
ノアは戻らなかった。
バルドの隣に立ち、
同じ方向を見る。
聖犬が、
再び歩き出す。
こうしてノアは、
敵の側へと足を踏み入れた。
夜の王としてではなく。
復讐者としてでもなく。
――学ぶ者として。
この選択が、
誰の未来を壊すのか。
それを知るのは、
まだ少し先の話だ。
バルドの家は、ひと目で分かるほど豪華だった。
石造りの門。
手入れの行き届いた生垣。
敷地の広さは、周囲の家々とは明らかに違う。
――さすがは、この一帯を取り締まる警邏隊長の屋敷。
権力と安定。
人類の“勝者”の住処。
中へ入ると、
さらに奥に広い中庭があった。
その中央で、
一人の男が剣を振っている。
金色の髪。
剃り込みを入れた側頭部。
がっしりした体格だが、動きはどこか荒い。
汗を乱暴に手で拭いながら、
何度も剣を振り下ろしている。
力はある。
だが――
雑だった。
「おーい、ライアン」
バルドが、朗らかに声を張る。
「お友達を連れてきたぞー」
剣を止め、
男――ライアンが振り返る。
「……は?」
眉をひそめ、
不機嫌そうに近づいてくる。
「友達?」
ノアを一瞥し、
鼻で笑った。
「誰だよ、こいつ」
視線は、値踏みするようで、
露骨な見下しが滲んでいる。
バルドは気にした様子もなく、
肩に手を置いた。
「これから友達になる人さ」
軽く、だが逃げ場のない言い方。
「ライアンには勉強を教える家庭教師でもある」
「その代わり、お前は剣を教えなさい」
命令だった。
そして、ふと思い出したようにノアを見る。
「そういえば、名前は?」
「……ノアです」
ノアは、淡々と答える。
「そうか、ノア」
「ライアン、よろしくな」
だが、ライアンは顔を歪めた。
「はぁ?」
露骨に舌打ちをする。
「親父、勝手に決めんなよ」
「しかも、こんな――」
ノアを上から下まで見て、吐き捨てる。
「幸薄そうなやつに教わるとか、冗談だろ」
言葉は刃だった。
遠慮も、躊躇もない。
バルドの表情が、僅かに曇る。
「こらこら」
「それは言い過ぎだ」
叱責ではあるが、
本気で怒ってはいない。
「お前は、王立学園に入ったら」
「セレナ嬢に仕える身になるんだぞ」
その名に、
ライアンの眉がぴくりと動く。
「勉学も大事だ」
「剣だけ振っていればいいわけじゃない」
ライアンは、舌打ちをもう一度すると、
剣を地面に突き刺した。
「……ちっ」
そして、背を向ける。
「勝手にしろよ」
中庭の奥へ、
苛立ちを隠しもせず歩いていった。
ノアは、その背中を見つめていた。
力はある。
だが、未熟。
誇りだけが先行した、典型的な人類の剣士。
――なるほど。
敵の内側は、
思っていたよりも脆い。
バルドは、そんなノアの視線に気づいたのか、
何も言わず、ただ微かに笑った。
この家で、
ノアは剣を学ぶ。
同時に――
人類の“英雄候補”の実態を、
骨の髄まで知ることになる。




