第4話 確認
それから、しばらくの時間が流れた。
劇的なことは、何も起きなかった。
追手も来ず、剣も振り下ろされない。
朝が来て、
火を起こし、
食事を用意し、
日が暮れる。
そんな当たり前が、
淡々と繰り返された。
ある日、女は窓の外を見て、ぽつりと呟いた。
「そうか……もうそんな季節だね」
ノアも、同じ方角を見る。
空気は冷たくなり、
風は乾き、
街のざわめきに、どこか張り詰めた音が混じっている。
「もう、王立学園の入学試験の日だ」
女は、手を止めて言った。
「みんな、一生懸命努力したんだろうね」
「頑張れ……って、思うよ」
それは、
身内でもない。
知り合いですらない。
顔も知らない誰かたちへの言葉。
ただの祈りだった。
ノアは、胸の奥で小さく息を詰まらせる。
――つくづく、この女は人が良すぎる。
処刑台で見た人類とは、あまりにも違う。
叫び、石を投げ、正義に酔っていた人間たちとは。
同じ“人”だとは、
どうしても思えなかった。
だからこそ、
ノアの中に、罪悪感が芽生えていた。
守れない。
救えない。
いずれ、裏切る。
分かっているのに、
ここにいる。
その感情が、
思考より先に、口を開かせた。
「……本当は」
女が振り返る。
「僕も、王立学園に通わせたいんじゃないのか?」
言ってから、気づく。
余計なことだ、と。
だが女は、少しも驚かなかった。
皺だらけの顔を、こちらに向ける。
「いいや」
即答だった。
「あんたの勝手にしなさい」
責めるでもなく、
期待するでもなく。
ただ、
選ぶ権利を渡す言葉。
その一言が、
ノアの胸を、強く打った。
――選ぶ。
ノアの中で、
いくつもの声が重なる。
英雄を育てる機関。
人類の正義の象徴。
王立学園。
そして――
父が遺した言葉。
夜を、取り戻せ。
吸血鬼の再建。
滅びた同胞たちの復権。
歯を噛みしめる。
だが同時に、
別の考えが、静かに浮かぶ。
(……それに)
(同じ同胞が、いるかもしれない)
表には出せず、
記録から消され、
それでも生き延びた者たち。
王立学園なら、
世界中から集まる。
敵も。
英雄も。
そして――
異物も。
ノアは、静かに決めた。
「……一応、勉強しておく」
女は、それ以上何も言わなかった。
ただ、いつものように、鍋をかき混ぜる。
その背中は、
世界の争いとは無縁のままだった。
だがノアは知っている。
この選択が、
再び世界を血に染める可能性を。
それでも――
歩き出すしかなかった。
夜の王としてか。
人の少年としてか。
その答えは、
まだ、ノア自身にも分からない。
王立学園の入学試験には、二つの科目がある。
一つは勉学。
歴史、戦術、魔術理論、種族学、聖剣史。
人類が築き上げた“正義の体系”を、
どれだけ正確に理解しているかを測る試験だ。
もう一つは――
剣戟。
聖剣士としての素質。
剣を握る資格があるかどうか。
王立学園は、学び舎であると同時に、
戦争のための育成機関でもある。
⸻
ノアは、勉学に関しては問題なかった。
文字を追えば、意味が自然と頭に入る。
論理を組めば、迷いなく結論に辿り着く。
吸血鬼の王の血筋。
長命種の知性。
人類を観察し、支配してきた側の思考。
――頭がいいのは、当然だった。
人類の歴史書に書かれた
「吸血鬼は残虐で愚かだった」という記述も、
どこが誇張で、どこが虚構か、すぐに分かる。
皮肉なことに、
人類より、人類を理解していた。
問題は――
剣だった。
ノアは、裏庭に出る。
手に取ったのは、
ただの棒切れ。
刃もなく、魔力も宿らない。
それを剣に見立て、構える。
――振る。
空を裂く音は、鈍い。
もう一度。
さらにもう一度。
動きは悪くない。
構えも、教本通りだ。
だが――
芯が、ブレる。
振り下ろすたび、
軌道が僅かに揺れる。
力が、続かない。
数十回も振らないうちに、
腕が重くなり、
呼吸が乱れる。
「……この程度、か」
自嘲が漏れる。
吸血鬼だから、
剣も得意だと思われがちだ。
だが、ノアは違う。
王だったのは血筋であって、
戦場を駆けた英雄ではない。
鍛錬を積んだ記憶もない。
処刑台まで、鎖に繋がれて生きてきた。
体力は、
人並みか、
それ以下。
棒切れを握る手が、
じわりと震える。
――剣士としては、凡庸。
それが、
今のノアの現実だった。
だが、
彼は棒切れを置かなかった。
振る。
息を整え、
また振る。
王立学園は、
頭だけでは通れない。
そして、
夜の復権は――
机上の空論では果たせない。
ノアは歯を噛みしめ、
もう一度、棒切れを振り上げた。
そしてそれは、
日常を壊すようにやって来た。
扉を叩く音は、強くもなく、弱くもなかった。
だが、不思議と逃げ場を与えない響きだった。
「――すいません」
男の声は落ち着いている。
感情の起伏がなく、
拒絶されることを想定していない声。
女が扉を開ける。
そこに立っていたのは、
背の高い男だった。
整えられた外套。
腰に下げた剣。
内ポケットから、慣れた手つきで一枚の証を取り出す。
「警邏隊隊長の、バルドと言います」
警邏隊証。
それは、この街で“拒否できない”印だった。
男の左手には、
一匹の犬が繋がれている。
毛並みは白く、
目は異様なほど澄んでいる。
――聖犬。
人では辿れないものを嗅ぎ分け、
嘘と異端を見抜くために飼われる存在。
ノアの背筋を、冷たいものが走る。
「こちらの家で……」
バルドは犬を軽く制しながら、
肩をすくめた。
「家の聖犬士が、反応しましてね」
声は軽い。
困ったものだ、とでも言いたげに。
だがその仕草は、
あまりにも計算されていた。
「ええ、ほんの微かな反応です」
「ですが――規則ですから」
犬が、低く唸る。
その視線は、
真っ直ぐ――ノアを向いていた。
女は気づいていない。
あるいは、気づかないふりをしている。
「何かの間違いじゃないかい?」
そう言って、
精一杯、穏やかに笑う。
バルドは、やれやれと首を振った。
「ああ、よく言われます」
「皆さん、そうおっしゃる」
その目は、
笑っていなかった。
「ですので」
「少しだけ、確認をさせてください」
“少しだけ”。
その言葉が、
どれほど多くの人生を壊してきたか。
ノアは、黙って息を整える。
風が、告げている。
――逃げ道は、ない。
――聖犬は、もう確信している。
平穏は、
音もなく終わった。
ここから先は、
選択一つで物語の色が変わる。




