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第3話 最初の血

 それから女に、髪と身体を洗われた。


 桶の中の湯は、ぬるめだった。

 老いた指が震えぬよう、温度を気遣っているのが分かる。


 女は黙ったまま、ノアの背に布を当てた。

 力は弱く、だが丁寧だった。


「あんた……体、細いねぇ」


 ぽつりとした声。


「骨ばっかりだ。ちゃんと食べてこなかったんだろ」


 ノアは、何も答えない。


 女は絡まった白い髪を指で解きながら、続けた。


「それに、肌も白い。髪も綺麗な色してる」


「このままじゃ、もったいないよ」


 もったいない、という言葉が胸に刺さる。

 価値を語られた覚えなど、なかったからだ。


 女は、何も疑わない。

 ノアを“異形”として見ていない。


 ただ、

 痩せた子どもを洗っているだけだった。


 そのことが、何よりも重い。


 ノアは、耐えきれずに口を開いた。


「……なんで」


 声は、かすれていた。


「なんで、こんなに良くしてくれるんだよ」


 女の手が止まる。


 一瞬だけ、視線が宙を泳ぎ、

 それから、ふぅと小さく息を吐いた。


「初めて見た時にね」


 女は、静かに言った。


「亡くなった息子に、似てると思ったんだよ」


 その言葉に、ノアの喉が鳴る。


「息子はね、聖剣士になりたいって言ってた」


「王立学園に行って、立派になって、国を守るんだって」


 少しだけ、誇らしげに。


「……でも、戦争で死んだ」


 女の声は、淡々としている。


「赤の時代にね」


 ノアの心臓が、一拍、強く打った。


「吸血鬼に殺されたって、言われてる」


 その言葉は、

 ノアを責めるためのものではなかった。


 事実として、

 過去として、

 もうどうにもならない出来事として語られていた。


「だからね」


 女は、再びノアの背に手を置く。


「息子にしてやれなかった分、あんたに少しだけ温もりをやるのさ」


「老い先短いババアの、ただの我が儘だよ」


 ノアは、何も言えなかった。


 自分が、

 その“吸血鬼”である可能性を、

 女が一切疑っていないことが、

 胸に重くのしかかる。


 しばらくして、ノアは小さく尋ねた。


「……僕を、学園に通わせたいのか?」


 女は、首を振った。


「いいや」


「そんなこと、思っちゃいない」


「学園だの、立派だのはね」


 女は、穏やかに言う。


「大人が勝手に決めた道さ」


「あんたには、あんたの道がある」


「誰かの正義でも、誰かの期待でもない道」


 それは、励ましでも理想論でもなかった。

 ただの、個人的な願い。


 ノアは俯き、湯の揺れを見つめる。


 この人は、

“吸血鬼”を憎んでいる。


 けれど、

 目の前の自分を、憎んでいない。


 その事実が、

 何よりも残酷だった。


 女は、それ以上語らず、

 ただ黙って、ノアの身体を洗い続けた。


 赤の時代が終わったのは、五十年前。

 そして――

 ノアの父が殺されたのは、十年前。


 ノアは、今、十の歳だった。


 父の顔は、もう曖昧だ。

 声も、匂いも、夜の色も。

 覚えているのは、

「夜を取り戻せ」という言葉だけ。


 それだけが、胸の奥に沈殿している。


 ⸻


 女の話の中で、

 ノアは一つの言葉を聞いた。


 王立学園。


 正確には――

 ユグドラシル王立学園。


 だが人々は、短くそう呼ぶらしい。


 聖剣士を育てる場所。

 次の時代の英雄を生み出すための、

 人類の希望。


 ノアは、その言葉を心の中で反芻し、

 すぐに打ち消した。


 ――縁のない話だ。


 吸血鬼に、

 英雄の学び舎など必要ない。


 そう思い、

 それ以上、聞くのをやめた。


 ⸻


 その夜。


 ノアの中で、

 衝動が疼いた。


 腹が減る、という感覚とは違う。

 喉が渇く、とも言えない。


 血が、

 血そのものが、

 身体の奥から叫んでいる。


 夜の路地は薄暗い。

 だが暗視を持たない人間にとっては、

 完全な闇に近いだろう。


 その闇の中、

 酒に潰れた男が、壁にもたれて座り込んでいた。


 ノアは、立ち止まった。


 ――ここでやめれば、戻れる。


 そう思った。

 だが、その考えは、

 衝動を止める鍵にはならなかった。


 鍵穴にすら、届かなかった。


 ノアは、静かに近づく。


 音を立てず、

 影のように。


 男の首元に、

 牙が伸びる。


 吸血のためにだけ生える牙。


 ちくり、と。

 皮膚を破る、微かな音。


 次の瞬間――

 暖かく、

 甘美な液体が、

 口いっぱいに広がった。


 血。


 人の血。


 濃く、

 鉄の匂いと、

 生きているという感触。


 ノアは、目を閉じた。


 理性は、遠くにある。

 ただ、吸う。


 吸い続ける。


 男が動く気配に、

 本能的に警戒し、

 限界の一歩手前で、牙を引き抜いた。


 男は、まだ眠っている。


 ノアは、一歩、距離を取る。


 頭が、冴えた。


 霧が晴れたように、

 世界がはっきりと見える。


 だが、次の瞬間――

 胸の奥に、別のもやが広がった。


 ――あの女が、悲しむかもしれない。


 なぜ、そんなことを思ったのかは分からない。


 血を吸った相手ではない。

 助けてくれた、あの女。


 その顔が、

 脳裏に浮かんだ。


 ノアは、舌打ちすることもなく、

 ただ、踵を返した。


 ⸻


 家に戻ると、

 女がまだ起きていた。


「あんた、どこ行ってたの?」


 声には、咎める色はない。


「夜は危険だよ。早く入りな」


 ノアは、何も答えず、

 ただ頷いた。


 女は、それ以上、何も聞かない。


 疑いもしない。


 ノアの喉の奥に、

 さっきの血の甘さが、

 まだ残っていた。


 ⸻


 翌日。


 風が、街を騒がせていた。


 ――近隣で、吸血鬼が出たらしい。


 噂話ではない。

 文字通り、風の噂だった。


 ノアの中に流れる、

 エルフの血が、

 街のざわめきを運んでくる。


 昨夜の出来事。

 酒場の近く。

 首元に、小さな傷。


 しばらくの間、

 警邏隊が見回りを強化するらしい。


 人々は言う。


「まだ生き残りがいたのか」

「忌々しい」

「聖剣士に任せればいい」


 ノアは、黙って聞いていた。


 女も、同じ噂を耳にしたらしく、

 溜息をつく。


「物騒だねぇ……」


 それだけだった。


 ノアを疑う気配は、

 微塵もない。


 そのことが、

 胸の奥で、静かに重くなっていく。


 ノアは、何も言わず、

 窓の外を見た。


 風が、動いている。


 ――逃げ場は、まだある。

 ――だが、戻り道は、もう細い。


 夜は、

 確実に、近づいていた。

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