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第2話 人の食事は、重すぎる

 聖剣が振り下ろされる、その瞬間。


 世界が、白に沈んだ。


 爆発でも炎でもない。

 ただ、視界そのものを奪う濃密な煙幕が、処刑台を包み込んだ。


「――な、なんだこれは!?」


 処刑人の声が、混乱に歪む。

 観衆の叫びが重なり、悲鳴と怒号が渦を巻く。


「見えない!」

「吸血鬼はどこだ!?」


 誰も、ノアを視認できない。


 その闇の中で、

 金属が断たれる、短い音がした。


 ――鎖が斬られた。


 次の瞬間、誰かの手がノアの腕を掴む。

 強くもなく、乱暴でもない。

 だが迷いのない動きだった。


 ノアはその顔を見ようとしたが、

 煙の奥に輪郭すら浮かばない。


 声もない。

 名乗りもない。


 ただ引きずられるように、檻を出され、

 路地へと放り投げられた。


 背中が、冷たい石畳に打ちつけられる。


 煙が晴れた時、

 そこにはもう――誰もいなかった。


「……どこだ、ここ」


 呟いた声は、ひどく掠れていた。


 ノアは立ち上がり、周囲を見回す。

 入り組んだ裏路地。

 見覚えのない建物。

 ユグドラシア神聖王国――

 だが、王国の地理など、彼には何の意味もない。


 地の利はない。

 頼れる者もいない。


 世界は、広すぎた。


 その時だった。


「あら……あなた、孤児かい?」


 背後から、しわがれた声がした。


 振り返ると、

 そこにいたのは、年老いた女だった。

 背は低く、腰は曲がり、

 長い人生を刻んだような皺が顔に走っている。


「なんだかねぇ……」

「亡くなった息子が、小さい頃こんな顔してたんだよ」


 女はノアをじっと見つめ、

 そして、柔らかく笑った。


「来な」

「ご飯、食べさせてあげる」


 警戒はあった。

 疑いもあった。


 だが――

 もう、逃げる理由も、拒む理由もなかった。


 ノアは、黙って頷いた。


 ⸻


 女の家は、古い木造だった。


 隙間風はあるが、

 中には暖炉があり、

 赤い火が、静かに揺れていた。


 その熱に触れた瞬間、

 ノアの胸の奥で、何かがほどけた。


 ――ああ、暖かい。


 それは、どれほどぶりか分からない感覚だった。


「ほら、たーんとお食べ」


 差し出された皿から、

 湯気が立っている。


 匂いは、悪くない。

 いや、むしろ――美味そうだった。


 ノアは、考える前に食らいついた。


 掴み、掻き込み、飲み込む。

 喉が詰まるほどの勢いで、胃に流し込む。


「そんな急いで食べても」

「逃げやしないよ」


 女は、くつくつと笑う。


 その声が、

 不思議なほど――懐かしかった。


 ノアは、その一瞬だけ、忘れていた。


 自分が、吸血鬼であることを。


 ⸻


 次の瞬間。


 喉の奥から、強烈な不快感が込み上げた。


 胃が、ひっくり返る。


 ノアは口を押さえ、床に膝をつく。


 ――吐いた。


 勢いよく、

 何度も、何度も。


 口の中に広がるのは、

 腐ったチーズのような酸味。

 ドブ川で獲れる魚の腸を噛み潰したような、

 耐えがたい味。


 料理が不味かったわけじゃない。

 女の腕が悪かったわけでもない。


 体が、拒絶していた。


「あんた……大丈夫かい?」


 女の声が、心配そうに揺れる。


 ノアは、何も答えられなかった。


「もう寝なさい」


 女はそう言って、

 ノアの背にそっと手を添えた。


「今日は……疲れただろ」


 その声には、理由も下心もなかった。

 ただ、労わる響きだけがあった。


 ノアは逆らわず、

 導かれるままに寝室へ向かう。


 簡素な部屋だった。

 軋む床、古い木の匂い、

 清潔とは言えないが、

 不思議と落ち着く空間。


 布団に横になると、

 身体の力が、ゆっくりと抜けていく。


 ――眠い。


 抗おうとする前に、

 意識は深い底へ沈んでいった。


 それは、

 不思議なほど強い眠りだった。


 夢も、悪夢もない。

 ただ、闇が優しく包み込むだけの眠り。


 ⸻


 朝。


 目を開けると、

 窓の隙間から朝日が差し込んでいた。


 ノアは、一瞬、身を強張らせる。


 吸血鬼は、太陽に弱い。

 それは常識であり、

 神話であり、

 処刑の理由でもあった。


 だが――

 身体は、焼けなかった。


 皮膚が裂けることも、

 血が沸騰することもない。


 ただ、

 少しだけ眩しい。


 それだけだった。


 赤の時代。

 吸血鬼は弱点を克服しようとした。


 太陽に怯え、

 夜に縛られる存在であることを、

 王たちは良しとしなかった。


 人体実験。

 異種族の血の混合。

 選別され、交配される“サラブレッド”。


 狂気と知性が交差する中で、

 ついに――

 陽の光に耐える吸血鬼が生まれた。


 ノアも、その系譜に連なる。


 だが、

 完全な克服ではない。


 人類が作り上げた

 吸血鬼特攻の聖剣――

 あれだけは別だった。


 あの刃には、

 ユグドラシルの実と共に、

 太陽そのものが凝縮されている。


 防げない。

 避けられない。

 触れれば、存在ごと焼き切られる。


 それ以来、

 その聖剣を振るう者は、

 人々からこう呼ばれるようになった。


 ――太陽の化身。


 そしてその剣は、

 太陽の剣と。


 ⸻


 ノアは、静かに息を吸う。


 風が、動いた。


 窓の外を流れる空気が、

 言葉にならない情報を運んでくる。


 ――曇りになる。

 ――市場で揉め事があった。

 ――昨夜、処刑場が騒がしかった。


 聞こえるわけじゃない。

 だが、分かる。


 ノアの血には、

 吸血鬼だけではなく、

 エルフの血が混ざっている。


 風を読む血。

 流れを感じる感覚。


 天気の変化。

 人の噂声。

 街のざわめき。


 それらが、

 風に溶けて、自然と伝わってくる。


 ノアは、朝日を背に、静かに立ち上がる。


「あら、おはよう」


 台所から、女の声がした。


「今朝は早いのね」


 振り向くと、女は鍋の前に立ち、

 木べらで中身をかき混ぜている。


 暖炉の火とは違う、

 生活の匂いが部屋に満ちていた。


 その匂いを嗅いだ瞬間、

 ノアの喉が、ひくりと鳴る。


 ――また、か。


 昨日と同じ。

 人の食事。

 人の温もり。


 身体が、拒むと分かっている。


 それでも、

 避けられない時間が来たことを悟り、

 ノアは黙って席に着いた。


「あんたに合うようにね」


 女はそう言って、振り返る。


「胃に優しい味にしてあるから」


 枯れたような、

 けれど不思議と柔らかい声。


 それは、

 気遣いの声だった。


 女は笑っている。

 ほんの少し、誇らしげに。


 ノアの胸の奥が、

 じくりと痛んだ。


 スプーンを手に取る。


 ゆっくりと、

 皿から掬い上げ、口へ運ぶ。


 噛まない。

 噛めない。


 ただ、喉の奥へ流し込む。


 飲み込む瞬間、

 胃が強く抵抗する。


 身体の内側が、

 拒絶の悲鳴を上げている。


 ――重い。


 たった一口なのに、

 とてつもなく重い。


 二口目。

 三口目。


 それはもう、

 食事ではなかった。


 耐える作業だった。


 それでも、ノアは手を止めない。


 女の視線が、

 背中にあるのが分かる。


 期待ではない。

 監視でもない。


 ただ、

「食べているかい?」という

 素朴な確認。


 だから、止められなかった。


 なぜか――

 女を、悲しませたくなかった。


 理由は分からない。

 義理でも、恩でもない。


 ただ、

 この短い時間だけは、

 人でいたかった。


 ノアは、無言で皿を見つめ、

 またスプーンを動かした。


 その姿を見て、

 女は何も言わず、

 ただ静かに微笑んでいた。


 その笑顔が、

 ノアにとっては――

 何よりも、重かった。

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