第17話 侵食
翌朝。
清掃員の朝は、早い。
誰もいない教室。
机を拭き、椅子を戻し、
昨日の授業の痕跡を消していく。
「……ん?」
一人の清掃員が、
机の上に残された水晶に気づいた。
「こんなところに水晶が……」
「しかも、ちょっとヒビ入ってるじゃん」
手に取って、光にかざす。
細い。
記録を取るほどでもない、
中途半端なヒビ。
「使い物にならないね」
ためらいもなく、
ゴミ箱に放り込まれる。
――カラン。
乾いた音。
その日の記録には、
簡潔に書き込まれた。
ノア・グラム
神倣術適性:なし
それで終わりだった。
⸻
ノアたちは、
寮から連れ立って登校していた。
朝の空気。
規則正しい足音。
学園の日常が、何事もなかったように流れている。
ホームルームまで、
まだ少し時間がある。
ノアは、
人の流れの中で、
一人の背中に目を留めた。
黒髪。
肩まで揃えた髪。
昨日、水晶を割った少女。
――リサ。
ノアは、
足早に近づく。
「あの」
声をかける。
「リサちゃん」
「ん?」
リサが振り返る。
髪が揺れ、
柔らかな目が向けられる。
その瞬間。
ノアの瞳が、
わずかに――
光った。
赤黒い光ではない。
一瞬、
深く、吸い込まれるような輝き。
「ちょっと、水晶のことで」
「聞きたいことがあってさ」
声は、穏やか。
圧も、強制もない。
それでも――
確かに、引き寄せる。
それは
魅了の魔眼。
吸血鬼が持つ、
数ある固有能力の一つ。
血を操る力。
霧となる力。
影に溶ける力。
そして――
相手の意識に、わずかに触れる力。
リサは、
一瞬だけ瞬きをした。
「……水晶?」
戸惑いはある。
だが、拒絶はない。
「うん」
「昨日の授業のことなんだけど」
ノアは、
目を逸らさない。
深くは使わない。
気づかれない程度に。
――ほんの少しだけ。
(ごめん、使わせてもらうよ)
心の中で、
そう呟く。
これは、
支配じゃない。
ただ、
聞くだけだ。
「いいよ」
「何、聞きたいの?」
リサは、
自然にそう答えていた。
そのやり取りを、
誰も気に留めない。
朝の学園。
始業前のざわめきの中で。
夜は、
また一つ、
静かに牙を使った。
誰にも知られないまま。
リサは、どこか――
取り憑かれたような様子だった。
「そっか」
「ヒビすら、入らなかったんだ」
声音は柔らかいが、
視線が定まっていない。
「そうなんだよ」
「だから、教えてほしかったんだ」
ノアは、穏やかに答える。
「私も一生懸命だったから」
「正直、コツとか分からないけど……」
リサは、言葉を探すように視線を彷徨わせる。
「なんか」
「祈るみたいに、力を込めたら」
「気づいたら、割れてたんだよね」
「……そうなんだ」
二人がいるのは、
人通りのない階段の踊り場だった。
朝の喧騒から切り離された場所。
音が、遠い。
リサは、
ふと力が抜けたように、
床にぺたんと座り込む。
ノアは、立ったまま。
距離が、
少しずつ、
詰まっていく。
ノアは、
身を屈め、
リサの耳元へ口を寄せた。
「じゃあさ」
囁く声。
「これから、もし僕に何かあったら」
「リサちゃん、守ってくれる?」
「……う、うん」
答えは、
考えた末のものではなかった。
「そう」
短く言って、
ノアは一歩、踏み込む。
首筋へ――
牙を当てる。
柔らかな皮膚。
何も疑っていない場所。
プツリ。
小さな音がして、
皮膚を越えた。
血が、
ほんのわずか、流れる。
「あ……」
リサの声が、
かすれる。
意識が、
急速に遠のいていく。
吸血鬼の力は、
血を奪うだけじゃない。
判断力を鈍らせ、
抵抗の意思を溶かす。
ノアは、
表情を変えない。
感情も、
躊躇もない。
これは衝動じゃない。
欲でもない。
――手段だ。
(……落ちていく)
ノアは、
そう理解していた。
このまま、
深く沈めば、
戻れなくなる。
それでも、
ノアは牙を離さなかった。
学園は、
太陽の場所だ。
だからこそ、
夜は――
誰にも見られない影を、必要とする。
階段の踊り場で、
一つの意志が、
静かに絡め取られていった。
誰にも、
気づかれないまま。
リサとノアは、
二人並んで廊下を歩いた。
距離は近い。
だが、会話はない。
リサの足取りは少し遅く、
視線はどこか定まっていない。
教室のドアをくぐり、
中に入る。
すでに、
皆が自分の机に座っていた。
ざわめきが、
一瞬だけ止まる。
「……二人とも、遅いですよ」
シエルの声が、
教室の空気を引き締める。
「すいません」
ノアは短く答えた。
「今、座ります」
二人はそれぞれの席へ向かう。
椅子に腰を下ろした瞬間、
ノアの視界が、わずかに揺れた。
――久しぶりの吸血。
頭が、少し重い。
身体の芯が、妙に熱を持っている。
だが、
不快ではない。
むしろ――
整っている。
(……ここからだ)
ノアは、
前を向いたまま思う。
一気に何かを変える必要はない。
目立つ必要もない。
少しずつでいい。
人間は、
体内に小さな異物が入り込んでも、
すぐには気づかない。
痛みもない。
違和感もない。
例えそれが――
吸血鬼だったとしても。
黒板に文字が書かれ、
授業が始まる。
誰も、
リサの変化を気に留めない。
誰も、
ノアの静かな高揚に気づかない。
侵食は、
音もなく進む。
夜は、
もうこの教室の中にあった。
太陽の下で。
誰にも疑われないまま。




