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第16話 割れなかった水晶

 補習は、長く続いた。


 放課後の教室。

 西日が差し込み、机の影が伸びていく。


 ノアの前には、

 またしても――

 反応しない水晶。


 何度、手を添えても。

 何度、意識を集中しても。


 沈黙。


 そのたびに、

 シエルの小さなため息が落ちる。


「……はぁ」


 それは失望というより、

 理解できないものに向けられた溜息だった。


「ノア君」


 静かな声。


「あなた、才能がないんじゃない?」


 言葉は軽い。

 だが、

 絡みつくようだった。


 まるで蛇が、

 ゆっくりとノアの周りに

 とぐろを巻くように。


「何年もここで教えてきたけれど」

「ここまで、まったく反応しない例は初めてよ」


 水晶を見下ろす目が、

 次にノアへ向く。


「……あなた、人間じゃない“何か”なんじゃない?」


 一瞬、

 教室の空気が冷える。


「人と魔の間に生まれた存在、とか」

「そういう可能性も、あるわよね」


 淡々とした声。

 まるで、

 学術的な仮説を述べるように。


「そういえば」

「あなたの出生、まだ確認できていなかったわよね」


 シエルは、

 書類に手を伸ばしかける。


「一度、調べてみましょうか?」


 その瞬間。


「……先生」


 ノアは、

 机を叩いて立ち上がった。


 大きな音ではない。

 だが、

 教室にはっきりと響く音。


 視線が、

 ぶつかる。


 ノアの声は、

 低く、抑えられていた。


「今日は、ここまでにしませんか」


 一拍。


「……疲れました」


 それ以上、

 何も言わない。


 シエルは、

 しばらくノアを見つめていた。


 評価する目。

 探る目。


 そして――

 小さく、息を吐く。


「……そうね」


 あっさりと。


「今日は、ここまでにしましょう」


 椅子が引かれる音。

 書類がまとめられる音。


 ノアは、

 何も言わず、

 鞄を手に取った。


 教室の外に出ると、

 空はすでに夕焼けに染まっていた。


 赤く、

 どこか血の色に似た空。


 ノアは、

 一度だけ振り返る。


 教室の中には、

 反応しない水晶が、

 静かに残されている。


 ――割れない。


 ――応えない。


 それでも、

 ノアは歩き出した。


 夜が、

 近づいていた。


 太陽が沈めば、

 この場所も、

 少しだけ静かになる。


 それが、

 今のノアには救いだった。


 寮とは、反対方向へ駆け出した。


 理由は単純だった。

 恥ずかしかった。

 入学初日で、もう挫折したことが。


 水晶は割れず、

 才能がないと言われ、

 自分が「何者か」を疑われた。


 それが、

 思っていた以上に――

 辛かった。


 だからノアは、

 帰る場所を求めた。


 逃避だった。

 一種のホームシック。

 名前を付けるなら、

 思春期特有の、どうしようもない感情。


 夜の路地には、

 灯りがなかった。


 人の声も、

 足音もない。


 ノアは、

 見慣れた扉の前に立っていた。


 ノックは、しない。


 助けを求めているわけじゃない。

 助けてほしい、と

 言えるほど素直でもない。


 ただ、

 ここに立っていた。


 そのとき。


「あんた」


 後ろから、

 聞き慣れた声。


 振り返る前に、

 分かっていた。


「……」


 女は、

 何も言わずに扉へ歩き、

 鍵を外す。


「入んな」


 それだけ言って、

 扉を開けた。


 暖かい空気が、

 夜の冷たさを押し返す。


 ノアは、

 何も言えず、

 中に入った。


 暖炉の火。

 古い椅子。

 変わらない匂い。


「それで」


 女は、

 湯を火にかけながら言う。


「入学初日で、挫折したのかい?」


 答えは、

 出なかった。


 ノアは、

 椅子に座り、

 顔を下げる。


 両手は、

 膝の上で強く握られていた。


 悔しさと、

 情けなさと、

 どうにもならない感情が、

 絡まっている。


 女は、

 それを無理に解こうとしなかった。


 ただ、

 ぽつりと語る。


「あんたにはさ」

「帰る場所が、あるんだ」


 火のはぜる音。


「だから、逃げたっていい」


 ノアの肩が、

 わずかに揺れる。


「花は、空中じゃ咲かない」

「魚は、水のない場所じゃ生きられない」


 一拍。


「吸血鬼がさ」

「太陽のある場所より、夜を選んだって」


 女は、

 少しだけ笑った。


「誰が、それを責める?」


 その言葉は、

 鋭くはなかった。


 でも、

 深く刺さった。


 ノアは、

 何も言えない。


 言えないまま、

 胸の奥が、じんと熱くなる。


「……まぁ」


 女は、

 肩をすくめる。


「あたしは、なんも知らないけどね」


 それで終わり。


 説教も、

 結論も、

 解決策もない。


 ただ、

 ここにいていい、という空気だけがあった。


 ノアは、

 目を閉じた。


 夜の中で、

 ようやく、

 息ができた気がした。


「意志をつけるのは、難しい」


 女は、火の落ち着いた暖炉を見つめたまま言った。


「それに挑戦する人がさ」

「意志が弱いから、難しく感じるんだよ」

「だから、挫折しやすい」


 ゆっくりと、ノアを見る。


「あんたは、そうなのかい?」


 短い沈黙。


 ノアの脳裏に、

 父の背中が浮かぶ。


 夜の王。

 滅びゆく国。

 託された言葉。


 ――夜の国を、取り戻せ。


「……いや」


 ノアは、顔を上げた。


「違う」


 女は、ふっと鼻で笑った。


「じゃあ、頑張りなさい」


 そう言って、

 ノアの背中を、ぽんと叩く。


 力は弱い。

 だが、不思議と芯に届く。


「あんたには」

「まだ、やるべきことがあるだろ」


 ノアは、少しだけ背筋を伸ばした。


「あぁ」


 それだけ言って、

 扉を開ける。


 夜風が、

 頬を撫でる。


 ノアは、

 迷わず、学園の方向へ足を向けた。


 ⸻


 その頃。


 静まり返った教室に、

 誰もいなかった。


 机の上には、

 置き去りにされた水晶。


 昼間と変わらず、

 透明で、無傷に見える。


 月明かりが、

 窓から差し込む。


 その光を受けて――

 水晶の内部で、

 ごく微かな音がした。


 ピシ。


 誰にも聞こえないほどの、

 小さな音。


 一本の細いヒビが、

 内側から走る。


 外からの力ではない。

 触れられてもいない。


 ただ、

 そこに“在ろうとした意志”に反応するように。


 水晶は、

 それ以上割れなかった。


 砕けもしない。


 ただ、

 確かに――

 応えた。


 ノアのいない教室で、

 夜だけが、それを見ていた。


 そして翌日、

 誰も知らないまま、

 授業はまた始まる。


 だがその水晶は、

 もう以前と同じではなかった。


 選ばれなかったのではない。


 遅れて、目を覚ましただけだった。

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