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第11話 帰る場所がある夜

 ノアは、控え室の長椅子に横になっていた。


 天井が、やけに遠い。


 血を、使いすぎた。

 それは自覚している。


 あの戦闘は、

 今のノアにとって、

 確かに限界だった。


 身体の内側が、

 空洞になったような感覚。


 ノアは腕を上げ、

 目元を覆う。


 視界を閉ざし、

 さきほどの戦闘を、

 何度もなぞる。


 ――あそこは、もっと詰められた。

 ――血を回す量が、多すぎた。

 ――最後の一歩は、焦った。


 反省は尽きない。


 そのとき。


「……大丈夫?」


 控えめな声が、

 静かな室内に落ちた。


 ノアは、

 腕をずらし、

 一瞥する。


 セレナだった。


 銀色の髪。

 整った呼吸。

 戦いの後とは思えないほど、

 澄んだ立ち姿。


 ノアは、

 すぐにまた腕で目元を隠した。


 ――見すぎると、良くない。


 その絹のような肌を、

 視界に入れるだけで、

 胸の奥がざわつく。


 血が、

 欲しがっている。


 吸血衝動が、

 確かに騒いでいた。


 しかも――

 セレナは、特別に“美味そう”だ。


 理由は分からない。

 だが、

 理性が一段強く締め付けられる。


「ああ……」


 ノアは、

 声を整えて答える。


「軽い貧血みたいなものだから」


 嘘ではない。


 血が足りないのは、事実だ。


「そう……」


 セレナは、

 ほっとしたように息を吐く。


「それなら、良かった」


 ノアは、

 腕の隙間から天井を見たまま言った。


「優しいんだな」

「敗者にまで、声をかけるなんて」


 セレナは、

 首を横に振る。


「そんなことない」


 静かな否定。


「私は、ただ……」

「皆に、平等にしてるつもりなだけ」


 その言葉に、

 ノアの胸の奥で、

 小さな違和感が生まれる。


 ――甘い。


 ノアは、

 そう思った。


 だが同時に、

 その甘さが、

 どこまで本物なのかを、

 知りたくなった。


 だから――

 漬け込む。


「じゃあさ」


 腕で目を隠したまま、

 淡々と問いを投げる。


「もし、困っている人がいるとして」

「それが……吸血鬼や、エルフだったら」


 一拍。


「君は、どうする?」


 セレナは、

 すぐには答えなかった。


 視線を落とし、

 ほんの少しだけ、考える。


 迷いは、

 ない。


 ただ、

 言葉を選んでいるだけだ。


「……それでも」


 セレナは、

 まっすぐに言った。


「私は、手を伸ばす」


「私が助けられる範囲で」

「それが、人じゃなくても」


 ノアは、

 何も言わなかった。


 ただ、

 その言葉を、

 胸の奥に沈める。


「……そうか」


 短く、

 それだけ返す。


 セレナは、

 それ以上踏み込まない。


 慰めもしない。

 説得もしない。


 ただ、

 そこに立っている。


 ノアは、

 腕で目を覆ったまま、

 静かに思った。


 ――この人は、

 本当に、太陽だ。


 眩しくて、

 危うくて、

 近づけば焼かれる。


 そして――

 いずれ、夜に試される。


 そのとき、

 この手は、

 まだ伸びているだろうか。


 ノアは、

 その答えを、

 まだ聞かないことにした。


 今は、

 血を休ませる時間だ。


 だがこの会話は、

 確実に、

 二人の未来へと繋がっていた。


 静かに。

 逃げ場のない形で。



 試験が終わる頃には、

 すっかり夜になっていた。


 夜になれば、

 人は増える。


 酒を飲み、

 声を上げ、

 足元がおろそかになる。


 暗がりの中に、

 多少ふらついた者が混じっていても、

 誰も気に留めない。


 ――都合がいい。


 ノアは、

 人目の少ない路地へと入った。


 一人ずつ。

 騒がず、

 叫ばせず。


 壁際に引き込み、

 意識を奪う。


 抵抗は、ない。


 牙を立て、

 血を吸う。


 使いすぎた分を、

 失った分を、

 取り戻すだけ。


 それ以上はしない。


 ――しない、はずだった。


 だが、

 血が喉を通るたび、

 胸の奥が熱を帯びていく。


 鼓動が強くなる。

 視界が澄む。

 身体が軽くなる。


 試合には負けた。

 太陽には、届かなかった。


 それでも――

 今の感覚は、

 懐かしい。


(……これなら)


(夜の国も、

 本当に復権できるかもしれない)


 そんな錯覚すら、

 浮かぶほどに。


 意識を失った男を、

 壁際にそっと座らせ、

 ノアは息を整えた。


 赤黒く染まった瞳。

 引き出された牙。


 吸血鬼としての姿が、

 完全に表に出ている。


 そのとき。


「あんた」


 低く、

 聞き慣れた声がした。


 ノアの身体が、

 一瞬で硬直する。


「こんなに遅くまで外にいて」

「早く帰ってらっしゃい」


 振り返るまでもない。


 ――あの女だ。


 街灯の下、

 小さな身体。


 夜風に、

 薄い外套を揺らして立っている。


 ここまで歩いてきたのだろう。

 年老いた身体に、

 無理をさせたに違いない。


 ノアの胸が、

 きしむ。


 吸血の余韻が、

 急速に冷えていく。


 赤黒く染まっていた視界が、

 ゆっくりと元に戻る。


 牙が引っ込み、

 瞳の色が沈む。


 ――戻ってしまう。


「……ああ」


 ノアは、

 何事もなかったように答えた。


「今、帰るよ」


 女は、

 それ以上何も言わない。


 血の匂いにも、

 路地の様子にも、

 気づかないふりをしているのか、

 本当に気づいていないのか。


 ただ、

「寒いねぇ」と小さく言って、

 踵を返す。


 試験の結果も、

 勝ち負けも、

 何一つ聞いてこなかった。


 ノアは、

 その背中を見ながら思う。


 ――この人は、

 何も知らない。


 だが同時に、

 こうも思った。


 ――この人がいる限り、

 俺は、完全な夜には戻れない。


 吸血で満たされた身体と、

 静かに冷えた心。


 二つを抱えたまま、

 ノアは女の後を追った。


 夜の街に背を向け、

 帰る場所へ。


 その背中を、

 月だけが、

 黙って見下ろしていた。

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