第1話 最後の吸血鬼の処刑
ノアは、生まれながらにして奴隷だった。
それは身分ではなく、運命そのものだった。
その身に宿したものは祝福ではない。
罪であり、罰であり、そして世界が過去に犯した過ちの証明。
破れた布切れ同然の服。
泥と血にまみれた裸足。
手入れなど一度もされたことのない髪は獣の毛のように絡まり、
その瞳には――光がなかった。
希望を失った者の目ですらない。
ただ、これからも繰り返される悪夢を、淡々と受け入れるだけの目だった。
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赤の時代。
世界は、戦争そのものだった。
吸血鬼。
悪魔。
獣人。
エルフ。
ドワーフ。
そして――人類。
人類は、最も弱く、最も脆く、最も価値のない種だった。
牙も爪も魔力もなく、
寿命は短く、肉体は脆弱。
知恵を誇るには幼く、力を誇るにはあまりに儚い。
だから人類は、狩られた。
吸血鬼には家畜として血を搾られ、
悪魔には実験体として魂を削られ、
獣人には肉として食われ、
エルフには知恵を引き出す素材として弄ばれ、
ドワーフには新兵器の切れ味を試すための標的として並べられた。
叫びは届かず、祈りは踏み潰され、
人類は絶滅の淵に立たされていた。
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それを――神は見ていた。
慈悲だったのか。
それとも、世界の均衡が崩れることへの危機感だったのか。
神は人類に、一本の樹を与えた。
ユグドラシル。
天に届くほどの幹を持ち、
世界の根を絡め取る聖なる大樹。
その実には、他種を滅ぼすためだけの力が宿っていた。
人類はその実を喰らい、
削り、鍛え、血と祈りを注ぎ込み――
五つの聖剣を生み出した。
吸血鬼を穿ち、
悪魔を裂き、
獣人を斬り、
エルフの魔を断ち、
ドワーフの鋼を砕く剣。
それは守るための剣ではない。
滅ぼすための剣だった。
赤の時代は、血と悲鳴の中で終わった。
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青の時代。
空は澄み、国は栄え、
街には歌と笑いが溢れている。
世界は平和になった。
――人類にとっては。
人類は覇権を握り、
かつて自分たちを蹂躙した種族を排斥し、
狩り、封じ、記録から消した。
吸血鬼は滅びたとされた。
悪魔は神話に追いやられ、
獣人は亜人として管理され、
エルフとドワーフは「協定」の名のもとに力を削がれた。
そして――
ノアは生きていた。
吸血鬼最後の生き残り。
かつて夜を支配した王が、
密かにこの世界に残した唯一の宝。
父は死に際、ノアに告げた。
「お前は終わりではない」
「吸血鬼は、お前の中で続く」
「いつか、夜を取り戻せ」
それは呪いにも似た遺言だった。
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だが今のノアは、王ではない。
鎖に繋がれ、
檻に入れられ、
人類の前で晒される見せ物。
「これが吸血鬼だ」
「かつて人類を支配していた化け物だ」
嘲笑と石が飛ぶ。
恐怖と憎悪が交じった視線が突き刺さる。
ノアは何も言わない。
叫ばない。
泣かない。
ただ、俯いている。
その胸の奥で、
父から託された“再建”の言葉が、
まだ消えずに燻っていることを――
誰も知らない。
青の時代は、確かに平和だ。
だがその平和は、
滅ぼした者たちの血の上に築かれたものだった。
そして、夜はまだ終わっていな。
――ただ、
次に訪れる夜は、
かつてよりもずっと、
血の匂いが濃い。
「――これより、最後の吸血鬼の処刑を始める」
その一言で、空気がざわめいた。
人々は待っていたのだ。
祭りの始まりを告げる合図を。
広場には、まるで市の開かれる日のように人が集まってくる。
親の手を引かれた子ども。
露店帰りの女。
酒の匂いを漂わせた男たち。
誰もが、楽しげだった。
「見て、あれが吸血鬼よ」
「まだ生きてたのね」
「本当にいるなんて思わなかったわ」
檻の中にいるノアを指差し、
ひそひそと、しかし隠す気もなく囁く声。
「忌々しい」
「ああならないようにしなきゃダメよ」
「神に感謝しないとね。人類の時代で良かったって」
それは忠告でも、教訓でもない。
安心の確認だった。
――自分たちは、正しい側にいる。
――自分たちは、殺される側じゃない。
その証明として、誰かが石を投げた。
「死ね、吸血鬼!」
乾いた音を立てて、石が檻に当たる。
それを合図にしたかのように、次々と石が宙を舞う。
「滅びろ!」
「化け物!」
「人類の敵だ!」
怒りでも恐怖でもない。
娯楽としての憎悪。
その中の一つが、ノアの額に当たった。
鈍い衝撃。
視界が一瞬、白くなる。
額を伝って、血が流れ落ちる。
吸血鬼の血。
かつて人類が恐れ、奪い合った赤。
だがノアは、何も感じなかった。
痛みも、怒りも、悲しみもない。
血が流れているという事実すら、どうでもよかった。
――ああ、また血か。
それだけだった。
心はもう、ここにはない。
観衆の声も、石の音も、遠くで鳴っているだけ。
ノアが願っているのは、ただ一つ。
早く終わってくれ。
この見世物が。
この正義の処刑が。
この、誰かの満足のために引き延ばされる時間が。
生き延びたいとも思わない。
死にたいとも思わない。
ただ――
これ以上、何も期待しないでほしい。
檻の外で歓声が上がる。
人類は平和だ。
人類は正しい。
人類は勝者だ。
その足元で、
最後の吸血鬼は、静かに処刑の時を待っていた。
「――この吸血鬼は」
処刑執行者の声が、広場に響き渡る。
よく通る声だった。
訓練された、疑いを挟ませない声。
「かつて我ら人類を恐怖に陥れ、幾多の命を奪い、牙を向けてきた存在だ」
群衆のざわめきが、低く唸る。
「神に選ばれなければ――」
「ユグドラシルを授けられなければ――」
執行者は一度、空を仰いだ。
まるでそこに神がいるかのように。
「我らは、とっくに滅んでいたであろう」
沈黙。
そして、噛みしめるような一拍。
「人類よ。今一度、祈れ」
彼は背後の聖剣に手を添える。
「ユグドラシルに」
「聖剣に」
「そして――我らを選んだ神に」
誰かが膝をつき、
誰かが胸に手を当て、
誰かが涙を浮かべた。
信仰。
誇り。
勝者の歴史。
「そして宣言する」
処刑執行者の声が、さらに強くなる。
「残された他種――」
「吸血鬼、悪魔、獣人、エルフ、ドワーフ」
「その完全なる根絶を目指し」
剣が高く掲げられる。
「我々は、ここに宣戦布告する!」
――歓声が爆発した。
拍手。
叫び。
祈り。
憎悪。
誰もが酔っていた。
正義という名の熱に。
「殺せ!」
「神に栄光を!」
「人類万歳!」
処刑台の前で、
執行者は一歩、檻に近づく。
「――最後に」
声が、静かになる。
「言い残すことはあるか?」
その問いは、慈悲ではない。
勝者の余裕だった。
ノアは、ゆっくりと顔を上げた。
鉄格子に手をかける。
白く、細い指。
かつて夜を支配した王族の血。
その瞳は、どこまでも暗かった。
怒りも悲しみも、すでに通り越した闇。
だが――
その闇の底で、何かが灯っていた。
観衆を見渡す。
叫ぶ者。
笑う者。
祈る者。
全員が、敵だった。
ノアは、静かに口を開く。
「……お前ら」
声は小さい。
だが、不思議なほど通った。
「全員――」
一瞬、空気が凍る。
「――殺してやる」
祈りは、止まった。
笑顔が、引きつった。
誰かが、息を呑んだ。
それは脅しではない。
宣言だった。
次の瞬間、執行者は叫ぶ。
「――処刑を執り行え!」
聖剣が、振り上げられる。
神の名のもとに。
正義の名のもとに。
人類の未来の名のもとに。
刃が、降ろされた。
――そして、世界はまだ知らない。
この瞬間が、
青の時代の終わりであり、
夜の再来の始まりだということ。
そしてこの夜は、
誰にも許されず、
誰にも止められない。




