中編
「今……気のせい? でも……」
確かに、聞こえた。
呼ばれた気がした。
低く、甘い、男性の声。
知らないはずなのに、
リネの中では、その声がはっきりと形を持っていた。
ーー最初から、知っていたみたいに。そして、その声に惹かれてしまうのを、リネは否定できなかった。
「あなたは……」
言いかけて、言葉を飲み込む。
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられた。
誰?
そう口にしたら、
何かが終わる気がした。
終わるというより――
戻れなくなる。
リネは、思わず胸を押さえる。
鼓動が、少し早い。
けれど、怖さではない。
拒みたいのに、
拒む理由が、見つからない。
呼ばれた。
そう思った瞬間、
自分の中にあった境界線が、ひとつ消えたのが分かった。
それでも。
リネは、名を問わない。
問いかけない。
振り向かない。
ただ、静かに目を伏せる。
「……気のせい、です」
誰にともなく、そう言った。
言い聞かせるように。
祈りに戻るために。
けれど。
空気の奥で、
誰かが、ひどく満足そうに笑った気がした。
「……近い」
最高神の気配が、ミレイアの神殿に色濃くなっている。彼女はガリガリと頭を掻いた。
「あの子が……奪われてしまう」
それは、予感というより、諦観だった。どうにもならないものを、眺める心境。
そして、運命は動き出す。
その日も、リネは祈っていた。
他の巫女たちが退出したあとも、
応えのない祈りに、膝をついたまま。
ふと、背後で、空気が揺れた。
「リネ」
柔らかく、甘い声。
リネは振り返り、息を呑む。
長い銀の髪。
透き通るようにきらめく瞳。
整いすぎた容貌は、人のものではありえない。
「……神さま?」
反射のように、身体が動いた。
向き直り、膝をつく。
その所作を見て、彼はわずかに目を細める。
「顔を上げて」
拒みようのない声だった。
ルゥは、リネの手を取る。
支えるように、立ち上がらせる。
リネは、恐る恐る顔を上げる。
視線が、合った。
ーー知っている。
胸の奥で、確信が落ちる。
この方だ。
名も、姿も、
まだ何ひとつ教えられていないのに。
それでも、分かってしまった。
ずっと、見られていた。
祈りのたびに、
何も起きなかったその理由も。
「……ずいぶん、長く待たせてしまった」
彼は、そう言って、微笑む。
責めるでもなく、
当然のように。
リネの喉が、小さく鳴った。
「わ、私……」
何を言えばいいのか、分からない。
問いかけるべきなのか。
名を請うべきなのか。
――いけない。
あの感覚が、よみがえる。
問えば、戻れなくなる。
ルゥは、その逡巡を、すべて見ていた。
だから、まだ名は告げない。
ただ、指先に少しだけ力を込める。
「安心しろ」
低く、穏やかな声。
「奪いに来たわけではない」
その言葉に、
なぜか、胸が熱くなる。
奪われる覚悟も、
拒む覚悟も、
どちらも、まだ整っていないのに。
それでも。
彼の手は、離れなかった。
――ここが、境界線だ。
リネは、はっきりと理解する。
この先へ進めば、
もう、同じ場所には戻れない。
けれど、今はまだ。
名を預けられていない。
「私にも、祈ってくれないか?」
ルゥはリネを覗き込む。
リネは慌てて膝を折ろうとするが、そのままでと止められる。
「……あなた様の、安寧を」
震える声で呟き、両手を組み合わせる。
しばらく後に、反応が返る。
「では、私はリネの安寧を」
ふわりとリネの身体が輝き、あたたかいものに包まれる。
「……っ」
リネは、自分が包まれていると感じた。
思わず、ほぅ、とため息が漏れる。
ーーもう、戻れないかもしれない。
それは、予感だった。
今日は、ミレイアの神殿に最高神の気配が一段と濃い。
「あの方……嘘でしょ? 顕現してる?」
ミレイアの背筋がぞわりと震える。
「……本気、なんだ」
「リネ」
ルゥは呼ぶ。
「……はい」
「私は、またここに来るから、その時も、かしこまらないで欲しい」
できるかな? と彼は首を傾げる。
「……そんな」
リネは慌ててぶんぶんと首を振った。
無理だ。
今日だって、身体が震えているのに。
「私は、君に受け入れて欲しいんだよ」
ーー私の存在を、ね。
それは、甘く、揺るぎなく。
リネが逃れられないと察するには、十分だった。
「リネ」
ルゥは言う。
「私の名前を教えてあげる。
私は、ルゥ・ラハ」
「……っ」
その日、神殿を掃除していたリネの前に、ルゥは降り立った。
「呼んでごらん」
ルゥは構えた様子もなく、言う。
ただその視線は、熱を持ってリネを焼く。
「……」
呼べない。呼べるはずがない。
偉大なる最高神、ルゥ。
予感はしていた。けれど、まさかだった。
けれど、呼んでもきっとこの方はそれを許してしまう。
それがわかるのが、一番怖かった。
「……こわい」
思わず呟きが漏れ、口を押さえる。
「リネ」
ルゥは穏やかに見守る。
呼んでも、呼ばなくても、それでいいと言うように。
ミレイアは観察していた。偵察とも言う。
「嘘でしょ……あの方名前を」
ミレイア達だって、恐れ多く名を呼ぶことは滅多にない。
それを。
「あの子、戻れないわ」
ミレイアは複雑そうに呟いた。
「リネ」
その日もルゥは、リネのそばに現れた。音もないのに、空気が変わる。澄み切った朝のような、静けさの中に、神としての威厳が重みとして乗る。
「おはようございます……」
リネは、自分の唇が彼の名の形に開こうとするのを感じ、慌てて口を閉じた。
ルゥは面白そうに、それを見ている。
「リネ、君の声を聞かせて。今日は何があったの?」
優しい声に、誘導される。
「今日は……」
思わずずきりと胸が痛む。また、他の巫女達に馬鹿にされてしまった。
「私の祈りが、足りないのではないかと言われてしまって」
「愚かだね」
さらりと言って、ルゥはリネの頭を撫でた。柔らかな髪を梳く。
感触を楽しむように、彼は続ける。
「リネの祈りは、そうだね。例えるなら湧き水のよう。透き通って甘くてつい呑んでしまう」
私は、わかっているよ。とルゥは、言う。甘くて溺れてしまいそうな感覚。
リネは、必死に自分の輪郭を保った。
ルゥはいつも言う。
「私の名を呼んで」
でも、今日は、その目に一瞬切なさの影が落ちた。
リネは、胸がきゅっと絞られる気がした。
口を開こうとして、しかしそれは彼に止められた。
「聞いて。私はいつまでも、待てる。だから、呼んでもいいと思ったら、呼んでほしい」
リネは、覚悟が出来ていないのを見透かされた気がした。
しかし、胸が暖かくなる。
じわじわと嬉しさが押し寄せてくる。
この方はーー本気で。
「……はい」
もう、誰にも、止められない。




